都落ち 藤川ユウト29歳
みやこ‐おち【都落ち】国語
[名]
1 都にいられなくなって、地方へ逃げ出すこと。「平家の―」
2 都会、特に東京を離れて、地方へ転勤・転居などをすること。
提供元:「デジタル大辞泉」- 凡例
勇気を出して提出した退職届が、こんなにも簡単に受け取られるなんて思ってもいなかった。
静かに退職届を受け取った部長は、中身を見る事もなく
「うんうん、わかった。藤川くん今までお疲れ様。」とだけ言い残した。
必死で引き留められるとも思って無かったが、少し拍子抜けしたのも事実だった。
「部長、今までお世話になりました」
誰が聞いても理解できる社交辞令の挨拶し頭を下げた。目線だけを俺の顔に向けた部長は受け取った退職届を引き出しにしまい、机の上のパソコンの電源を入れた。
営業成績がダントツで良い訳でもなく、上昇思考やポジティブに仕事に取り組む事もない。会社にしたら俺の様な中途半端な平社員は居ても居なくても良かった。これは俺がネガティブな発想をしている訳ではなく、そうゆう風に会社が俺を扱ってるのは明確になっていたからだ。
この会社に入社して6年と5ヶ月。大学生の就床活動中、特になりたい職業も無く、適当に選択した企業は東京の大手ケーブルテレビ会社だった。まぁどちらかと言うとテレビっ子だったし、他の企業よりは倍率も低かった事もあった。
入社したての時は多少のモチベーションもあったかもしれない。しかしそのモチベーションも日増しに消えていき、とりあえず適当にやっとけ。みたいな勤務が続いた。
「藤川!お前はやる気さえ出せばトップセールスマンになれる器なんだ!」
入社してから3年後に新しく配属されたチームリーダーは個人面談の時に俺を叱咤激励した。そんな一言でやる気なんて出るわけもない。そのチームリーダーは同期であった。
職務怠慢な俺をチームリーダーは見放し、個人宅営業からサービス解約防止担当に異動させた。値段と利用頻度の比率が合わないケーブルテレビサービスを解約する気満々の家庭の解約を直接訪問して阻止する業務なのだが、阻止する気力も無く、さっさと解約の書類を書いて貰っていた。
そして現在、会議にすら呼ばれなくなった俺は、会社から無言の自主退社しろ攻撃を受けていた。もう潮時か。と思ったのは3ヶ月前で、退職届を書き上げたのは2週間前。そして今日に至るわけだ。
我ながら、こんな社員を6年もよく雇い続けてくれたな、と思う。
残った有給の日数から、給料の締め日を逆算すると出社日数は15日。その間は後任者の引き継ぎやら、残った書類の処理。片付けを終わらせた。
さすがに6年も在籍した会社だ。多少の寂しさはある。毎日憂鬱な気分で扉を開けていたロッカー、使い慣れたパソコン。鬱陶しかった営業事務のおばさん。それらすべてに別れをしなければならないのだから。
両親に電話で退職する意思を伝えた時、母親が実家に戻って来いと言った。実家は小さな喫茶店を経営している。常連客しか来ない店だったが、この不況時代の日本では珍しく生き残っていた小さな喫茶店だ。
両親も無理矢理継がすつもりもないみたいだが、このまま何も無く同じ事を繰り返しそうなら、喫茶店を継ぐのも悪くないだろう。まぁ経営なんて簡単に出来るものでも無いから、両親が健在のうちに勉強はしなくてはならないが。30歳目前にもなって親の脛をかじる様な事をするのも若干の抵抗があったのだが、不思議と母親の一言だけで決心が着いた。
確かにこのまま東京に残っても、何がしたい訳でもなかった。仲の良い同僚はいたが、会社を退職してしまえば疎遠になる事は間違い無いし、正直に言うとやはり東京の雰囲気は合わない。
東京に未練が無かった。
そして俺は6年5ヶ月ぶりに地元の大阪に帰る事にした。
『都落ち』
希望と夢を膨らませ、大都会に進出するが、どうしようもない現実とのギャップに夢敗れ、何も得ずに故郷へ帰ってくる。
多少なりとも変わる何かを期待して東京に登ったつもりだったが、こんな俺でもこの言葉は適用されるんだろうか。
「正月ぶりやなぁ。大阪帰るんもー」
夏が終わり、空が高くなってきた。そんな中途半端な時期に俺は故郷の大阪に帰ってきた。地元の駅の周りは上京した時とはあまり変わっておらず、高校生の時に友人とよく行ったどこにでもあるファーストフード店がとても懐かしく思えた。帰って来た。ただひたすらそう感じていた。
「もしもし、おかん?今着いたから向かうわ。なんかいるもんある?」
母親と電話しながら駅からの家路に着く。正月休みでも通った道なのに、今、出迎える懐かし風景は何かが違った。またここでの生活が始まる事に多少の嬉しさがあったのかも知れない。
15分程歩いて、近所のスーパーマーケットに寄り、母親から頼まれたものを購入し、再び懐かしい家路に浸りながら真っ直ぐ実家に向かった。
喫茶店はビジネスビルのテナントを借りており、住まいは少し離れたマンションに住んでいる。俺の両親の世代、所謂バブル世代に建てられた分譲マンションだが、もうすいぶん古臭く感じる。エントランスには32型テレビぐらいの大きさの形を形容しにくいオブジェが置いてあり、子供の頃は気味悪く思っていた。今でも何をイメージして作ったのか理解は出来ない。
7階でエレベーターから出ると、真っ直ぐの廊下に突き当たり、奥から5番目のドアが俺の実家になる。実家のドアの前には、東京から先行して届いた荷物が入った段ボールが積んであった。
「ちゃんと届いてたかー。良かった。」
段ボールの中身を確認する前に、薄茶色のドアを見つめ、息を吸う。ドアノブに手を掛けてゆっくりとドアを引いた。鍵はかかってなく、ドアからの隙間から懐かしい家の匂いが漂ってきた。
『ただいまー』
藤川ユウト29歳。都落ちフリーター。6年5ヶ月ぶりに帰郷する。