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大仏参り  作者: 目262
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 教授とアミは直後に東京へ引き返した。京都での滞在は僅か2時間足らず、何処にも立ち寄らず、土産物などは一切買わなかった。

 彼は帰りの新幹線で行きと同様、いや、更に強烈な敗北感に打ちひしがれ、肩を落として座席に座ったまま殆ど何も語らなかった。エリコからお礼の電話がアミのスマホにかかってきた時に、短い言葉を交わしたのみである。彼の余りの消沈ぶりにアミは、ナカムラ夫人と会話した内容を聞き出そうとしたが、相手は遂に何も言わなかった。東京に着いた教授はアミと別れてそのまま帰宅した。翌日は講義がなかったので大学には来なかった。

 その次の日、改めてエリコと両親が大きな菓子折りを持参して教授の研究室を訪れ、1分間に3回の割合でお礼の言葉を述べた。教授の方は精神的なダメージから幾分立ち直っていたので、苦笑いを浮かべながら応対する。あの日の夜、彼らがナカムラ夫人から受けた説明によると、結婚前のナカムラ博士と夫人が初めて旅行したのが京都大仏で、その思い出を懐かしむために衝動的に京都を訪れたとのことだ。その言葉を彼らが本気で信じたのか、或いは信じたふりをしているのかは教授にはわからなかった。そしてエリコは始終、憧れのロックスターを見るような目で彼と会話していた。結果として、教授がエリコに何らかのハラスメントを行った件は有耶無耶になった。

 こうして、ナカムラ夫人失踪の騒動は終わりを告げ、教授の周囲は平凡な日常に戻った。

 ある日の午後、講義を終えた彼はお好みの缶コーヒーを啜りながら物思いに耽っていた。

『テストの成績は悪いし、講義もサボってばかり。はっきり言って君は馬鹿な落ちこぼれだ。しかしそれでも目の付け所が人とは違う。その性質は学者に向いている。多少やり過ぎて、変な学者になるかもしれんがね』

 未だ学生だった彼に、担当教授のナカムラ博士が言った科白を思い出していた。その言葉で彼は研究者の道に進むことを決意した。非科学的だが今になって思い返すと、京都に向かう新幹線の中で、夢を見た自分にあの言葉が甦ったのは、おそらく博士からのある種のメッセージだったのだと彼は解釈した。

 困っている息子と孫娘を助けてやれ、但し、深入りはするな。

 そう言いたかったのではないか。ナカムラ夫人も、博士が彼を京都に連れてきたと語っていた。あの時、家族の顔を見ていなければ、夫人はあと数日は帰らなかったかもしれない。そうなったらエリコは心労で倒れていただろう。自分は夫人を連れ戻す役目を与えられたのだ。

 だが、教授はやり過ぎてしまった。

 方広寺でナカムラ夫人の姿を確認した時、彼は密かに心の中で快哉を叫んでいた。自分の予想が大当たりしたことに有頂天になっていたのだ。その勢いに乗って、ナカムラ夫妻の過去を聞き出そうとした。それは単なる好奇心に過ぎなかったのに。

 50年以上も2人で守り通してきた秘密を、赤の他人がずかずかと踏み入って暴きたてようとしたのだ。ナカムラ夫人が怒るのは当然だ。

 あの逢魔が刻、魔物に取り憑かれていたのは夫人ではない、俺だ。だから、あのような手酷いしっぺ返しを受けたのだ。結局、夫人ははっきりしたことは言わなかった。そして俺はあの人に全く歯が立たず、手も足も出せずに完敗したのだから。

 あの時の有り様を思い出し、教授は深い溜め息を吐いた。なんと浅ましいことをしてしまったのか。やはり俺は、探偵役など務まらない。そんな資格はないのだ。

 ナカムラ夫妻は、子孫に罪悪感や負い目を持たせたくなかったのだろう。だから故郷を捨て、過去の自分を捨てた。京都大仏の焼失は純粋な火事であって事件性は全くないが、それが彼らの責任の取り方であり、意地だったのだ。教授はこれ以上、この出来事を追及する気はなかった。なんと言っても50年も経っている。誰も幸せにしないことを敢えてやる必要などない。

 だが……。

 教授はふと、あることを仮定した。あの時代、世界史に残る大事件であったオイルショックが起きなかったとしたら、それによって日本経済が大打撃を受けなかったとしたら、5代目の京都大仏が再建されていた可能性は充分にある。大仏の歴史が後世に受け継がれていれば、ナカムラ夫妻もそのまま京都に残って、なんの瑕疵もない人生を送っていたかもしれない。そう思うと、彼は人間の儚い立場にやるせなさを感じざるを得なかった。

 教授が悲しげに窓の外の風景を眺めていると、扉を開けてアミが入ってきた。

「先生、聞きましたか?」

 唐突に質問を受けた教授は、訳もわからず目をしばたたかせる。

「エリコがアメリカに留学するんですよ」

 初耳だ。余りにも急な話に教授は驚く。

「あの子、成績優秀で学年トップなんですよ。それで前からお爺さんから薦められていたけど、今度はお婆さんが強く言ったんです。精神力を鍛えてこいって。本人も自分の情けなさに嫌気が差していたらしく、本気で勉強してくるって。奨学金が出るから、お金の心配はないそうです。今すぐって訳じゃないけど、今年中には行くみたいだから、うちのサークルで歓送会やる時は参加してくださいね」

 教授は頷いた。缶コーヒーが急に旨くなった気がする。

「エリコ、お爺さんみたいに学者になるみたいです。そうすれば先生と同じ職場になれますからね」

 どういう意味なのか。教授は怪訝な顔をする。

「先生が、エリコの目標になったんですよ。今回の件で先生はあの子を助けたし、なんと言っても初恋の相手ですから」

 教授は口にしていたコーヒーを吹き出した。

「え、気づいてなかったんですか?彼女が小さい時に一緒に遊んでたんですよね。私だってすぐにわかったのに、鈍すぎるでしょ」

 教授はますますむせ返り、それは暫く止むことはなかった。

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