ガラス越しの午後
コーヒーが冷める前に気づけばよかった、と思う。
田中沙織がその男に気づいたのは、ラテを受け取るために顔を上げた瞬間だった。カウンターから二つ離れたテーブル席。窓際の白い光の中で、彼は文庫本を開いていた。
志村颯。
名前を口の中で転がすだけで、胃のあたりがすうっと冷たくなった。大学時代の同じゼミ。卒業論文の発表会の前日、終電を逃して二人で歩いた川沿いの道。それから三年、一度も連絡していない。
— —
沙織は窓に近い端の席に座り、ノートパソコンを開いた。画面を立ち上げながら、視界の端で彼の動きを追う。颯はまだ気づいていない。ページを静かにめくっているだけだ。
二十六歳になった今、沙織は都内の出版社で校正の仕事をしていた。誤字を探し、句読点の位置を直し、他人の書いた言葉を整える日々。うまくいっている、とは言えない。かといって、どこかが壊れているわけでもない。ただ、何かがうっすらとずれたまま動いているような感覚が、ずっと胸の底に沈んでいる。
そのずれの名前を、沙織はずっと考えないようにしてきた。
— —
「田中さん?」
声は思ったより近くから来た。顔を上げると、颯が立っていた。文庫本を閉じ、少し戸惑ったような顔で沙織を見ている。
「やっぱりそうだ。久しぶり」
「……志村くん」
言葉が遅れた。三年分の沈黙が、一瞬で喉の前に積み上がる気がした。
「よかったら、隣いい? 少しだけ」
断れなかった。いや、断りたくなかった、というほうが正しいかもしれない。
— —
颯は今、地元の長野でウェブデザインの仕事をしていると言った。東京には打ち合わせで来ていて、明後日には帰るという。話し方は昔と変わっていない。ゆっくりとしていて、無駄がなく、どこか遠いところを見ているような目をしている。
「仕事、楽しい?」と颯が聞いた。
「楽しい、というか……なんか、自分に合ってる気がする」と沙織は答えた。「人の書いたものを読んで、ちゃんと届くように整える仕事って、地味だけど。好きなんだと思う」
「それ、昔から変わらないね」
「え?」
「田中さんって、誰かの話を聞くとき、全部ちゃんと受け取ろうとしてた。俺、それ覚えてる」
胸の中で何かが静かに揺れた。
— —
卒業の日、颯から電話がかかってきた。出なかった。それだけのことだ。理由は今でもうまく言えない。怖かったのか、自分の気持ちを認めたくなかったのか、それとも何かが変わってしまうのが嫌だったのか。
翌日、着信履歴を見つめながら、沙織はそのまま画面を暗くした。
その後、颯からの連絡は二度と来なかった。
— —
「あのとき、電話した」と颯が言った。唐突に、でも静かに。
沙織は手の中のカップを見つめた。コーヒーはもう冷えていた。
「うん、知ってる」
「出なくてよかったと思ってる」
顔を上げると、颯は窓の外を見ていた。
「あのときの俺、何を言うかわかってなかったから。ちゃんと言葉にできないまま電話して、たぶん、余計なことしてたと思う」
「……そんなことない」と言いかけて、沙織は止まった。
そんなことない、とは言えない。あのとき自分が何を恐れていたのか、三年経っても整理できていないのに。
「志村くんは、後悔してる?」
颯は少し考えてから、静かに首を振った。
「してない。なんか、あれはあれでよかった気がする。……ちゃんとしてなかった自分が言える言葉じゃなかったから」
その言葉の意味を、沙織はゆっくりと飲み込んだ。
— —
一時間ほど話した。たいしたことではない。共通の知人の近況、仕事の話、好きな本のこと。それだけだ。再会の感動も、積もった恨みも、劇的な告白もなかった。
颯が席を立つとき、沙織は自分から聞いた。
「また連絡、してもいい?」
颯は少し意外そうな顔をして、それから穏やかに笑った。
「うん。俺も聞こうと思ってた」
— —
カフェを出て、沙織は駅とは逆方向に歩いた。別に用はなかった。ただ、このまま地下鉄に乗り込む気になれなかった。
夕方の光が低くなって、ビルの窓をオレンジに染めている。自分の影が細長く伸びて、歩くたびに揺れる。
颯が言った言葉を、沙織はもう一度頭の中で繰り返した。
——ちゃんとしてなかった自分が言える言葉じゃなかったから。
そうか、と思った。あのとき颯も、ちゃんとしてなかったのだ。自分だけが逃げたわけじゃなかった。それだけのことが、なぜか今になってようやく、沙織の胸の底に落ちてきた。
ずれていたものが、少しだけ、元の場所に戻るような感覚があった。
まだ何かが始まるのか、それとも何かがただ終わるのか、沙織にはわからなかった。でも今夜は、それでよかった。
冷えたコーヒーと、窓ガラスに揺れる光と、三年ぶりに呼んだ名前。
それだけで、今日は十分だと思った。




