決意/チュートリアル/
地に落ちた小枝を踏みながら、半端に整備された山道を進む。節々の痛みが身体を重くし、足を踏み出すのを躊躇わせる。それでも先に進む原動力は「生きたい」だ。父さんがその命を賭して守った命を、むざむざ無駄にしたくは無かった。
手斧は墓代わりに作った血濡れた砂山に突き立てたままだ。持ち運ぶには重すぎたし、あれは父さんのものであって僕のものでは無い。
父さんが死んで五日が経った。山岳地帯にて、狩猟を生業として暮らしていた親子にとって、父の死は間接的な致命傷だった。僕が手斧を握ったところで、火を起こすための薪割りでさえ満足にできない。食べ物はすぐに底をつき、僕は誰かを頼らざるを得なくなった。
母さんは僕が物心つく前に家を出ていた。父さんとの会話で、母さんの話題が出たことは無い。他の家庭に出会うこともほとんど無かったので、ほんの二、三年前まで自分は父さんの腹から生まれたのだと思い込んでいたほどだ。
そんな僕の目を覚まし、いろいろな知識を授けてくれた相手がいる。僕はいま、その人の下に向かっている。頼れる相手はもうその人しかいないし、何より彼なら力になってくれるだろうという確信があった。
日差しを遮る枝葉が薄れ、柔らかな日光が全身を溶かすように降り注ぐ。道にできた手押し車の轍がハッキリと見てとれ、彼の家が近いことが伺えた。
森が開ける。
そこには木造の一軒家が建っていた。近くには清らかな小川が流れ、小さな菜園には赤かぶや白菜、大根などが育ち、ちょうどそれらを収穫する人影があった。
「ガンギス叔父さん!」
僕が名前を呼ぶと、人影はすぐに気づいてこちらを見た。
「……ん? お、おぉ、ケリーか! どうしたんだこんなところに一人で……全身傷だらけじゃないか!」
「傷は……ここまでくるのに藪の中を進んだからで、でも見た目ほど痛くはないんだ。こんな傷なんかよりも、実は父さん、父さんが……」と、その先の言葉を詰まらせていると、ガンギスは僕の背中に手をやって前へ押した。
「とにかく、家に入ろう。痛くないのは麻痺してるからだ。あと数日で痛みが酷くなるぞ。……何があったかは、治療の後ゆっくり話そう」
僕は無言で頷き、ガンギスの導くままに彼の家へと招かれた。
ガンギスの家の中は綺麗とまではいかないまでも、十分に片付けられていた。棚や机には古い本が積まれ、それらが放つ独特な匂いには全く慣れない。
「痛っ、……っ」
「少し、我慢してくれよ」
ガンギスは十字が描かれた木箱から、消毒液を取り出し、それを僕の傷口につけた。脱脂綿が赤く染まる様は十分に痛々しい。だからこそ、血溜まりができるほどの流血の異常さを、身を持って思い知った。
ガンギスは最後に軟膏を塗ると、よしと言って顔を上げた。
「一旦これで大丈夫だ。安静にな」
彼が治療に手慣れている理由は、手を見ればすぐにわかる。ガンギスの手は古い傷でいっぱいだった。『弟は、頭は良いがドジですぐに怪我をしていた』と父さんが言っていたのを思い出した。
不意に思い浮かべてしまった父さんの顔にまた涙目になってしまう。
ガンギスが言う。
「さて、それじゃあ何があったのか話せるか?」
僕は涙目のまま頷いた。
「……怪物が、コウモリみたいな怪物が現れて、父さんが食べられたんだ。僕は何もできなくて、どうやって生きていけばいいのかも分からなくて、どうしようもなくてここに来たんだ」
「……そうか、死んだか」とガンギスは目を伏せながら答えた。僕にとって父さんは唯一の家族だった。ガンギスにとってもそうであるということに、僕はこの時まで気づいていなかった。
ガンギスが続けて言う。
「お前は、どうしたい?」
「どうって……」
「敵を取りたいか? それともただ人生を全うしたいか?」
「そんなの……」
そんなこと考えるまでもない。僕は生きるためにここまで来たのだ。父さんのむせ返るような最期を目にして、あの怪物に挑もうなんて思えるはずもない。救ってもらった命を自ら捨てるようなものだ。
父さんの言葉を思い出す。
『いいか、命ってのは大事なモノだ。何よりも尊いんだ。だから、俺たちの命の為に、動物や植物の命を貰うときは感謝しなくちゃいけない。ありがとうって言えって意味じゃないぞ? 必ずしも伝える必要はないんだ。命を失えば皆等しく果てのない旅が始まる。その旅の無事を祈るんだ。心の底からな』
そうして、怪物のことを思い出す。あの邪悪で下卑た笑い声を。
果たして、父さんは無事に旅立てたのかだろうか? 祈られなかった者の旅は苦難を極めると言う。だから僕たちは他者に祈る。やがて自らが旅立つ時に祈って貰えるように、他者愛を持って生きるのだ。
僕は確信する。あの怪物は、絶対に、旅の無事など祈っていない。
僕は決意を叫ぶ。
「……敵討ちだ。僕は父さんの敵を討ちたい! あの怪物を殺して、父さんが無事に旅立てるようにするんだ!」
ガンギスは肯くと「それじゃあ、まずは身体を休めるんだ」と言って部屋の奥へと消えていった。僕は愛想をつかされたのではないかと不安になった。こんな子供が何を言っているんだと思われていないだろうか。
戻ってきたガンギスの手には二本の木刀が握られていた。
「今のままじゃ、敵討ちなんてできないだろう。だから、本当にやるつもりなら俺が稽古をつけてやる。少なくとも戦いにはなる筈だ……やるか?」
ガンギスの目は鋭い。それは僕の全身を優しく貫いている。
「やる。やらせてください。僕を、怪物を殺せるくらい強くして下さい」
ガンギスはにやりと笑って応える。
「わかった。まずは身体を治してからだ」
僕もそれに笑顔で返す。すると油断したからか、耐え難い眠気に襲われた。椅子から崩れそうになるのをガンギスに支えられて、そのまま僕はベットまで運ばれた。
これから戦いが始まる。長く苦しい戦いだ。その始まりの一歩を踏み出す前に、まずは休息としよう。走り出すのは明日からでも遅くはない。
ガンギスは眠るケリーの頭を撫でている。優しい目をしながら、起こさないようにそっと呟く。
「お前ならきっとできるよ。なんせお前は特別なんだ」
そう言うと、自分の胸に刻まれた袈裟懸けの傷が疼き、苦悶の表情を浮かべてしまう。
「あの母親の子なんだからな。きっと、そういうことだろう」
×
春海は考える。『そういうこと』とは一体どういうことだろうかと。まず、母親の血縁に秘密があるのは間違いない。そして、恐らくガンギスと一悶着あったのだ。それが原因で母親は家出した……とか? しかし母親なんてまだ名前すらも出てきていない。考察するには明らかな材料不足である。
まだ序盤であるというのに、あれやこれやと考えしまうのは、春海にとってこのストーリーを辿れるのが念願であったからだ。前作『ウィッチテイルズ』の最終レイドより実に二年半、テイルズシリーズとしては最も長い期間をかけてついに発売されたのが、この『ヴァンパイアテイルズ』だ。
それほどの時間がかかった理由は、ゲームを始めてすぐにわかった。圧倒的なグラフィックと、それに起因するグロテスクだ。かつて無いほどのリアルさは没入感を高めているが、その分身近に感じる血や肉が頭にこびりついて離れない。特に父親が食われるシーンでは思わず呆然としてしまった。
春海は「こりゃ、十八禁にもなるわ」とそっと呟いた。
ゲーム内では夜が明けていた。ローディングの暗転の後、すぐに朝日が飛び込んできたので目が痛くなる。
主人公であるケリーは、基本的に春海の思った通りに動く。コントローラーや、キーボードを使ってという意味ではなく、真に思った通りにだ。だから眩しければ目を手で覆えばいい、そう思えばそう動くのだ。
頭全体を覆ったヘッドギアが、生体電気を読み取ってゲーム内に反映する……らしい。ここの技術に関しては、色々とグレーである。例えばゲーム内でピースサインをしようとしたとする。頭が「ピースサインをする」という命令を電気信号として発し、それをヘッドギアが読み取ってゲーム内のケリーがピースサインをする。この時、春海明久はピースサインをしているか?
答えは出ている。正解はしていないだ。この電気信号は全てヘッドギアに持っていかれるのだ。この危険性が『株式会社パラレル』を中堅企業止まりにしている最大の要因だ。もちろん全ての信号がシャットアウトされるわけでは無いが、確かに長時間のプレイの後には全身の気怠さと痺れが現れる。推奨された最大のプレイ時間はたったの三時間だ。
どれほど素晴らしいストーリー、没入感、グラフィック、リアリティがあっても、これでは難しいものがある。特に災害大国であるこの日本において、プレイ終了後に即座に動けないのは致命的だ。
より安全で素晴らしいハードは他にある。任天堂やSONYをはじめとした大手企業のファンは多い。それでも春海がパラレルを選ぶのは、圧倒的な「そこにいる」という感覚だ。春海は思う。パラレル以上に、現実を忘れられる時間を提供できる企業はない。
『ケリー!』
声に導かれて手を退けると、目の前には木刀を二本持ったガンギスが居た。ガンギスは二本のうち一本をケリーに投げて寄越すと、言葉を続けた。
『昨日の今日だが、早速稽古をつける。どうやらお前は随分と身体の治りが早いようだ』
春海はそう言われてケリーの身体を確認する。確かにどこにも傷は見当たらない。
『その様子なら、多少無茶な稽古でも大丈夫だな』
『ああ、もちろん』とケリーが応える。
春海にとって、リアリティを失う瞬間があるとすればケリーのセリフだ。発言がおかしいという意味では無い。一人称視点で、確かにそこに自分がいるのに、自分の意図しない声が出てくるのはとてもむず痒いのだ。
『行くぞケリー、俺は学ぶのは得意だが教えるのは下手くそだ。だからお前も見て学べ。これが剣の使い方だ』
ガンギスは言葉を言い終えると同時に、一歩先へと踏み出す。身体は柔く、踏み出した足を軸にして前へと倒れ込む様に進む。瞬きの暇は無い。一瞬にしてケリーの目前へと迫り、そして下から木刀を振り上げた。
木と木がぶつかる乾いた音がする。その後ケリーの後方に何かが落ちてきた。先程までケリーが持っていた木刀だ。
春海の右手に柔らかな痛みが広がる。ほんのちょっとした刺激だ。けれどこの「ほんのちょっと」が素晴らしくリアルなのだ。
ガンギスは距離をとってから話す。
『今のが[武器落とし]だ。怪物に直接効くかはわからないが、今後戦いに身を投じる上で必要になる技術だ。武器を持つ敵は、武器さえ無くせば大抵の場合降参する。必ずしも命を奪わなくちゃならない訳じゃない』
これはチュートリアルだ。春海は考える。この先、武器を持つ敵が、いわゆる雑魚敵として出てくるのだろう。だから最初に教えるのだ。
ガンギスはくいくいと手を動かし、次はそちらの番だと促す。春海が武器を拾い、構えようと思うと同時にケリーもそのように動いた。
滴る汗を拭い、真っ直ぐにガンギスを見据える。
そして静かに、身体を前へ進めた。
ガンギスは軸足を作り、そこから爆発的に動いた。その一方、春海は一定の速さで推し進める。春海にとって、初期作品から続くこのやり方が一番慣れていた。
まだ、遠い。しかしこの位置で木刀を右下に構える。この動きは、相手に読ませる動きだ。
ガンギスは正しく左で受けよう構え――直後に衝突する。
衝突音は小さい。ゲームであると意識するなら、ノイズとして捨ててしまいそうなほど小さな音だ。
木刀の上を木刀が滑る。素早く懐に潜り込み、木刀を持つ右手を手前に引く。同時に左手でガンギスの持つ木刀の柄を押さえ、そのまま一気に木刀を奪い取った。
これは[武器落とし]ではない。[武器奪い]と呼ばれる上位技術だ。相手の持つ武器によって対応を変える必要があるため、上位プレイヤー用の技術である。本作品含め過去四作品を全てやり込んだ春海にとってはお手のものだ。
『全く、凄いなケリー。この様子ならすぐに強くなれるぞ』
春海は感心した。チュートリアルでその技を使わなくても良いとは思わなかったからだ。従来までの作品とは明らかに自由度が違う。
とはいえ自由が常に良いことだとは限らない。春海は邪な思いが湧き出てきた。もしも、直接攻撃する技を放ったらどうなる?
ガンギスは全くの丸腰だ。彼の武器はケリーの両手にすっぽりと収まっている。
カラン、と木刀が地を跳ねる音がする。
今度の初動は爆発的だった。静から動へと瞬時に転じる。立ち姿から一気に腰を落として前傾姿勢を取った。木刀が地面に触れるが、気にする必要はない。その程度で崩れるようなら、何年も上位プレイヤーではいられないだろう。
両の手から放たれた[X斬り]は流麗だ。しかし、それは途中で阻まれる。
ぐん、と一瞬身体が宙に浮かび、直後に木刀を持つ両手が絡め取られる。その動きは複雑で、とても真似できるようなものではない。それは無手による両手同時の[武器奪い]だ。気づけばケリーの持つ木刀はゼロになり、ガンギスが二刀とも収めていた。
『だが、まだまだだ。俺に勝てないようじゃあ怪物にも勝てないぞ』ガンギスは笑って言った。
「まいった。強いな」
春海は自然とそんな言葉を口にした。けれどこうも思う。この感想は間違っている。
穿った見方をするなら、これは負けイベントだ。いわゆる仕様上、絶対に勝てない相手ということだ。あのタイミング、あの状況で対応し切るプレイヤーを春海は知らない。春海自身も同じ状況で、同じことは絶対にできないと断言できる。
自由度の話をするなら、これほどつまらないものは無い。しかし、春海が口にしたのは賞賛だった。ガンギスという達人が見せた類稀な技術に、心を動かされたのだ。
春海は心の中でもう一つ拍手を送る。株式会社パラレルに対してだ。仕様など気にならないほどのリアリティがそこにはあった。ガンギスが意思なきNPCではなく、一人の人間としてそこにいると、心の底から思わされていた。
「『ふっ、ははっ!』」
春海もケリーも一緒に笑った。どちらが先に笑い出したかはどうでもいいことだ。春海は確信する。やはりパラレルに就職したことは失敗じゃ無かった。
『じゃあ、勝てるまで。お願いします』
ケリーは好戦的に笑い、ガンギスもそれに応えて笑みを漏らす。もちろん春海も同じだ。
チュートリアルはその後、十分ほど続いた。その中で春海は五回ほど攻撃を仕掛けたが全ていなされて終わった。
チュートリアルを終えると、ゲーム内で一足飛びに時間が経過した。ここでようやく、キャラメイクの時間だ。子供であったケリーが、どんな風に成長したのかを自分で決めることができる。
今にして思えば、ケリーは中性的過ぎると春海は思う。このタイミングでのキャラメイクで、どのようにでも成長できるようにそう設定されていたのだろう。
春海が作ったのは、ツンツンとした短髪で、ガタイのいい青年。これまでの作品でずっと使ってきた見た目だ。
ようやく、真の意味で物語が始まる。春海は胸の高鳴りを自覚した。
××
ケリーが血の池で水遊びを行ったのは、実に二度目のことになる。一度目は父親がブサイクな怪物に殺されたとき。二度目は程度の低い小技で自慢をしてきたガンギスを自ら殺したときだ。
刀身を剥き出しにした刀を握り、笑みを浮かべて立ち尽くしている。すぐ下にあるガンギスだったものに刀から血が滴り、ポタポタと音を立てていた。
木刀は折れて地面に埋まり、菜園も家もその体裁を失っている。
チュートリアルはまだ残っている。このケリーはまだ[武器落とし]すら知らない。
しかし次の瞬間、ローディングの後に現れたのはキャラメイク画面だった。そして、やはりケリーは歪な成長を遂げることになる。