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# 第60話:大地の礼と、新たな旅立ち



「……テラ、なのか……?」


 地王が、ゆっくりと目を開いた。

 エルダの懸命な回復魔法がその全身を包み込んだ後、彼を蝕んでいた悍ましい腐りの瘴気は完全に霧散していた。失われていた理性が、少しずつ、だが確実にその瞳に戻ってくる。地王の視線が、迷うように、泳ぐようにしてテラへと向けられ――そして、焦点が合った。


「私は……一体、何をしていたのだ……」


「父上」


 テラは地王の犯した過ちを責めるような言葉は、何一つ口にしなかった。ただ、冷たい石畳に膝をついたまま、震える父の大きな手を両手でぎゅっと包み込んだ。

 地王の濁りのない瞳が、愛娘の姿を捉える。

 頭部から伸びる硬質な角を。背後で揺れる長い尻尾を。そして、肌に浮かぶ地龍の紋様を。かつてないその異形を前に、地王の目が激しく揺れ動いた。


「お前の、その姿は……」


「生きています」


 テラが静かに、だが万感の思いを込めて言った。


「私たちがこうして生きて、言葉を交わしている。……それだけで、十分でしょう」


 地王はしばらくの間、何も言わずに黙っていた。己の犯した罪の重さと、それでも自分を救ってくれた娘の姿を、ただじっと見つめていた。


 それから、彼は大きな手を伸ばし、テラの小さな頭を強引に引き寄せると、壊れ物を扱うようにそっと抱きしめた。


 言葉なんて、もう必要なかった。


 その涙ぐましい光景に、シアはたまらず目元を両手で押さえた。フィリアはもう我慢の限界を迎えたように、小さくしゃくり上げて嗚咽を漏らしている。エルダはかける言葉が見つからないとでも言うように、静かに、優しく目を逸らした。

 俺もまた、かけるべき言葉が見つからず、ただ黙ってその親子の再会を見守っていた。

 ◇

 それから間もなくして、玉座の間の入り口にガルドが現れた。その後ろには、ようやく意識を取り戻した四天王たちの姿があった。

 誇り高い大男のグラムが先頭に立ち、ドルグ、ラグナ、シェイルがそれに続く。四人とも戦いの傷跡でボロボロだったが、その瞳には確かに、かつての誇り高き正気の光が宿っていた。


「……地上の、庭師…いや、アルトよ」


 地王がテラを抱く腕を解き、ゆっくりと巨体を立ち上がらせて、まっすぐに俺を見据えた。広大な玉座の間に、肌がヒリつくような重みのある沈黙が落ちる。


「我が一族の、そしてこの大地の命を、救ってくれたな」


「勘違いしないでください、ただの仕事ですよ」


「仕事、か。ふっ……仕事にしては、随分と泥臭く、我が民の心の深くまで踏み込んでくれたものだ」


 地王が、静かに頭を下げた。

 地の底を統べる偉大なる王が、一人の地上人の少年に向かって、深く頭を垂れたのだ。それに倣うように、テラモ、四天王たちも、ガルドも、胸に手を当てて同じように一斉に頭を垂れた。


「心からの礼を言う。アルトよ。お前がいなければ、我が国は滅びていた」


 これには、さすがに少し困ってしまった。こういう大層な儀礼や作法というやつが、しがない庭師である俺にはどうしてもよく分からないのだ。


「そんなに畏まらないでください。……それよりも、もう一度だけ、この国に来てもいいですか? 地脈の間引いた部分が、ちゃんと正常に回復しているか確認しにきたいんです」


「ふはは! いつでも、何度でも歓迎しよう」


 地王が豪快に笑った。かつて俺たちを初めて謁見の間に迎え入れたときの、あの穏やかで慈愛に満ちた笑顔が、ようやくその顔に戻っていた。


 そして地王の視線が、今度はゆっくりとテラへと移る。


「テラよ」


「何ですか、父上。そんな改まった顔をして」


「アルトが、お前の絶えかけた命を救ったのだな?」


「……ええ。彼の手入れがなければ、私は今頃冷たくなっていました」


「して。その、姿が変わってしまったのも……その男の仕業か?」


「……そうです。彼が接ぎ木なんていう無茶をしたせいです」


 それを聞いた瞬間、地王が再び俺を睨みつけた。その眼光の鋭さは、さっきの感謝の眼差しより三割ほど尖っている。


「ならば、責任を取れ。アルトよ、今すぐテラをめとるがいい」


「へっ……?」


「聞こえなかったか? 娶れと言っているのだ」


「いやいやいや、ちょっと待ってください! なんでそうなるんですか!」


「アルトよ、我が娘は地脈の守護獣たる地龍の力を得た。並の民では、もはや彼女の伴侶は務まらん。地の民の王族として生きていくには、それ相応の強き伴侶が必要なのだ。お前が彼女の身体を変えたのだ、お前が最後まで責任を持て」


「いや、あれは緊急事態で――」


「ちょっと待ったぁぁぁーーーっ!!」


 そこへ、猛烈な勢いでシアが俺たちの間に割り込んできた。


「アルト様は私のものです! 取るなら私を通してからにしてください! 先着順なんですからねっ!!」


「ちょっとシア、先着順って何ですか、はしたない」


 エルダがやれやれと額を押さえながらも、その瞳の奥には静かな炎が灯っていた。


「ですが、シアの意見には同感ですわ。アルト様には既に、将来を約束すべき候補が身近にいるのですから」


「ちょっと、その候補って誰のことですか、エルダさん!?私も立候補しますっ!!」


 フィリアが元気よく、だが顔を真っ赤にしながら手を挙げた。


「アルト様は誰か一人のものじゃありません! みんなのアルト様なんですっ!!」


「いや、それもそれで絶対に違うからね!?」


 女の子三人が一斉に怒鳴り合い、喋り始めた。

 その騒ぎを、テラは胸の前で腕を組み、長い尻尾を機嫌よさげに揺らしながら眺めていた。


「……相変わらず、賑やかな奴らだな」


「テラ、お前はいいのかよ。父親が勝手なこと言ってるんだぞ」


 俺が助けを求めるように話を振ると、テラはジッと俺の顔を見つめてきた。一拍置いて、その綺麗な口の端が意地悪そうに、僅かに吊り上がる。


「私をこんな身体にして、傷物にしてくれたのだ。……男なら、責任くらい取ってもらわねば困るな」


「おい……」


「まあ、今すぐどうこうしろと急かすつもりはない。お前が男としての覚悟を決めるまで、私はいくらでも、気長に待ってやるさ」


「ちょっと、テラさんまで何言ってるんですかーーーっ!!」


 シアが頭を抱えて絶叫する。


「そもそも、今はこんな場所で痴話喧嘩をしている場合でもないだろう」


 テラがふっと表情を引き締め、真剣なトーンで言葉を続けた。


「お前には、まだ地上でやらねばならないことが残っているはずだ、アルト」


 テラの瞳の奥に、鋭い復讐の炎が宿る。


「あの、白い翼の連中だ。私の国を、無辜の民を、そして父を――あんな無惨な目に遭わせた元凶どもを、このまま野放しにしておくつもりか?」


「……いや。奴らは必ず、俺の手で追うつもりだ」


「ならば、私も連れて行け」


「テラ、お前は――」


「地龍の力を得た今の私が、お前の足手まといになるとでも思っているのか?」


 テラは一歩前に出て、俺の目を真っ直ぐに見据えた。


「これは私の私情でもある。我が国を蹂躙したあの羽虫どもには、相応の落とし前をつけさせなければ、私の気が済まない」


 地王はその娘の力強い言葉を聞いて、満足そうに深く頷いた。


「うむ、よく言ったテラよ。ならば、花嫁修業がてら、地上の旅へ行ってくるがいい」


「花嫁修業ではありません、父上。戦いの旅です」


「そうかそうか、では旅の修業だな」


 テラはやれやれと深いため息をついた。しかし、その表情に嫌そうな色は微塵もなかった。


「シア、フィリア、エルダ」


 俺は三人の女の子たちを振り返った。三人とも、ひどく複雑で、不満げな顔をしながらも――それでも、最後には観念したように首を縦に振った。


「も、もうっ……仕方ありませんっ……!!」


 シアがぷくーっと唇をこれ以上ないほど尖らせる。


「でも! 旅の間もアルト様の隣を歩くのは、絶対に私の場所ですからね!?」


「あら、お隣の『定義』次第では、私がそこをいただくことになりますわね」


 エルダが何食わぬ顔で涼しく言い放つ。


「ちょっとエルダさん!? 隣の定義って何ですか、不穏なこと言わないでください!!」


 三人が再びわいわいと騒ぎ出す中、テラがふらりと俺のすぐ傍まで歩み寄ってきた。

 そして、俺の耳元に顔を近づけると、吐息が触れるほどの距離で囁く。


「これから、改めてよろしく頼むぞ――」


 一拍の、不敵なタメ。


「……旦那様」


 一瞬、玉座の間が完全な静寂に包まれた。


「「「だ、旦那様ぁぁぁーーーっ!?!?」」」


 三人の驚愕の叫び声が、一糸乱れぬ見事なハモりを見せて部屋中に木霊した。


「テラさんっ! 今のは明らかな反則です! 抜け駆け禁止って言ったじゃないですか!!」


「ふふっ」


 テラが、いつもなら見せないような少女らしい声を漏らして、悪戯っぽく笑った。

 俺は盛大に天を仰ぎ、深い、深い溜め息を吐き出す。

 ……世界の手入れは終わったはずなのに、どうして俺の周りはこうなってしまうんだ。


(第60話 終)

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