第2話 異世界の令嬢、日本で迷子になる!
(現実感がない……!)
眩い光に包まれた直後、重力に引きずり込まれるような感覚とともに、冷たい地面の感触が足元に広がる。
しかし、身体の奥底がまだふわふわと浮いているようで、足が地に着いているのかすらわからない。
鋭い冷気が頬を刺し、衣服の隙間から入り込む寒さに思わず身を震わせる。指先に触れる地面は硬く、粗い石畳の感触が伝わる。微かに湿った空気が漂い、かすかに油や煙のような匂いが鼻をくすぐった。
目を開けると、そこには見たこともない光景が広がっていた。
(……何? この街……?)
どこまでも高くそびえる建物。壁には見たことのない絵と文字がびっしりと並んでいる。
けれど、その文字の形は、まるで魔術師が描く符号のように意味不明だ。
人々は皆、宙に浮かぶような細長い椅子に座り、奇妙な金属の箱が勝手に動いている。
異様な轟音を響かせながら猛スピードで通り過ぎていく。タイヤの軋む音、金属がぶつかるような響きが次々と耳を打ち、メルは思わず耳を塞ぎたくなった。
行き交う人々は、軽やかな薄手の衣服をまとい、どこか無機質な印象を受ける。皆が手元に小さな四角い板を持ち、それに視線を落としながら歩いている。まるで、そこに何か特別な魔道具でも映し出されているかのようだった。
言葉を失い、メルはただ呆然と立ち尽くした。
メルが立ち尽くしていると、周囲の人々がざわめき始めた。
「ねえ、あれ見て! すっごいドレス!」
「映画の撮影かな?」
「いや、さすがに目立ちすぎでしょ……」
メルは驚いて振り返った。
すれ違う人々が明らかに自分を不思議そうに見つめている。
それだけならまだしも、何人かは手に持っている小さな板をこちらに向け、カチカチと音を立てながら操作していた。
(まるで、見世物みたい……!)
王宮の舞踏会で視線を集めることには慣れている。だが、ここで向けられる視線は、興味と困惑、嘲笑の入り混じった奇妙なものだった。
しかも、彼らはあの小さな板を手に取り、何かを記録している……?
(この世界の礼儀として、貴族の身なりを記録する習慣でもあるの? それとも……?)
「な、何なのよ……」
不安が一気に押し寄せる。
この世界の常識が全く分からない。
まるで、自分が見世物にされているかのような視線が突き刺さる。
なぜ彼らは、あの奇妙な板のようなものをこちらに向けているのか?
まるで魔法のように、彼らの指がその表面を滑らせるたびにカチカチと音が響く。その小さな動作が、異様に映る。
(もしかして……何か、記録されているの?)
気づいた瞬間、背筋が凍りついた。
この世界では、何をするにも訳が分からない。道端の人々の動作すら、理解できないことばかり。
喉が渇くような感覚に襲われ、メルは震える唇を噛み締めた。
(と、とにかく、この場を離れないと……!)
メルはスカートの裾を持ち上げ、慌てて歩き出した。
しかし、右も左も分からない。
周囲を見渡しても、見知ったものは何一つない。
目に入る建物はどれも異様な形をしており、どこまで続いているのかもわからない。
心臓が早鐘のように打ち始める。
目に飛び込んでくる看板の文字は、何かの模様のようにしか見えず、まるで異国の暗号のようだった。
(読めない……何一つわからない……!)
焦りが募る。
人々が行き交う中、自分だけが取り残されたような感覚に襲われ、足がすくみそうになる。
(このままじゃ、どこにも行けない……どうすれば……?)
息苦しさを感じ始めたその時、すれ違う人の視線に気づいた。
じろじろと見られ、ひそひそと何かを話されているような気がする。
逃げなければ。
知らない世界の中で、一人きりになる恐怖が、メルを突き動かした。
「だけど……どこへ行けばいいの?」
焦りが募る。
足早に歩くが、見知らぬ建物や鉄の箱が次々と目の前に現れ、一向に状況は改善されない。
それどころか、すれ違う人々が不審そうに彼女を見る。
(どうしよう……!)
足がもつれ、バランスを崩しそうになった。
その瞬間——
「危ない!」
ふわりとした温かい手袋に包まれた手が、メルの腕を支えた。
驚いて顔を上げると、そこには柔和な笑みを浮かべた老婦人がいた。
「おやおや、そんな格好でどうしたんだい? まるでヨーロッパのお姫様みたいだねえ」
優しい老婦人の声に、メルは胸の中の不安が少し和らいだ。
「えっと……私……」
何と言えばいいのか分からない。
まさか、「別の世界から来た」などと言っても信じてもらえないだろう。
「寒くないのかい? そんな薄着で歩いていたら風邪をひくよ」
「え、ええ、大丈夫ですわ」
老婦人はメルをじっと見つめ、その姿に幼い頃の孫の姿を重ねた。かつて、孫が迷子になり、不安げに震えていたあの時と同じ表情をしている。ふと思い出したように、優しく微笑んで言った。
「そうだ、もし行くあてがないなら、私のカフェで温かいお茶でも飲んでいかないかい?」
このまま街をさまよい続けても、どこにもたどり着ける気がしない。
メルは少し迷ったが、老婦人の優しげな笑顔に、思わず頷いた。
「お世話になってもよろしいのかしら?」
「もちろんさ。ほら、こっちへおいで」
老婦人に手を引かれ、メルは小さな一歩を踏み出した。
彼女にとって、この世界での最初の“頼れる人”との出会いだった。
(もしかしたら、この方に何か情報を聞けるかもしれないわ)
メルはそう考えながら、老婦人の家へと向かった。
こうして、異世界令嬢・メルフィーナの“日本での迷子生活”は、ようやくひとつの方向へと動き出したのだった。
→次回予告「働いたことありませんけど!? 異世界令嬢、挑戦の時!」
行くあてのないメルフィーナに、老婦人が差し伸べたのは「ここで働いてみたら?」という提案だった。
「……働く?」
貴族令嬢として育った彼女にとって、それはあまりにも突拍子のない話。
しかし、異世界に放り出された今、自分の力で生きていかなければならない。
「私に……できることがあるのでしょうか?」
働くという選択肢に戸惑いながらも、メルフィーナは新たな一歩を踏み出すことを決意する——!