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ルゴシク山「狼煙」



「ハリル副隊長! 本日の拿捕者も三人ほど出ています」イルタ・ニトルスが馬上で額に汗を光らせ、興奮気味に言った。

「イタチごっこでキリがねえな……」ハリルが舌打ちをしてから、瞳をギラリと光らせた。「だが、しつこく食らいついてやるさ。その方が相手が嫌がるからな。範囲を広げろ。人員が足りなければ兵士を貸そう」

「ありがとうございます。不足については具体的な数字を出しておきます」

 イルタは馬をけしかけて、城門を駆け抜けて颯爽と去っていった。

「具体的な数字ねえ」ハリルが鼻をフンと鳴らした。「ラートンが聞いたらさぞ喜ぶだろうよ。俺には『なんとなく』で十分、というか、その方が好印象なんだけどな」

 ハリルは、イルタが馬で駆けていく城下街の主要街道から、目線を遠くに変えた。

「さてと。ちゃんとやってくれているんだろうな。生意気なラートン隊長はよう」

 何週期も前に旅立った旅人たちの姿が見えるはずもないが、心配や、不安、鼓舞したい気持ちなど、ごたまぜになった強い想いを飛ばして届けたいような、切ない心境だった。遠い山に日が落ちかけている。


「精力的で頭が上がらないのう」

 穏やかな低い声に、ハリルはハッとして、すぐ横にやってきた老人の方を見た。

「パソンさん」

 パソンは文官としての丈の長いマントやかしこまった帽子ではなく、ハリルやイルタと同じ、肩章のある軍服を身につけていた。貫禄のあったあご髭は短く整え、白に近いグレーの長髪は首の後ろでスッキリと束ねている。

「わしはほとんど役に立たない。ここで突っ立っているだけじゃ」

「現場に出てくるだけで尊敬に値しますよ」

「そう言ってもらえるとは光栄。さすがは副隊長、ハリル」

「柄にもねえですわ。いまだになんで俺が、って思ってますから」

「そういうところだ」パソンが茶目っ気を込めたポーズで、ビシッと指を差してきた

「そういうパソン議長こそ、そのご老体でありながらまだまだいけそうですな」ハリルが皮肉たっぷりに茶化した。

 パソンは突然目を細めて、肩を落とし、ボソッと口を開いた。

「少しでもオスロの穴を埋めたいという想いだけじゃ。はよ引退したいわい」

「本音でしょうね」ハリルが口元を拳で覆いながら、こらえきれないというように笑い声を漏らした。

「お祭り騒ぎだけ企画していられたら楽しいのだがのう……」パソンは夢見がちな、うっとりとした目線で夕焼け空を眺めた。


 突然、ドーンという低い音に続いて地響きを足元で感じた。途端にブーツのかかとが奏でる足音がせわしなくなり、ハリルは顔をしかめた。

「いよいよ始まったか。……いや。今に始まったことではないか」

「そのとおりじゃ、ハリル。とうの昔に始まっておる」

 二人が目に捉えるのは、遠くで上がる土煙。それはまるで狼煙のようだった







 日が暮れていた。

 ラートン、カイハ、夏季、俊、倫、六季の六人は、崖の中腹にある大きめのくぼみで腰掛けていた。日が落ちはじめた頃に慌てて探した中で、最もマシに思われた場所だった。やっと六人が横になれるスペースがあるくらいで、数人は崖から足を宙に投げ出さなければ横になれないような狭さだった。

 できれば一日で登り切ることを目標にしながらもほぼ垂直の壁を登っていくことで体力の消耗はすさまじく、仮に登りきったところで、即、魔女と戦闘になることは避けたい事態であり、あと少しで頂上というこのあたりで野営を敷くのが賢明だとの結論になった。

 しかしそう都合のよい穴ぐらなど見つかるはずもなかった。身体を休めるにはあまりにも狭い場所だったが、かといって進むことも退くこともままならない。

 哲が落下してから倫はほとんど口を開かず瞑想していた。哲が落ちてしまったこともショックではあるだろうが、それに加えて皆のサポートに徹して絶えず「成長の手」の能力を駆使したことで相当消耗していることは、誰もが想像ができた。

 俊も言葉は少なく、星空を睨んでいる。いつになく静かだった。

 夏季は瞳を潤ませて鼻をすすっていた。カイハや六季が、夏季の肩を優しく叩くたびに、涙を止めなければと思うのだが、うまくいかなかった。

 どうか生きていてほしい。でも、あの高さから地面に落ちて、どうしたら無事でいられるだろうか。

「悶々と考えるのは止めるんだ」

 声が耳に入った。声の主の方をみやると、ラートンが夏季の方を見ていた。

 ラートンの言わんとしていることは夏季にも理解できた。

 魔女の付け入る隙を作ってはいけない。

 不安や恐れは魔女に見つかりやすい。

 夏季は心をキュッと引き締めるように、腹のあたりに力を入れた。すると、背中が少し痛んだ。クライミングで酷使した身体の痛みとは種類が違う。もはやお馴染みとなりつつある、チクチクと刺すような痛み……。

 それこそ魔女が好みそうな、不安を植え付ける痛みだ。夏季は咄嗟にラートンの目を見た。ラートンは何かを察するように、まばたきをした。吸い込まれそうな漆黒の瞳は、自信に満ち溢れた言葉を夏季に投げかける。

 夏季。お前はそんなこけおどしに屈するような玉ではないだろう? しっかりしろ。

 夏季はそれだけで、気持ちがやわらぐのを感じた。

 あの時、ラートンに話しておいてよかった。

 だから今こうして彼の目を見るだけで少しだけホッとできるんだ。

 夏季は目を閉じて、深く息を吸って、ゆっくりと吐き出した。息といっしょに、肩の力も抜けていき、そのまま壁に寄りかかった。

 こんなにも劣悪な野営地ではあるが、休息には違いない。食事といっても干し肉や木の実類などをかじる程度ではあったが、腹を満たすのもそこそこに、まどろんでいた。眠りに落ちてしまうのにそれほど時間はかからなかった。







「明日の昼頃には到着しそうだのう」

 魔女は壷を覗き込んでいた。人知れずたゆたう水面が、魔女に様々なことを語りかけている様子だった。

「待ちに待ったジェネレーションズ・デスマッチ。盛大にお迎えしたい所存」

 魔女は壷から顔を上げると、長いマントを翻して洞窟を歩いた。そして松明の明かりがギリギリ届いているような薄暗がりの中で、わずかにきらめく透明なかたまりの前で立ち止まった。おとな一人が収まりそうな大きさで、表面は霜に覆われている。

「お前も待ちくたびれたろう。ついに六季がやってくるぞ。わしがどんな手を使おうともこの氷は溶けなかった。ようやく封が破られる」

 魔女はその大きくいびつなかたまりに、愛おしそうに手を触れた。魔女が触れた跡は霜がスルスルと落ちていった。

「君が一体誰なのかも明日いよいよわかるだろう。わしが望むのは愛しのジョン。そして六季が望んでいるのは、もちろんクロ・アルドの方だ。長い時を隔ててこのような胸の高鳴りを再び体験できるとは、わしは幸せ者だのう。さあ、お楽しみの時間だ」







 目を開くと、まだ日が昇りきってはいない、薄暗がりで靄のかかった、夜明けの空気だった。昨夜、腰を落ち着けた頃には生ぬるく感じた風が今やひゅるり、ひゅるりと冷たく吹き抜けており、目を覚ますのには十分なほどに身に沁みた。そんな吹きっさらしの場所にもかかわらず、一度も目覚めることがなくまとまった時間を眠れたことに、まず驚いた。

 それから、おそるおそる身体を起こした。崖と隣り合わせの場所で油断はできない。腰掛けている場所にしっかりとした土台があることを、何度も何度も手で触れて確かめた。冷たい岩肌は確かにそこにあるようだった。

 身体中がこわばっているのを感じた。特に腕と足は棒のようで、自分のものではないと思われるくらい、動かすのが難しい。崖の上を見上げてその道無き道を確認した。あのような壁をツタを頼りにして登ってきたのだから、この疲労感も仕方がないことだと、納得できる。

 辺りを見回すと身体を起こしている者もいれば、背中を向けて寝転んでいる者もいる様子だった。身体を起こしているのは倫と俊、それにラートンだった。

 倫と俊はなにやら話している様子だったが、夏季に気づくと会話を切った。

「あれ、うるさくて目が覚めちゃった?」倫が眉を上げて言った。謝るつもりはないらしい。

「そういうわけでは。ずっと起きていたの?」夏季は乾燥して動きにくい口をなんとか動かして、くぐもった声で言った。

「まさか。ほんの三十分くらい前に目が覚めたのよ。俊の寝言でね」

「うるせえ。だからって叩くことはねえだろ!」俊がギロリと倫を睨んだ。寝癖なのか、後頭部の黒い毛髪は派手に跳ね上がっている。まぶたは重たそうだ。

 夏季は思わずふふふと笑った。

「笑ってくれたわよ、夏季が」倫が俊の方を向いて言った。

「ああ? ああ、そりゃあよかった」俊が関節をほぐそうとしているのか、肩をゆっくりと何度も回していた。

「哲が落ちてめげそうなんでしょう。少しでも前向きな顔が見られてよかったわ」倫がハキハキと言った。

「哲のことは……なるべく、考えないようにしないと……」夏季は目を逸らした。

 昨夜はさすがの倫も疲れを見せていたが、一晩ですっかり回復しているようだった。思い返してみれば、倫はほとんど手足の力を使わずに登ることに徹していた。他の皆がクライミングの足場の補助に使用していた倫のツタを、彼女自身はそれをほぼブランコのような形状に進化させて、操ったのだった。

「夏季に余計なことを思い出させるな」ラートンが口を挟んだ。

 ラートンが誰かの会話に割って入るなど珍しいことなので、皆一斉に彼の方を向いた。

「余計なこと? それどころか夏季がそんなに簡単に忘れられるわけないでしょう」倫はすかさずラートンに向かって鋭い視線を投げた。

「彼女に……出来る限り背負わせたくないだけだ」ラートンが、少し言いにくそうに、言った。

 倫が怪訝な顔をした。そして、ラートンと夏季の顔を交互に眺めた。

「わかったわ。夏季にとっての最良な考え方がそういうことだとあなたが考えるなら、そのとおりにするわ」

「倫?」俊は、倫がすぐに折れたことに驚いて、心配そうに倫の方を見ていた。


 誰かがブツブツとつぶやいていた。睨み合っていた四人は一斉に声のする方を向いた。

 六季だった。

 一見眠っているように横たわっているのだが、その顔を覗き込むと、まぶたは開き、口元は動いていた。ただ、瞳はうつろで正気とは思えなかった。

 その隣でカイハが身体を起こしかけて、六季の様子を伺っているようだった。

「ねえ、その人さ……あ、ごめん、夏季。六季さんは」倫の注意はラートンから六季の方に向けられた。「この山の頂上で何をするつもりなの? 本当に連れてきてよかったの?」

「仕方がないだろ。『氷使い』の力を担保にしているんだから」俊が眉をひそめて、言った。

「だって、正気には見えない。 ……ごめんね、夏季」

「もう謝らなくていいよ」夏季が少し怒って言った。「それに、今どんなに狂人に見えたとしても、この先何があったとしても、あの人の行動でここにいるわたし以外の全員がドン引きしたとしても、わたしにとってはたった一人のお母さんなの」

「ごめんってば」倫は夏季の剣幕に少し驚いたようだった。

「でも、実際問題として……」倫が再び口を開くと、夏季の目つきが鋭くなった。

「ここは退かないわよ。いくらあなたがあなたのお母さんを庇おうとしていても」倫も負けじと夏季を睨み返した。

「本当だったらこんなことろまで来てしまう前に言うべきことだったのだろうけれど。六季さんは危険人物よ」

「知ってるよ。みんな承知している。だったらどうして今更そんな話を?」夏季の口調が強くなった。

「何かやってしまったとき、あなたはどうするの? お母さんを庇ってわたしたちを攻撃する?」

「わたしがやる。わたしがお母さんを止める」夏季が言った。「だから。だれもお母さんを攻撃しないでほしい」

「わかったわ、夏季。予測できないことだらけだから……怖いのよ。せめてわかっていることだけでも確認しておきたいっていうわたしの自己満足なの。許してちょうだい」倫はそれきり不機嫌そうに目を閉じて、壁に寄りかかった。


 シーマは町に戻った。哲は崖から落下した。もはや生きて帰れる保証はない。誰だって不安になる。それはいつも威勢のよい倫だって同じなのだ。夏季も怖かった。そして唯一そのような恐怖を感じていないように見える母親は、際立って異様だった。今も、おそらくふつうに眠っているのであれば会話がうるさくて目を覚ますのだろうが、相変わらず半目を開けてブツブツとつぶやいている。

 そのような母親を庇おうとするわたしは果たして正しいことをしようとしているのだろうか?

 夏季は不安に駆られながらも、拳を握りしめて、言った。

「わたしが母を制御できなければ、皆に託す。そしてわたしが皆を危険に晒すようなことをしようとしたら、わたしの扱いもどうなっても構わない。……ラートン隊長が決めてください」

「そういうことらしいわ」カイハがため息混じりに、ラートンの方を見て言った。

「いいだろう」ラートンが答えた。彼もまた、人知れずため息をもらした。





 夏季に背負わせたくないとはっきりと言った手前、ラートンがそう言ったそばから夏季に悲壮な決意をさせる倫という人間に軽い怒りを覚えた。しかし真理でもあった。戦いの最中にそのような決断を正しく下すのは難しい。予習はしておいて損はない。少々悔しいが、倫をたしなめたり、反論することはしなかった。

 これが、吉と出るか凶と出るか。

 皆がそれぞれ決断を少しずつ積み重ねるしかないのだと、ラートンは自分に言い聞かせた。




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