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あなたの帰り道を描く

作者: 阿久屋 九零乗
掲載日:2026/10/24

 川にかかる橋を指でなぞっていると石門の向こうに白いシャツが見えた。リゼットが顔を上げた時にはもう見知らぬ少年が庭の砂利を踏んでいた。黒いかばんを肩にかけたまま足を止め屋敷を見てから振り返る。門の奥にはいつもどおり刈り込まれた植え込みが続いていた。


 庭師が呼んだ職人にしては若い。屋敷の用事で来る者なら通らない場所だしあんな薄い靴も見たことがなかった。少年は門の下まで引き返して石柱に触れた後リゼットに何かを尋ねた。


「こちらはベルナード家の庭園です。どなたをお訪ねですか」


 返ってきた言葉は一つも分からなかった。少年が庭の出口を指してから自分の後ろを指す。同じことを何度も言い直すので困っているらしいとは分かったがリゼットが立ち上がると彼はかばんを体の前に抱えた。


 追い返そうとしていると思われたのかもしれない。リゼットは地図帳を椅子に置き両手を見せた。すぐ近くの小道にいた護衛を呼ぶと少年の肩が跳ねた。リゼットはそこで待っていてほしいと身ぶりで伝えた。


「この方と言葉が通じません。オルセンを呼んできてください。剣は抜かないでそのままで」


 護衛の一人が屋敷へ向かった。残った一人を少年が警戒している間リゼットは庭の椅子を指した。彼は首を振りかばんから黒い板のようなものを取り出した。


 指が触れると板が光った。リゼットも一歩下がったがそこから何かが飛び出すことはなかった。少年が差し出した表面には建物が写っている。薄い板に収まるはずのない高さの建物だった。見入っていると少年が自分を指しもう一度その絵を指した。


「あなたのお住まいですか。……それを私に見せたいのですね」


 少年は答える代わりに板を操作した。絵が消え別の模様が出る。その上で指を止めてしばらく待ちうまくいかなかったのか口を引き結んだ。画面をリゼットに見せて何かを訴えたがやはり分からない。


 オルセンが来たのはその直後だった。白髪の魔術師は石門を見上げ少年の靴の先まで目を移してから持ってきた箱を開いた。中に入っていた首飾りを自分の手に載せる。


「通訳に使うものです。こちらの方が身につけてくだされば会話ができます。危険はありませんが無理にかけてはいけませんよ」


 リゼットは首飾りを自分の首に当て外して少年に渡す身ぶりをした。彼は迷った末に受け取り留め金を確かめてから首にかけた。オルセンが調子を尋ねると少年は彼とリゼットを交互に見た。


「分かります。今は何を言ってるか分かる。ここ、どこですか。公園を歩いてたんですけど門を通ったら……戻れなくなって」


 話せるようになった途端に質問が続いた。少年が息を継ぐのを待ってリゼットは王国と町の名前を告げた。エルディア王国もローヴェも知らないと言うので地図帳を開いて見せる。彼はページを見ても首を振った。


 名前は高瀬奏太。十七歳と聞いてリゼットより一つ年上だと分かった。日本という国の学校から家へ帰る途中だったという。リゼットが同じ言葉を繰り返すと彼はうなずいたが王国が近隣のどの国と接しているかを説明しても知らないと言った。オルセンが石門に手を近づけると指の前に糸のような光が浮かんだ。


「公爵へお知らせします。この方には屋敷で休んでいただきましょう。門を調べたいので今は近づかないでください」


 奏太はすぐに返事をしなかった。かばんの持ち手を握り門と屋敷を見比べている。客室と食事を用意すると伝えるとようやく彼の手が緩んだ。


 父のアレクシス・ベルナード公爵は奏太の話を聞いた後滞在中の世話と門の調査を命じた。リゼットにも言葉が通じるようになったからと一度に質問しすぎないよう言い添える。見慣れない服や道具について聞きたいことはあったが、夕食を運ばれた奏太がパンにも手を伸ばさないのを見て聞けなくなった。


「ここでの食事の作法が分かりにくければ気にしなくて構いません。パンは手で取っていただいて……」


 奏太は皿から顔を上げた。黒い前髪が片側だけ浮いているのがその時ようやく目に入った。リゼットを見る目は庭で会った時から変わらない。


「家には帰れるんですか。泊めてもらえるのは助かるんですけど帰り方を聞きたいです」


 教えられることから話していた。食事のことなら答えられるが彼が知りたいことには答えがない。リゼットは卓上のパン皿へ伸ばしかけた手を膝に戻した。


「まだ分かりません。オルセンが調べています。分かったことは必ずお伝えしますからそれまで待っていただけますか」


 奏太は「はい」と答え今度はパンを取った。リゼットも自分の皿へ向き直る。それ以上説明を重ねず彼が食べ終えるまで席に残った。


 翌日の午後奏太は庭に面した客間で黒い板を見せてくれた。携帯電話という名前で離れた相手と話せる道具だという。ただしこの屋敷では使えず父と母に送ろうとした言葉も届いていないらしい。話せない理由を説明する奏太自身もどこから話せば伝わるのか迷っている様子だった。


「写真は出せます。昨日の建物は駅で俺の家はこんなのです。これが学校。ほら、窓の数が全然違うでしょう」


 指を滑らせるたびに細かな絵が変わる。写真は絵師が描いたものではないと聞いてもリゼットには仕組みが分からなかった。自分たちの照明よりずっと小さな道具へ町の景色がいくつも収まっている。細長い乗り物について聞くと奏太は別の写真を探し何人が乗れるかを指で数えながら教えた。


 学校の廊下、帰りに寄る店、明るい看板。リゼットは人が写った写真を指して制服とは全員が同じ服を着ることかと尋ねた。奏太は自分の袖を示してうなずきその後でまた家の写真へ戻した。さっき見た建物より低く玄関の前に鉢が置かれている。


「この鉢もお宅のものですか。お花を育てていらっしゃるのは?」


「母さんです。これは父さんも一緒に写ってるやつ。家の中で撮ったからちょっと暗いけど」


 奏太が大きくした写真には食卓が写っていた。二人の大人が並んで座り片方はカメラを見てもう片方は皿を見ている。リゼットが感想を口にする前に奏太は画面の隅を確かめて電話を伏せた。


「電気がなくなると動かなくなるんです。ここでは足せそうにないから切っておきます。帰った時に家へ連絡したいし」


 客間の照明へ目を向けたが奏太はそれではだめだと首を振った。リゼットには直してあげられない。せめて丁寧に包める布を用意しようと思いマルタに頼んだ。奏太は礼を言って電話をかばんにしまい代わりに横線の入った帳面を出した。


 日本の文字は一文字も読めなかった。首飾りの力は話した言葉にしか働かないのだとオルセンに聞いていたが並ぶ記号を見てようやく実感する。奏太が余白に線を引き始めるとリゼットは椅子を近づけた。四角の横に長い道を描き角を二つ曲がった先へもう一つ四角を置いている。


「これが学校。ここから歩いてこの公園を抜けると家に着きます。俺がこっちへ来たのはこの辺。いつもは門なんてないのにあの日だけあったんです」


 石門の絵は大きな建物の写真よりずっと簡単だった。それでも彼がそこを通ってしまったことは分かる。リゼットは家の四角を指して玄関の向きを尋ねた。奏太は入口を描き足し道の続きも書いてくれた。


 三日目の夕方オルセンが二人を庭へ呼んだ。父も同行し石門の前には時刻を測るための器具と調査の記録が並んでいる。奏太はオルセンが紙を開くより先に歩み寄ったがリゼットと目が合うと足を止めた。


「帰る道は作れます。ただし今日すぐには通れません。こちらへ来た日を一日目として二十一日目の夕方に開きます。開いていられるのはおよそ十分です」


 奏太が息を吐いた。リゼットもつられて肩を下げる。だがオルセンが両方の世界で同じだけ時間が進むと説明すると奏太は指を折り始めた。こちらの二十一日目は日本でも家を出てから二十日後になる。


「三週間近くってことですか。その間は連絡できないんですよね。帰ったら朝の続きになるとかじゃなくて」


 オルセンは記録を確かめてうなずいた。手紙を先に通すこともできないし門の向こうの様子を調べることもできない。奏太は携帯電話を入れたかばんに目を落とした後帰る場所を尋ねた。


 門は彼が通った経路を逆にたどる。着くのは元の公園の道で通れる人間は奏太だけ。普段持ち歩ける荷物は一緒に運べるが他の者を連れていくことはできない。通り終えれば道は消え通らなくても十分を過ぎると痕跡は失われる。


「一度帰ったらこの門からはもう来られないんですか。こっちの誰かに連絡することも」


「できません。この経路をもう一度使う方法はありません。今分かることは全て申し上げました。聞いておきたいことがあれば何でも尋ねてください」


 奏太はしばらく考えた後で帰る手順を聞き直した。リゼットも隣で説明を聞き日付と時刻を覚える。異界の仕組みはよく分からなくても彼が自宅までの道を歩けるならうれしかった。あの写真の家へ戻れるのなら庭で困っていた彼を見つけた自分も役に立てた気がする。


 屋敷へ戻ると予定表を開いた。奏太に数字を読み上げ帰る日に印をつける。その手前には自分の授業が書かれていたが午後の空いている時間を探して隣に丸を描いた。


「この時間なら私が町や屋敷のことをお話しできます。あなたの町の地図も続きを見せてください。ここで待つ間に退屈なさらないように」


「助かります。でも授業まで休まなくていいですよ。俺も毎日ずっと質問されたら答えがなくなるし絵でも描いてます」


 急に忙しい予定を作りすぎていたらしい。リゼットは二つ目の丸を描くのをやめ彼の帳面に合う大きさの白い紙を用意した。時間を決めた方が困らないだろうと思ったが来たくない日は来なくてもよいと伝えると奏太は笑った。


 四日目には来た。上等な焼き菓子を選んで待っていたリゼットの前に奏太は丸いパンの絵を置いた。表面の割れ目だけが妙に詳しく皿はただの丸だ。台所で分けてもらったというパンを彼は褒め続けて故郷の揚げパンの説明を始めた。


「それほどお気に召したなら今日も出してもらえますよ。でもこの菓子とは味が違うでしょう。似ているのは形ですか」


「形も違います。甘くないし。でも店先でまだ温かいのを渡される感じが同じでそっちを思い出したんです。甘いのも好きですよ」


 断られたと思った顔をしていたのか奏太は焼き菓子を二つ取った。リゼットが一つでいいと止めると彼はもう食べかけていた方を残す。台所から届いたパンを二人で割ると中から湯気が出た。リゼットは先に菓子を食べたことを少し後悔しパンは全部食べた。


 食べながら描いてはいけませんと注意したのはマルタだった。紙に落ちたパンくずを払ってから奏太が家の地図を広げる。リゼットは何の店か分かるように建物を描いてほしいと頼んだが彼が鉛筆を出したのは店のない角だった。


「ここで犬にほえられるんです。犬ってこっちにもいますよね。大きいやつじゃなくてこれくらいの。俺が通ると必ずこっち見るんですよ」


 描かれた犬は人の背丈ほどもある。実際の大きさを手で示されてからリゼットは地図の縮尺に合っていないと指摘した。奏太は学校の建物も家も大きさがおかしいと言い彼女に直す紙を渡した。


「私が直したらあなたの通る道ではなくなってしまいます。犬がいるのは分かりました。でもここから玄関へどう曲がればいいのかを教えてください」


 奏太は道へ矢印を加えた。その途中には信号というものがあるらしい。色が変わる説明を聞きリゼットはこちらで誰が馬車を止めるかを話した。何も知らない人のために説明しようとすると自分も名前しか覚えていない仕組みがある。


 翌日はリゼットが庭の地図を描いた。奏太の客室から食堂への道を示すつもりだったのに彼は屋外を通る近道を指した。雨の日にはそこを通らない方がいいと教えると昨日もぬれずに戻ってこられたと言う。たまたま屋根のある小道へ入っただけだった。


 その道も線を引き二人で屋敷の窓から位置を確かめた。リゼットが立つと奏太も席を離れるため向かい合うより隣へ椅子を移した方がよい。彼に頼む前にマルタがもう一脚を運んできて二人の間に置かれた紙を端へ寄せた。


「マルタの道も描いておけば迷いません。あの人は私より早く庭を抜けますから。お急ぎでない時は私の道を通ってください」


「どっちも同じ場所に着くんでしょう。じゃあ時間がある日は長い方でいいか。俺も学校の帰りは公園を通るし」


 リゼットは自分も町の道を描けると答えた。ローヴェの橋、図書室、市場。地名を並べると奏太は図書室に興味を持った。文字は読めなくても本や地図を見るのは好きだというので父に外出を頼むことにした。


 六日目は互いの文字を書いた。奏太は高瀬が家の名で奏太が自分の名だと説明する。リゼットは紙に見本を書いてもらい形を見てまねた。筆を使う彼女と違い奏太の鉛筆は細い線を引ける。消せることまで知ると一度貸してもらわずにはいられなかった。


「高瀬さんの名は難しいですね。……奏太とお呼びしてもいいですか。私も家の名よりリゼットと呼ばれています」


「もちろん。俺もリゼットって呼んでいいですか。その方が紙に書く時も名前を間違えなさそうだし」


 奏太は彼女の文字で自分の名を書いた。最後の線を一本多くつけたためリゼットが横へ書き直す。彼は間違えた方を塗りつぶそうとしたがそれでは紙が汚れると止めた。結局そのまま残し正しく書けた名を囲むことになった。


 七日目に教わった言葉は少し長かった。奏太が首飾りを外して言い再びかけて意味を説明する。リゼットは聞いた音を自分の国の文字で書き留め一つずつ区切って読み上げた。彼は途中で区切らずにつなげた方が分かると言う。


「いってらっしゃい。……これで合っていますか。お帰りをお待ちしていますという意味ですか」


「うん、合ってる。出かける人に言うんだ。気をつけて行ってきて、みたいな。うちは毎朝母さんが言うんだけどあの日は返事しなかった」


 リゼットが顔を上げると奏太は鉛筆を回した。進路について朝から聞かれて嫌になったのだと話す。母親が嫌いだからではなくまだ決めていないことの説明をしたくなかったらしい。彼は鉛筆を置き家の前に描いた鉢を指でなぞった。


「帰ったらまずそれを謝らないと。進路の話はまだ答えがないけど心配かけてごめんくらいは言えるし。そもそも母さんがそんな話を覚えてるか分からないけど」


 リゼットは父に何を聞かれても覚えている答えを探して返していた。領地を継ぐために学んでいるのだから分からないことがあってはいけないと思っていた。まだ決まっていないとは言わない。奏太が家へ帰った後の話をするのを聞いて、朝のあいさつに返事をすることまで帰還の日を待たなくてはいけないのだと気づいた。


 次の午後には彼の席の前に鉛筆を置いておいた。自分の筆記具ではないがかばんから出す手間が省ける。奏太はそれを見て彼女の筆を置く側へ消しゴムを一つ寄せた。リゼットは何も消す予定がなかったのに受け取った。


 八日目の面会が終わる頃図書室へ行く許可が出た。翌日はマルタと護衛が二人つく。父が距離と滞在時間を聞いたのでリゼットは用意した地図を見せ自分が案内すると答えた。地図にある道を順に通れば難しいことはないはずだった。


 町へ下りる道は屋敷の門から続いている。リゼットは奏太の足に合わせて歩こうとしていたが図書室までに何度も足を止めた。彼が何かを見つけるたびにこちらへ顔を向けるからだ。荷を運ぶ馬車をよけ店の看板の文字を読んで教える。焼きたてのパンの匂いがすると奏太はどの店から出ているのか探した。


「帰りに寄りましょう。先に橋を渡ると図書室があります。そこからなら川沿いに戻ってこられますよ」


 細い路地の先でリゼットは立ち止まった。橋の入口を木の柵がふさぎその向こうで人が板を外している。通行止めと書かれた札が下がっていた。手にした地図ではここを通れば目的地まですぐなのに。


 別の橋を探して紙を開く。下流にはあるがこのまま川沿いへ出る道が描かれていない。いったん来た道を戻れば大通りへは出られる。その先で曲がる場所を指で追っていると奏太が隣に立った。


「遠回りになるなら向こうの店で聞いてみない? 歩いてきた人もいたし別の道がありそうだけど」


 その店はパン屋だった。道を知っているだろうとはリゼットにも分かる。けれど自分がここまで連れてきたのに店の人に尋ねるところを奏太に見られたくなかった。地図の別の線をたどる手が止まるとマルタが声をかけた。


「お嬢様、この先の道をご存じかどうか聞いてみましょう。私も工事が始まってからここを歩いていません。地図は開いたままで構いませんよ」


 リゼットは紙を畳まず店先へ歩いた。店主はすぐに橋が通れないと教えてくれた。知っていますと言いかけて代わりに図書室へ行きたいと伝える。店主の指は地図に描かれた道より上流を示した。


「今はここに仮橋があります。この小道へ入れば見えますよ。図書室は昼にいったん閉めるから今から行くなら長居はできませんね」


 リゼットは仮橋の位置を余白へ書き足した。礼を言って店を離れると奏太が紙を見ようとしている。見せながら歩いたが地図の角が指の間で折れた。さっき橋へ向かう時には気にしていたのに今は直す余裕がない。


「その道なら地図で知っています。……自分で歩いたことはありませんけれど。古い地図だと最初に言っておくべきでした」


 リゼットがつぶやくと奏太は紙から顔を上げた。困っているような表情をするのでかえって居心地が悪くなる。行き止まりへ案内したことを謝ると彼は予定に間に合うならいいと答えた。屋敷の見事な地図帳を見せた時から彼はきっと自分がこの町をよく知っていると思っていたのだろう。


「でもいつもここを歩けばいいのに。屋敷の地図を描く時も楽しかったしこっちを歩いたら描くものが増えるでしょう」


 リゼットは道の端へ寄った。後ろから来た馬車が通りすぎるまで返事を待ってもらいついてきている護衛へ目を向ける。足だけあれば来られるような言い方が引っかかった。奏太には知りようのないことなのに言葉が硬くなる。


「私だけでは出かけられません。護衛の予定もありますし父に行き先を伝える必要もあります。授業もありますからいつもは無理です」


 奏太が前を歩くマルタを見た。その視線に気づいた彼女は次の角で待っていた。リゼットは早く歩こうとしたが奏太が短く謝ったので足を止めた。


「そうだよね。俺が出かけるためにも予定を変えてもらったんだ。自分が暇だからって同じつもりで言った。今日は案内してくれてありがとう」


 軽い調子のまま終わらせない返事だった。リゼットも礼を受け取って図書室へ向き直る。奏太が屋敷にいる間もこちらの都合を考えていたことを思い出す。本人が暇だと言うからといって待つ時間まで気楽なのだと決めてはいけなかった。


 図書室では道を尋ねたおかげで閉館前に席へ着けた。奏太が手に取ったのは挿絵の多い本だったが読めないのでリゼットが見出しを説明した。彼は絵を描く時の参考にしたいと言い紙へ窓の形を写す。リゼットも棚から町の資料を選び仮橋が載るほど新しい地図があるか職員に聞いた。


 帰りには約束どおりパン屋へ寄った。道を教えてくれた店主に図書室へ着けたと告げ人数分のパンを頼む。マルタの分も護衛二人の分も数えると奏太が自分の分を受け取った。屋敷へ帰る前に食べていいのかと聞いたのはリゼットではなく彼の方だった。


 昼の食卓で母はリゼットの靴のことを聞いた。かかとが痛くなっていないか確かめられ平気だと答える。読んだ本の話より歩いた道の話をしていたので母は茶を飲んでから午後の勉強を詰めすぎないよう言った。リゼットは橋を渡れなかった話をするのをやめかけたが奏太が間違えたわけではないので自分から話した。


 夕方には父の執務室へ行った。アレクシスは眼鏡を外して娘の話を聞き机の上の書類をよけた。リゼットが地図を置いて仮橋の位置を示すと父は別の紙を引き出しから出した。橋の修繕の報告だった。


「工事をしていることは知っていました。でもどの橋かを確かめていませんでした。報告を読んだ時には橋の名前を覚えて終わっていたんです」


 橋の名に指を置くと父はその横へ地図を並べた。位置を確かめるよう言われリゼットは同じ場所を探す。読めない資料ではない。授業で問われたら工事の開始日も費用も答えられたはずなのに出かける前には思い出さなかった。


「現地を見れば質問も変わるだろう。図書室にも行ったなら運営の報告がある。読んでみるか。興味がないのだと思って私の方で済ませていたが」


 リゼットは父を見た。自分はまだ何も言っていない。机の上に出された薄い紙を受け取ると父は眼鏡をかけ直さず待っていた。開館時間の記録を見つけ今日聞いた時刻と同じだと確かめる。


「教えていただきたいです。次の視察にも同行できますか。全部分かってからでないと邪魔になってしまう気がして……でも今日分からなかったことを知りたいので」


 父は予定帳を開き次の視察の欄へ印をつけた。打ち合わせに同席するなら準備する資料があると言われる。リゼットはそれも受け取り分からない箇所を尋ねてもいいか確認した。父の「もちろんだ」という返事を聞いてから執務室を出た。


 翌日の客間で奏太にその話をすると彼は描きかけの町の地図を広げた。新しく入った仮橋の線が少し斜めになっている。見たとおりだと説明されリゼットは自分の紙の方を確かめた。細い小道を描き忘れていたので書き足す。


「俺の描いたの、道を直すのに使えそう? 長さはちゃんと測ってないからそっちはリゼットの方で合わせてほしいけど」


「使えます。あなたの絵は目印がよく分かりますから。あの店の看板も描いていただけますか。私は名前を書けば分かると思っていましたけれどあなたには文字が読めませんものね」


 奏太は紙を回して看板を描いた。リゼットはその下へ店の名を書く。自分の字を彼が読めるようになるのにはきっとずっと時間がかかる。予定表へ目を向けたがまだその日は先だった。帰還の日より翌日の打ち合わせに何を持っていくかを考えた。


 十二日目の午後は雨だった。二人で窓から近道を見て、雨が吹き込まないか確かめていた。窓から小道を見ているとリゼットの髪のリボンがほどけ結び直す間に彼は窓枠の絵を加えていた。横へ移ろうとして紙の端に自分の髪らしい線を見つける。尋ねると奏太は鉛筆を置いた。


「窓の大きさを描くつもりだった。人がいる方が比べやすいから。似てないなら消すけどまだ目とか描いてないし」


「消さなくていいです。大きさを比べるなら立ったところを描きますか。背は百五十八センチですから正確にできますよ」


 奏太は正確な方が困ると笑った。リゼットも笑ったが彼が続けて紙を見ているので窓へ顔を向ける。自分が描くより窓は細くその前にいる人はまだ輪郭しかない。彼が何度もこちらを見るのを意識しすぎて雨の小道に関する説明は途中で終わった。


 次の日奏太は家の周りの地図がほぼできたと告げた。リゼットが見たいと言うと帳面をこちらへ寄せる。学校から公園へ進みあの犬のいる角を曲がる。家の入口までの線を追うとページの端に家の中の絵が描かれていた。


「ここで靴を脱ぎます。上がってすぐは廊下で奥に食卓がある。写真で見せた場所だよ。たぶん母さんがそこで待ってるからまず顔を見せる」


 リゼットは鉢の位置も覚えていた。食卓の形は写真より簡単だったが奏太が話せば椅子の位置も分かる。帰った彼が玄関からその部屋へ行くところを思い浮かべる。あの写真にいた父と母の顔を今度は横に置けばいい。


「顔を見たら怒られるだろうな。どこにいたって聞かれて公爵様の屋敷って答えたら話が余計ややこしくなる。どう言おうかまだ考えてる」


 奏太は困った顔をして笑った。リゼットも笑うところだったのだと思う。ところが喉が詰まり返事の代わりに家の屋根を指した。ここは二階建てなのかと尋ねると奏太は絵を描き足してくれた。


 その家へ彼は帰る。リゼットは場所も道も教わったのに一緒に行けない。地図の余白へ書こうとした日本語の音が出てこなかった。読み方を聞き直すこともできず鉛筆を置いたまま説明を聞いた。


「二十一日目もうすぐだね。予定表の印まであと一週間くらいか。いつ帰るのか分かってるのは助かるけど家には先に教えられないから」


「そうですね。準備が間に合わなくならないように今のうちにお荷物を確かめましょう。こちらで必要なものがあればマルタに言ってください」


 世話役の返事ならできた。奏太が鉛筆を止めてもリゼットは予定表を見ていた。彼が帰るという話をすればその日は楽しい時間になるはずだった。帰り方を知りたいと聞かれた晩からそう思っていた。


 十四日目は授業の後に父との打ち合わせを入れた。午後に来られないとマルタから伝えてもらい自分では客間へ行かなかった。十五日目も資料を読む時間にする。必要な勉強ではあったがその時間でなくてもよかった。


 紙に書かれた橋の費用を確かめていると廊下を歩く足音が聞こえた。奏太かもしれないと思って顔を上げる。違うと分かるとがっかりしてまた費用を見た。何度同じ数字を見直したか分からなくなり読んだ位置へ鉛筆で印をつける。隣の席に置かれていた消しゴムは客間に残したままだった。


 十六日目の朝マルタがドレスの袖を整えながら予定を聞いた。リゼットは午後も資料を読むと答え帰還前の奏太に時間を取らせないためだと付け加えた。マルタは結び終えたひもを服の内側へ収め机へ予定表を置いた。


「奏太様は昨日も客間にいらっしゃいました。冊子をお持ちでしたからまだ描くものがあるのでしょう。今日もいつもの時刻に来るそうです」


 リゼットは予定表の丸を見た。二日前も昨日も自分の字でつけた印が残っている。行けないと伝えておけば何も問題はないはずだった。だが彼が冊子を持っていたと聞くと続きができていないことが気になった。


「完成するところまで待っているのですか。私の方は一人でも進められます。あとで見せれば間に合いますから」


「それでしたらご本人にお話しくださいませ。私は予定を伝えられますが絵の相談はできません。まだ午後まで時間がありますよ」


 マルタが退室するとリゼットは資料を開いた。読みかけの位置の印を見つけても続きへ進めない。帰る準備の邪魔をしたくないのなら途中の絵を待たせてはいけなかった。昼食の後で資料を閉じ何も持たずに客間へ向かった。


 奏太は窓際の机にいた。冊子と呼べるように紙を順番に重ねまだ糸を通していない。手元には彼の故郷の地図があり彼女の席には町を描いた紙が置かれていた。消しゴムの位置も変わっていない。


「今日は来てくれたんだ。忙しいのにごめん。渡そうと思ったんだけどまだ見てもらってないページがあって。俺の描いたの、何か嫌だった?」


 リゼットは椅子の背に手を置いた。家へ帰る話がつらかったと言えば彼を困らせる。忙しかったと答えればこのまま席へ着ける。だがあの家の絵を見る前は時間を過ぎても次の話を探していた。


「絵が嫌なのではありません。いつ続きを描こうかと考えると帰る日まで何日かを数えてしまうんです。高瀬さんが帰れると分かった時はうれしかったのに今は……同じように喜べなくて」


 呼び方まで初めに戻ってしまった。リゼットは奏太の顔を見ず椅子の背を握り直す。分かったと言ってもらえれば資料を読む時間が必要なのだと続けられる。奏太は紙を机へ置き彼女の席を引いた。


「俺も帰りたいって話ばっかりした。家のことを考えると帰ったら何て言うかが先に出てくるんだ。でもここを離れるのは寂しいよ。リゼットと話す時間がなくなるのも嫌だ」


 リゼットは椅子に座った。彼に帰りたいと言われるのが怖かった。けれど聞かなければ彼の家はなくならないしあの門へ行く日も変わらない。奏太は彼女に戻ってくると言わず描いた地図を二人の間へ広げた。


「どっちを言っても変になる気がして家で怒られる話にした。あれも本当だけどそれだけじゃない。こっちにいる間は続きも描きたいしできたらリゼットに見てほしい」


「私も見たいです。あなたが好きな道を全部教えてほしい。でも話していただいたらまた寂しくなると思います。それでもよければ続きを聞かせてください」


 奏太は彼女の前へ鉛筆を置いた。リゼットは受け取って町の地図を開く。仮橋の位置から書き足すつもりでいたのに窓の線へ先に目が向いた。自分の姿の輪郭が残っている。彼の帳面にも同じ窓の絵があった。


 帰る前に互いの冊子を交換しようと決めた。奏太はローヴェの地図を持ち帰りリゼットは日本の町の地図を受け取る。彼の紙は彼女が読めるように絵を増やす。自分の紙も奏太が知っている場所を詳しく描く。貸すのではなく贈るとリゼットが言うと奏太はページの並べ方を考え始めた。


 十七日目はパン屋の看板と窓を描き十八日目は家までの道の説明を聞いた。知らない言葉は短いものだけ書いてもらい読み方を横に記す。奏太もリゼットの書いた自分の名を何度も練習した。消しゴムを使いすぎると紙が薄くなるので彼女は新しい紙を出してやった。


 十九日目に製本工房の者が屋敷へ来た。二人は紙の順序を決めて渡し糸でまとめてもらう。奏太はその作業を見たがりリゼットも横で見ていた。中に一枚空白があることを尋ねられると奏太は自分であとから描くと答えた。


 帰還の前日にオルセンが時刻を確認しに来た。二人は席を立って聞き荷物に紙を入れてもよいか改めて尋ねた。首飾りは最後に返せばよく説明を聞いてから外しても支障はない。約十分という時間についても前と同じ答えで手順が変わった箇所はなかった。


 リゼットは冊子の余白へ時刻を書きかけた。だがその紙は奏太が持っていく。門を通った後は必要のない数字だと気づき別の紙へ記した。奏太は彼女の手元を見て留め金を自分で外せるか一度試した。


 夕方には互いの冊子を机の両側に置いた。完成したのにリゼットはまだ渡したくなかった。明日になったら持ってくると言うと奏太もうなずいた。客間を出る前に彼が席の鉛筆をかばんへしまうところを見る。リゼットは扉の取っ手に手をかけたまま彼の「明日」を聞いて返事をした。


 二十一日目の朝奏太は黒いズボンと白いシャツを着て食堂へ来た。こちらで用意した服にはついていない硬い襟が目に入る。本人は襟の内側を確かめ洗ってもらった服がきれいになったことを喜んでいた。初めて会った日に着ていた制服なのにリゼットには昨日までの服の方が彼のものに見えた。


「借りた服は客室に置いてあります。畳み方が違ったらすみません。上着も洗ってもらってかばんに戻せました」


 奏太はマルタに礼を言い席に着いた。リゼットも朝食を取る。パンを割る音がよく聞こえ彼が茶を飲む間には自分の皿を見る。午後に庭へ行く時刻までに何を話すか考えていたのに今この席で出てくる言葉がなかった。


 奏太が渡す冊子を最後に確かめたいと言ったのでリゼットは自分も部屋へ戻った。装丁を終えた紙の縁を指で押さえる。開くと町の地図のほかに庭の道やパンの絵がある。どれも奏太に見せたことのあるページで新しく描けるものは思いつかなかった。


 扉が開いてマルタが入ってきた。髪を結び直そうとする手に任せリゼットは冊子を膝へ置く。今日はどのリボンにするかと聞かれたのでいつも使っているものを選んだ。町を歩くためではないから髪はいつものようにまとめておけばいい。


「これを渡す時に説明することはもう覚えているんです。でも何か忘れそうで。今から見直しても同じページを読んでしまいます」


 マルタは髪を結び終えてから冊子を受け取った。開いて確認はせずリゼットが持ちやすいよう表紙を閉じて戻す。最後にリゼットの顔を見てから身支度の道具を片づけた。


「お持ちになれば忘れません。説明を聞き逃したら奏太様が尋ねてくださいますよ。お嬢様も分からなければ聞いてくださいませ」


 リゼットは冊子を抱えて庭へ出た。石門の近くにはオルセンの器具が置かれ父も少し離れた場所に立っていた。奏太は自分のかばんを足元へ置き手に持った冊子の角をそろえている。彼がこちらを見つけるとリゼットも歩みを速めた。


「俺の方もできた。途中まで見せたから先に開いても驚かないと思うけど。最後のページだけは今日描いたんだ。変だったら……そこは閉じてていいから」


 冊子を交換すると奏太はすぐに表紙を開いた。こちらで書いた彼の名を指で追いこれなら読めると言う。リゼットも最初のページからめくった。玄関までの矢印は丁寧になり揚げパンの店には入口の位置が描き足されている。分からない文字の横には自分が覚えた音で読める短い名前があった。


 彼は説明をしなくても分かるように直してくれたのだ。図書室へ行った道を彼が指すとリゼットは仮橋のところを示す。修繕中の橋は消していない。工事が終わればそちらも通れると教えると奏太は両方描いてあってよかったと言った。


「そこは屋敷に戻る道も載せました。あなたが迷わなかった方と私が案内した方です。間違った道はありませんけれど遠回りの方が多く描いてあります」


「その方が覚えてる。パン屋の看板もこれなら俺に分かるよ。窓のページもあるんだね。机まで入ってる」


 リゼットは同じ窓が描かれた彼の冊子をめくった。次のページで手が止まる。窓を向く自分の顔が描かれていた。髪をまとめるリボンも片手を置く机もある。雨の日に見た輪郭だけの絵とは違い目と口が入っていた。


「私、そんな顔をしていましたか。もっとよく説明しているつもりでした。口が閉じているので話していないところですね」


「話してない時を描いた。説明してくれてる時はずっとこっちを見るでしょう。その顔を見ながら描くのは無理だった。今も、見るのがちょっと……」


 奏太は言葉を切って自分の冊子へ目を戻した。リゼットは絵を見たままあの窓へ顔を向けていた午後を思い出す。彼が見るたびに気になって雨の道の話をやめていた。その時の顔を知らないのは自分だけだった。


 門の方でオルセンが器具を動かした。まだ始める時刻ではないと声をかけられリゼットはうなずく。奏太も返事をして彼女の描いた窓のページを閉じた。もう読み終えたのにリゼットの冊子は絵のところで開いたままになっていた。


「奏太、もう少しいてほしいです。帰れることを喜んであげたいのに今もそう思っています。あと一日だけでも一緒に描けたらって」


 奏太が彼女を見た。首飾りがまだあるので言葉は伝わっている。リゼットは冊子を閉じて両手で持った。言ってしまえば彼が返事をしなくてはいけなくなる。けれど黙って送り出したら自分には分からないままになることが残る。


「帰るのをやめてほしいとは言いません。私はあなたが好きです。それを知らないまま帰ってほしくなくて。地図の続きを見たいだけではなかったんです」


 奏太はかばんの横へ冊子を置いた。彼女の手を取りかけて止め自分の手を体の横に戻す。リゼットは冊子を片腕で抱え空いた方の手を差し出した。彼が指を重ねてくると鉛筆を持つ時よりも硬く握っていた。


「俺もリゼットが好きだよ。毎日話してくれるからここでもちゃんと寝たり食べたりできた。町へ行った日も楽しかったし絵を描いてる時に隣へ来てくれるのもうれしかった」


 その返事を聞きたかった。彼の指を握り返すと奏太も手を緩めた。だがまだ帰る話は終わっていない。リゼットは靴の先へ目を落とし彼が続けるのを待つ。彼は庭の出口より石門の方を見た。


「それでも俺は家に帰る。母さんと父さんに顔を見せたいし心配させたことも謝りたい。リゼットを連れていけたらって思ったけどそれはできないから」


「はい。あなたの家までの道は覚えました。角を曲がる順番も、玄関の場所も。……あそこへ帰るんですね」


 奏太はうなずいた。まだ分かる言葉で話せるのにリゼットはその先を聞けない。あの家で何が待っているかは知らないし彼にも今は分からない。握った手を放さなければ困らせるだけだがすぐに指をほどくこともできなかった。


 オルセンが時刻を告げた。二人とも彼の方へ顔を向ける。石門の間にあった植え込みが光に隠れ向こうを見通せなくなった。リゼットは奏太の指を最後に一度握ってから自分の手を離した。冊子を両腕で持ち直すと手の行き場ができる。


 奏太が足元のかばんを開いた。リゼットの冊子を中へしまってからオルセンへ礼を言う。続いて首飾りの留め金を外し、彼の手に返した。昨日一度試していたので手間取らなかった。リゼットへ向き直って何か言った時にはもう彼の言葉は知らない音だった。


 奏太は話すのをやめ彼女の腕にある冊子を指した。リゼットもうなずいて表紙を押さえる。何度も教わった言葉を思い出した。途中で区切らない。声が途切れそうになればもう一度初めから言えばいい。


「いってらっしゃい、奏太」


 彼が顔を上げた。聞き取れたかどうか確かめようと口元を見ると奏太はうなずいた。かばんのひもを肩へかけ直し自分の足で門へ歩く。リゼットも半歩動いたがそこから先は進まずに見送った。


 白いシャツが光の中へ入った。かばんの黒いひもが見えなくなりすぐに庭の植え込みが戻る。門の向こうには人がいなかった。リゼットは横からものを見る時のように首を傾けたが石柱の奥にも奏太はいない。


 冊子の縁が腕に当たって痛かった。力を緩めると紙が落ちそうになりまた抱え直す。オルセンが器具を片づけ始める音を聞いてもう待つものがないのだと分かった。父が名を呼んだがそちらへ顔を向ける前に涙が出た。


 手の甲で拭くと表紙をぬらしてしまう。何も言わずに立っているとマルタが布を差し出した。受け取って目を押さえても庭へ戻った植え込みを見るたびにまた涙が出る。門が閉じたら泣くだろうとは思っていたのにこんなに息が続かなくなるとは知らなかった。


「マルタ、屋敷まで一緒に歩いてください。まだ歩けますからここにいたいわけではないんです。でも一人では戻りたくありません」


 マルタは冊子を預かろうとしたがリゼットは首を振った。持っていたかった。代わりに腕を借り庭の小道へ足を向ける。彼が描いた雨にぬれにくい道ではなく今まで自分が通っていた道を二人で歩いた。途中で何度も目を拭き屋敷の扉をマルタに開けてもらった。


 翌朝は起きてからしばらく着替えられなかった。椅子に載せた冊子を見て午後に続きを聞くつもりだったことを思い出す。もう完成している。ページを開けば家の入口までの矢印も分かるのに説明する声は聞けなかった。


 食卓には父と母がいた。奏太の席はもともと客のための席で今は皿が置かれていない。リゼットはそこを見ないようにしてパンを取った。食べ終える頃には茶が冷めていて母が新しいものを注ごうとしたので大丈夫だと答えた。


 父が席を立つ前に呼び止める。以前見せてもらった予定帳に次の視察の日が書いてあった。昨日までの予定から奏太がいなくなったことと自分の予定までなくしてしまうことは別だ。うまく声が出なかったので一度茶を飲み言い直した。


「次の視察には私も同行したいです。打ち合わせで聞いたことを現地で確かめたいので。橋の工事がどこまで進んだかも自分で見たいと思っています」


 父は予定を変えていないと答えた。待ち合わせる場所と時刻を確認するとリゼットは手元の紙に記す。母は今日の図書室への外出も行くのかと尋ねた。行くと答えてから行けるかどうかではなく自分が行くかどうかを聞かれたのだと気づいた。


 部屋へ戻るとマルタが服を用意していた。町歩きに使った靴は磨かれて窓際には傘もある。リゼットは自分の描いた小さな地図を手に取った。仮橋の線が入りパン屋の看板が目印になっている。奏太の冊子は机の引き出しへしまわず読みかけの本の隣に置いた。


「図書室へ行ってからパン屋へ寄ります。今日は開館の時間を調べましたから急がなくても大丈夫です。帰る道を変えたくなったら相談しますね」


 マルタは傘を持ち護衛が待っていると教えた。リゼットは扉まで行ってから一度机を振り返った。冊子はそこにある。持っていかなくてもなくならないので何も取りに戻らず部屋を出た。


 町の坂を下りると荷馬車に道を譲ることになった。奏太がいれば窓から見た馬車との違いを尋ねただろうと思い答える言葉まで考えてしまう。隣にはマルタがいて荷を引く馬が通りすぎるのを待っていた。リゼットは馬車の行き先が市場かどうかを彼女に聞いた。


 修繕中の橋には同じ札が下がっていた。木を運ぶ人の通り道を空け以前教わった小道へ進む。仮橋が見えたところで地図を開かずに角を曲がれた。図書室では職員にあいさつをして前に探した町の資料をもう一度借りる。読みたい場所へ印をつけておき次の視察で聞くことを紙に書いた。


 帰りのパン屋には丸いパンが並んでいた。リゼットが店主へ声をかけると店の奥から焼き上がった分も運ばれてきた。温かい方を頼もうとして人数を数える。自分と奏太、マルタ、それから護衛が二人。


「五つ、お願いします。……いえ、四つです。私が間違えました。温かいものを四ついただけますか」


 言い直した後で唇を閉じた。泣きそうになったが店主はパンを取るため後ろを向いていた。リゼットは地図を持つ指を緩めマルタの方を見る。彼女は何も尋ねず包みを受け取る場所を空けてくれた。


 店主が戻るとリゼットは代金を払った。四つ入っていることを確かめ包みから一つずつ出して渡す。マルタも護衛も受け取った。最後に残った自分のパンは両手に持ってからまだ温かいうちに割った。

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