雨の下にて
唐傘の上で雨音が跳ねていた。
連日の大雨だった。土砂降りで町景色が霞み、欄干の上から覗いた川は濁流で押し流されている。柳は雨風に翻弄され、俯いた枝の葉先から絶えず水が滴っていた。
ここまで視界が煙るとは思っていなかった。お偉方を愉しませる宴で三味線を弾いた。演奏の中に、屋根を叩く雨の音が加わった。
下駄の音が雨にかき消される。
三味線箱を担いで帰路に就いた。唐傘とで両手が塞がり、着物の裾も濡れた。立方の娘は気を遣って早々に置屋へ帰ってしまった。空が白む頃になっても景色は朦朧としており、雨の幕に町並みが透けて見えるだけだ。
暗黙の了解となっているため、女将には咎められまい。それでも早く帰るに越したことはなかった。商売道具の三味線を濡らすわけにもいかない。自然と早足になる。下駄の歯が泥濘を跳ねた。
水滴が滴る唐傘の下だけが許される視界の向こうで、跳ねる雨粒がこちらへ向かってくる影を形作っていた。随分と大きい。まるで大荷物を積んだ大八車を牽いているかに見えた。この大雨の中で荷を運ばなければならない急用があるだろうか。まだ夜が明けて間もないというのに。
自然と通りの端に寄った。相手は通る幅が大きく、こちらが道を譲るのが筋というものだ。ついでに好奇心をくすぐられた。雨に打たれながら荷を運ぶ人物の素性を探ってやろう。きっと、後ろめたいことがあるに違いない。
相手が近づくにつれて、何かが不自然なことに気づいた。雨で不鮮明とはいえ、一向に大八車を牽いているであろう人物の輪郭が定まらない。ただ大きく盛り上がった荷物の背が雨天に聳えているだけだ。
目をよく凝らした。断続的な吐息だけが、雨音の中でもはっきりと届いた。つい先刻にも耳にした、男の乱れた息遣いにも似ていた。
大きな足音が、水しぶきを上げた。
影の正体は大八車を牽いた人夫の類だろうと誤認していた。堆く積み上がった荷は背中で、雨に打たれた犬と同じく、姿勢を低くした四足の何かがこちらへ向かってくる。
長屋の屋根に届く高さにも関わらず、その姿は見えなかった。この雨が輪郭をなぞり、不可視の獣を束の間に浮かび上がらせているのだ。
人ならざるものとわかっても、足は止まらなかった。思考が麻痺し、危険に対して鈍感になっていた。唐傘を叩く雨の音が遠く聞こえる。漫然と下駄を進め、ついには見えない獣の大きな鼻先とすれ違った。
獣の息遣いとともに、声が聞こえた。
「禁を破ったな」