第3話 働いたことありませんけど!? 異世界令嬢、挑戦の時!
老婦人に手を引かれ、メルフィーナは不安でいっぱいだった。
見知らぬ街、聞き慣れない音、そして独特な香り。
金属が擦れる音、軽やかなベルの音、そしてどこからか漂う甘く香ばしい香り——。
(ここは……本当に私がいた世界なの?)
胸の奥にじわりと不安が広がる。しかし、老婦人の温かな手が、それをわずかに和らげてくれた。
(この匂い……何かしら?)
貴族の屋敷で漂う花や香水の甘い香りとは異なり、ここに満ちているのは、香ばしく温かみのある匂い。深く煎られた豆の芳醇な香りが鼻をくすぐり、どこか懐かしさを感じさせる。
「ここさ。私がやってるカフェだよ」
老婦人が指差したのは、木造の温かみのある建物だった。
入り口の上には、『CAFÉ LUMIÈRE』とエレガントな筆記体の看板。
扉を開くと、ふわりと香ばしい香りが鼻をくすぐる。
(この香り……? なんだか落ち着く)
深く煎られた豆の芳醇な香りと、甘いバニラやシナモンの香りが混じり合い、まるで暖炉の前にいるような心地よさを感じた。
「おばあちゃん、おかえりー……って、え?」
店の奥から、短めの黒髪の青年が顔を出した。カフェの制服らしき黒いエプロンをつけた彼は、メルを見るなり、目を見開いた。
「……誰?」
「メルフィーナっていうんだよ。この子、道に迷ってたみたいでねえ」
老婦人がにこやかに説明すると、青年——響は眉をひそめた。
「迷子って……この服、どう見ても普通じゃないし」
彼の視線がメルのドレスを値踏みするように動く。純白の生地に繊細な金糸の刺繍が施され、裾には上品なレースがあしらわれている。その格式高いデザインは、一目でただの衣装ではないと分かるものだった。
(たしかに……この世界では、この服装は普通ではないのね)
メルは貴族らしい気品を保ちつつ、軽く会釈をした。
「初めまして。メルフィーナ・ランビエールです。突然お邪魔してしまって申し訳ありませんわ」
響は驚いたように目を丸くした。
「めっちゃ丁寧……まるで貴族のお嬢様みたい」
(その通りですけれど……)
メルは苦笑した。
そんなやり取りの最中、老婦人は席にメルを座らせると、「まずは温かいものを」とカップを差し出した。
「これは……?」
「コーヒーさ。体が温まるよ」
湯気の立つ黒い液体が、カップの縁からゆらゆらと立ち上る。その熱気とともに、芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。
香りは濃厚で、深みのあるローストの香ばしさの中に、ほのかにスパイスのような苦みが混ざっているように感じられる。
一口含むと、舌の上に広がるのは初めて味わう濃厚な苦み。その直後、まろやかなコクがゆっくりと広がり、微かにカラメルのような甘みが後を引く。喉を通るときに感じるわずかな渋みが、余韻として口の中に心地よく残る。
「……不思議な飲み物ですわね」
メルはカップをじっと見つめ、湯気の立つ黒い液体の向こうに広がる未知の世界を思い描く。
この世界には、まだ知らないことが溢れている。その事実に少しの不安を覚えながらも、心の奥底には言葉にならない高揚感が広がっていた。
「ねえ、おばあちゃん。この子、どうするの?」
響の問いかけに、老婦人は穏やかに微笑んだ。
「行くあてがないなら、しばらくここで働いてみたらどうだい?」
「……働く?」
メルは瞬きをした。
(貴族の私が……働く!? そんなこと、今まで考えたこともなかったわ!)
あまりの衝撃に、思わずカップを落としそうになる。
でも、このままでは生きていけない。
(……この世界で生きていくには、何かしなければならない)
メルは意を決して口を開いた。
「……もし私にできることがあるのなら、お手伝いさせていただけませんか?」
こうして、貴族令嬢メルフィーナの 「異世界で働く」 という新たな挑戦が始まった——。
→次回:異世界令嬢、居候生活始めますわ!
温かなカフェで迎えた、異世界での新たな一歩。
しかし、働くという概念に戸惑うメルフィーナ。
カフェの仕事とは? そして、彼女は無事に役目を果たせるのか——?