白辰狐
その夜遅く、新右衛門は狐火の明るさに気づいて床から身を起こす。こがねのものではない、何個もの燃える珠が闇に浮いていた。
惣堂の隅に、白髪に侍烏帽子を乗せた老人がいた。直垂に大口袴の武家装束を身につけ、すっと背筋を伸ばして端座している。
品のよい老武士といった面立ちのその翁は、朗々と名乗りをあげた。
「東は滋賀の浦望み、西には比叡比良の峰。ここ湖西の地に生うて齢五百年。
それがしは近江の楠葉の白辰狐と呼ばれる老いぼれ狐にございます」
――白辰狐。
新右衛門はこがねから何度もその名を聞いている。
この地一帯の化け狐の頭領、こがねに狐珠を与えて化けさせた張本である。
「貴方さまにこがねと呼ばれておりますあの子も、わが裔でしてなあ。いかに掟とはいえ、あれを独り放り出さねばならぬ状況には心を痛めておりましたよ」
意外にくだけた言葉づかいで、首をゆるゆる振って嘆いてみせたのち、白辰狐はいきなり予想外の方から切り込んできた。
「播磨の長壁狐が近年、すさまじい勢いで人に祟りをなしているという話は聞いておりましたが。
話を聞くと、貴方さまはかの狐ゆかりの家の者とのこと。それが零落してここに流れ、こがねを拾ったと。よくよくわれら狐と縁あるお方ですな」
――いらぬことを言いだしおった。なんのために来たのじゃ。
肚のうちでつぶやいたはずだが、どうも思ったことは向こうに筒抜けであるらしかった。
「これは失礼。
こがねが仔狐を産めるまでに長じたため、道を選ばせに参りました。
されば、結論はすでに出ました。今宵をもって、われらはこがねとあらためて一切の縁を断ちます。貴方さまにあの子を託す運びになり、そのこと何卒よろしく頼み申し上げます」
――待て。いや、お待ちいただきたい。いろいろ申したいことはあるが……まずは縁切りのこと。災いなす狐の群れだと見なされぬためとはいえ、道理ある仇討ちをしたこがねにその仕打ちはやや薄情ではないか。それになぜいまさらわしに念を押しに。
「人殺しを忌む理由はほかにもあるのです。
われら化ける狐は、畜生とは申せども神性を帯びております。生きるためでない殺生に耽る化け狐は、祟り神のごときもの。穢れに染まる行いをたやすく許せば、いずれ古の玉藻九尾がごとき殺戮に淫する妖狐が群れから出かねませぬ」
それにあの子みずからがここに残ることを選んだのですよ、と白辰狐は告げた。
「たったいまこがねに身の振り方を問いました。
地元に置けはせぬが、他所なら掟のゆるい場所もある。望むならば遠国のまずまず高い位にある狐がところに嫁に出してやろうと。ですがあの子は、どうあっても貴方さまについていきたいと申します。それがあれの望みならばそれがしは何も申しますまい。遠国も人界も、狐にとっては薄い膜を隔てた異世のようなもの。
貴方さまに押しつける形となりましたが、むろんただでとは申しませぬ。富のもとを贈りましょうぞ。狐の秘薬を」
こがねに薬草を集めさせておられるようですが、と堂前を指さし、
「原料の草を売るだけでなく、さらにみずから薬を調えて売りなさればよろしい。切り傷に効く華鬘草の薬はじめ、この国の人にはまだ知られておらぬ薬がいくつもあります。こがねに調法を伝えておきました。
加えて、商いをなされば貴方さまは福運をつかむでしょう。これをもってこがねの持参金といたしましょう」
――おい。
「あれを娶るのはお嫌ですか。しかしそれがしは、あれが希望した通りにしてやるだけでございます、最後ですからな。
そのあとのことには関知しませぬゆえ、どうしてもお嫌ならば……どこか遠く、われらが群れとは関わりのない場所で放していただければよろしい。その地の化け狐の仲間となって生きていくでございましょう。
ただしそうなれば商いの加護は打ち切らせていただきますし――捨てられたあとにあれが貴方さまに祟りをなそうと、それも知りはしませぬぞ」
そう言い置くや老人の鼻はにゅっと伸び、口は裂けて笑うようにきゅっと吊り上がった。白い狐の面が現れると同時に、新右衛門の視界がぐにゃりとぶれた。
今度こそ本当に飛び起き、新右衛門は心悸の速まりを感じながら呆然とした。
――夢かうつつか。
うつつだとしたら、とんでもない話を聞かされた気がする。
――福運は願ってもない。代わりにこがねを引き取れというのもまあ、いい。どうせこれまでと変わらぬ。
――だが持参金とはなんだ。わしにこやつを娶れとでもいう気か。
新右衛門は横に顔を向けた。敷いたござの上、こがねが体をちぢめるようにして横向きに眠っている。
彼女の手は、外の縁台に座っていたときと同じく、かれの袖をつかんでいた。
格子のはまった高窓からは月光が入ってきているとはいえ視野は暗い。それでも、少女の閉じられた双眸から新たな涙があふれているのはわかった。
――また泣きおって。泣き虫狐が。
いま流している涙のわけは、同族の狐たちと決別することになったためであろうか。
共に暮らす前のこがねを思い出す。家族を失い、狐仲間から弾かれて、独りぼっちに耐え切れずべそをかいていた仔狐を。
「寂しいと訴えておったくせに。今となって、なぜここに残るなどとたわけたことを……」
悪態を止め、青黒い闇のなかでしばし新右衛門は少女の横顔を見ていた。
おたがいの過去の暗さが、かれとこがねの間にひとつの橋を渡している。
絆といってもいいその心のつながりは、だがふたりのあいだで食い違いを生んだようだった。
こがねがかれに寄せてくる好意は、いつしか変質していたことには気づいていた。稚さゆえの信頼と依存心から、生々しい嫉妬をもたらすたぐいの想いへと変わっていることには。ただかれが見ないふりをしていただけであった。
――男女の情に目覚めようとも、人ならたかだか十三か四じゃ。こんな小娘に選ばせたのがどうかしておるぞ、白辰狐。
――ものごとの見えぬ年頃じゃ。現在懐いておる相手から離れたくないと言うに決まっておるではないか。まともに判断があたうなら、わしのような男のねじまがった底も見とおせたろうに。
自虐と、少女を不憫と憐れむ心が、胸の奥に秘めていたものを吐露させた。
「こがね。わしがおまえと一緒にいられたのは、おまえが笑わぬ娘だからじゃ」
――女と思わないようにしていたから共にいられた。女には、どうしても気が許せぬ。
――ことに笑顔は、虫唾が走る。
母の笑みと脳裏で重なるのだ。一度でも笑いを向けられたら、かれはその女に対してどうしても嫌悪を抱いてしまう。
「わしはおまえの笑みを見たいとはかけらも思っておらぬのだぞ、こがね。おまえを笑顔にしてくれるかもしれぬ遠国の狐に嫁げばよかったものを」
こがねの手を慎重に外して立ち上がる。水を飲んで一息つきたかった。
静かに泣きながら夢を見ている少女が、いかないで、とささやいた気がした。