元カノ 喜村サヤカ
大阪に帰郷して1週間が経過した。この1週間は大阪の友人達とひたすら飲み歩く日々が続いた。俺の帰郷をリクトから聞き、連絡を入れてきた友人がほとんどだった。
連絡してきた友人の中に、今俺が最も会いたくなかった人がいた。正しくは今の俺には会わす顔が無い。
『久しぶり。リクト君から聞いたで。大阪に帰って来たんやね。久々に近々会いましょう』
このメールが来た時はリクトに対して若干の苛立ちを覚えた。あいつには何の意図があって俺の帰郷を彼女に伝えたのか。俺と彼女の関係を一部始終知っている唯一の人間、リクトだからこそだ。
「気晴らしにええやろ!甘えて来いや!」
「俺がサヤカに負い目を感じてるんわ知ってるやろぉ……」
「だからこそや!サヤカちゃんに会ってその負い目を精算してこいっ!なっ?」
喜村サヤカは大学生時代に交際していた女性である。
交際当時、俺は22歳で彼女は19歳だった。知り合ったのは大学のゼミ。先輩後輩の関係だった。若い俺は、新入生だった彼女に一目惚れしてしまい猛烈なアプローチを試み、2ヶ月後には見事交際するまでに漕ぎ着けた。
恐らく、俺の人生でも唯一幸せだったと思えるのは、サヤカと過ごす時間だった。でも当時の俺はどうしようもない馬鹿野郎で、そんな幸せを与えてくれたサヤカに何もしてやれなかったと思う。学生の身分で金も無く、会えば彼女の肉体を欲した。彼女は何も言わず俺の欲望を受け入れてくれたし、誰よりも優しかった。
そんな彼女の優しさに甘え続け、あげく自分勝手に東京行きを決めた。上京する事を伝えた時も彼女は文句すら言わなかった。
きっと離れ離れになる事は誰よりも辛かっただろう。卒業間際にサヤカと離れる事を辛く感じた俺は耐えられなくなり、彼女との関係を終わらせた。すべて俺の都合であった。その時始めて彼女は俺の言う事を否定した。別れたくない。遠距離恋愛でもいい、と。
あの時の涙でグチャグチャになったサヤカの顔は今でも頭から離れず、忘れない。そして俺は彼女から逃げた。
今や後悔だらけの人生だが、もし神様がリセットをさせてくれるなら、俺は間違いなく彼女と出会いからコンテニューするだろう。
謝罪?違う。
やり直す?いや違う。
サヤカは俺に出会わず、もっと違う素敵な男性と過ごして欲しい。
コンテニュー出来るなら、俺はそうするだろう。
部屋でじっとしていると、ずっとサヤカの事を考えてしまい、ますます気分が憂鬱になってくる。俺は何かから逃げ出すように自宅を出た。日が暮れだすと、酷い残暑も終わり、徐々に冬の気配すら感じる。
コンビニに立ち寄り、適当に雑誌を読み流しホットの缶コーヒーを1本買った。目の前を通り過ぎて行く車と帰宅していく人々。自分でも何処を直視しているのかすら解らない程、頭の中を空っぽにしていた。
「こんばんわ」
誰かの声によってグワッと意識を取り戻した俺は、慌てて目線を上に上げた。
「こんな所で何してるんですかぁ?」
大阪に帰郷して一番ビックリした事件第1位の隣の家の娘さんカナちゃんだった。
「カナちゃん、いやボーっとしてたわ。ビックリした」
「ですよね、目線が何処にも合ってませんでしたよ?」
「え、アカン顔してなかった?」
カナちゃんは笑いながら大丈夫でしたよ、と言ってコンビニに入って行った。
カナちゃんとの会話で冷静になり、意識を取り戻した俺はいつの間にか飲みきっていた缶コーヒーをゴミ箱に捨てた。頭をガシガシと掻き、胸ポケットに入れていた携帯電話で時刻を確認した。
夕方の6時。
大阪に帰って仕事もしていないせいか、最近は1日が終わるのが長く感じていた。コンビニから出てきたカナちゃんが、家のマンションの方角を見て歩き出したので、とりあえず俺も帰宅する事にした。
「今日は帰るの早いねんな、バイトとかしてるん?」
「はい。でも今受験やから、あんまり入ってませんけど」
「そうやな、ってかバイト休まんの偉いな。受験勉強出来てるん?」
「頑張ってますよ、大変ですけど」
この時期に受験生が塾にも行かず、まだバイトするって言うのは何かしらの理由があるはずだろう。カナちゃんの家は家計苦しいのか、自分の大学の費用を自分で稼いでるのか、俺は頭の中で色々想像した。
「いや、偉いわカナちゃん。おっさん感心」
「まだおっさんじゃないですよ、若いじゃないですかー」
「いや、おっさんやで。心も体も」
しょうもない事ばっかり言うおっさんに、カナちゃんは屈託無く笑ってくれた。何てええ子に育ったんや、と幼い時のカナちゃんを知る俺は妹の成長を見ている様だった。
マンションに到着し、同じ7階の廊下に辿り着いた。エレベーターから見て手前がカナちゃんの家である。
「ほな、勉強頑張るんやで」
「ありがとうございます」
家に入っていくカナちゃんを見送って、俺も自分の家のドアをゆっくり開けた。
こうやって、真正面からサヤカの顔を見るのは何時ぶりだろうか。付き合っていた当時でも、俺は彼女の事をこんなに真正面から捉えていた事は無かったのかも知れない。
「髪、伸びたな」
「伸ばしてん、卒業してから。ユウト君は変わらへんね、もうちょっとフケたかと思ってた」
「いや、フケたで。色々と」
「なにそれ」
サヤカは笑った。笑ったサヤカを見て、おれも笑っていいのだと思い、つい表情を緩めてしまった。彼女に対する罪の意識が大きくて、俺は会話の主導権を握れずにいた。
サヤカは持っていたヴィトンのポーチから何かを漁った。
「タバコ吸ってもイイ?」
「た、タバコ吸ってんの?」
交際時は嫌煙家だった彼女の意外な行動に、口に含んだブレンドコーヒーを吹き出しそうになった。
「何となく……そしたらやめられなくなって」
もしかしたら、俺と別れてから喫煙を始めたのか?自意識過剰かも知れないが、俺が彼女をその様に変えてしまったのかも知れない。喫煙に至るキッカケなんて聞けるはずもなく、彼女が静かに煙を吸う姿を凝視してしまった。
「何で東京の仕事辞めたん?」
「……わからへん。でもこれ以上あの会社にいても何にもならんなって思ってた」
これ以上は聞いてくれるなと言わんばかりに温くなったコーヒーを一気に口に含んだ。サヤカも察したのか、それ以上は聞かなかった。
アカン、会話が浮かばん。分かっていたけど、気まずい……。
「さ、サヤカ!今は彼氏とかおるんかー?」
(しまった!気まず過ぎて変な事聞いてしもたー!)
案の定、サヤカの動きが止まり結構鋭い目付きで俺の顔を凝視していた。
「……すまん。変な事聞いて」
「別にいいよ」
せめて酒の席でお互い酔ってでもいれば、なんとかなったのかもしれない。気まずい状況で混乱してしまう己のメンタルの弱さにこの時ばかりは絶望した。
「まぁ彼氏はおるけど、結婚とかの予定も無いし、普通」
「お、おお。そうか。彼氏おるんか、そやわな!サヤカぐらい美人やったら誰もほっとかんわな!」
彼氏が居ると聞いて、俺は少し安堵した。サヤカはちゃんと前に進んでいたんだ。きっと俺なんかより優しくて、サヤカの事を想っている男に巡り会えたんだろう。サヤカだけは幸せになって欲しい。それだけが俺の願いだった。
「ユウトさ、これからどうするつもりなん?もうずっと大阪におるん?」
「うん、特にやりたい事も無いし、とりあえず派遣社員とかでも良い何かしらの仕事は探そとは思ってる」
「実家に住むの?」
「そやなぁ。今の所は実家やな。仕事とかでまた変わるかも知れんけどなー」
実家というキーワードで、俺はフッと隣の家の女子高生カナちゃんの事を思い出した。
「そや、めっちゃビックリした事あってん!隣の家の小学生やった女の子がな、こないだ廊下で偶然会ったんやけど、女子高生になっててん!もう6年も経つから当たり前やねんけど腰抜かしてしもてな!」
俺は今までの失態を挽回する様にベラベラと喋り出した。大阪に帰って来て一番インパクトがあったのがカナちゃんだったせいか、やたらと話す言葉が浮かんだ。
いきなりテンション上がった俺にサヤカもビックリしたのか、飲もうとしていたコーヒーを口元で止めて俺の話を聞いていた。
「なぁユウト、女子高生に手出すのはホンマに止めてよ?」
「勘弁して。ってかオカンと同じ事言うなや……」
今日初めて、お互いに普通に笑った。
サヤカの笑顔が見れた。俺はそれだけで満足だった。