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ルゴシク山「嘲笑」



 時折とつぜんふりかかる冷たいしぶきに夏季は目をつむった。風を切るだけならば心地よいのだが、揺ればかりはどうにもならない。小ぶりな船にはモーターに近い仕組みが備わっているようで、予想以上にスピードが出ており、手漕ぎのボートとはまったく勝手が違うようだった。なにはともあれ海上の景色というのは新鮮で、飽きることがなかった。海面にはときおり魚が跳ねており、その周辺には食事を求める鳥の群れ。そして何よりも海の匂い。気が紛れるので、苦手と感じた上下の揺れもいくらかはマシになった。

 周囲を見回すと、皆、静かにしており、船の揺れが苦手な者はあまり居ないように思われたが、俊だけが青い顔をして天を仰いでいた。

 倫は、どこから出したのか、小さな本に目を落としている。

「倫、酔わない?」

 夏季は幼い頃に、自動車の後部座席で絵本を見ていて、車酔いを起こしたことを思い出していた。

「なんで? 本に集中していて酔っている暇がないんだけど」倫は顔を上げずに、少し怒り気味に言った。

「ごめん……」夏季はとりあえず謝っておいた。

「もうすぐ海流が変わるはずよ。揺れもいくらかマシになる」

 カイハが青い顔をした俊を憐れむように言った。


 はっきりとしない天候が続く中、あの賊の一団と鉢合わせてから後は大きな障害もなくシーマたちが待つ宿場へとたどり着いた。手厚い歓迎により心身の疲労を回復させた一行は、手筈どおりにこうしてルゴシク山のふもとへ向かう海路についていた。

 シーマが、舵取りをしている自警団の仲間と共に船の先頭で、前方の様子を伺っている。夏季も船の進行方向を見た。ひときわ高い崖が切り立っている。ルゴシク山だ。山と呼ぶには小ぶりだが、草木のあまり生えていない、むき出しの赤茶色の山肌は個性的で、迫力がある。それに加えて急な勾配だ。ひょろりと細長い山の側面はほとんど垂直に見える。崖と呼んだ方が良いのではないかと思われた。

突然、夏季は背中に刺すような痛みを感じて顔をしかめた。数日前から、少しずつ痛みが増していた。夏季はつい背中を気にするそぶりを見せた。姿勢を直して前に向き直ると、ラートンがこちらを見ていた。夏季は少し目を泳がせて、海の方に顔を向けた。


 あの山で待ち受けているものはなんだろう。

 魔女リカ・ルカと、それから。

 けっきょくのところ、闘うべき相手の正体が、わからない。なぜなら今ここに異様なほどに落ち着いた母親がいるからだ。一度その手で殺した魔女に再び会ってどうするつもりなのだろう? 世代交代など気にするそぶりもなく堂々と。もう一度、魔女を倒そうなどといった、前向きなセリフが飛び出すこともない。もはや母親らしい顔などそこにはなく、狂気すら感じさせる。

 それから背中で疼く小さな痛み。ラートンの力で消えたと思い込んでいた。ドクラエの実も常用しているが、それは背中のモノには効いていない。「黒」い力に対して効果があるはずのものがことごとく歯が立たない。いや、まったく効かないわけでもなく、一時的に効果を発揮しているようにも思えるのだが、まるでその力自体が意志を持っているかのように、めきめきとまた姿を現してくる。まるで、押さえつけようとする力に抵抗しているかのようだ……。

 哲は夏季に声を掛けることもない。周囲から心配性だと思われるほどに夏季を気にかけていた頃に比べると、重さは感じないが、同時に寂しさはある。仕方がないことだと夏季は思う。自分で選んだことなのだから。

 ふと視線を感じて顔を上げると、哲がじっとこちらを見つめていた。

「何かあれば言ってくれ」哲が目に力を込めて、言った。

「ありがとう」夏季は微笑み返した。うれしかった。たったの一言だが、彼の目に迷いはない。本当に困ったときに頼りたくなる強さを感じた。

 怯えていたんだ。

 その相手ははっきりとは知らないが、彼なりにすごく恐れているものがあったのだと、今になればわかる。魔女なのか、それとも、わたしだったのだろうか?

 哲との間には近頃いろいろあったが、ようやくお互いに踏ん切りがついた、という感じがしていた。今ならば、友人としてより良い関係が築けそうだと、期待してしまう。


 突然ピカリと空が光った。

 空を見上げた途端、イナズマが落ちてきて船の鼻先をかすめた。それが何を直撃したのかはわからないものの、船が大きく揺れた。底から突き上げるように傾いた。夏季は咄嗟に船の縁を掴んだ。シーマ・バトルスの身体が傾くのが見えた。船の先頭で立ち上がり、行先を見据えていた彼は船と一緒にぐらりと傾き水しぶきをあげて海に落ちた。

「シーマ!」近くで船を操縦していた彼の仲間が叫び、誰かの「待て!」という声も聞かずに海の中に飛び込んだ。

「なにかいるぞ!」海面を覗き込んだ俊が叫んだ。

 海面の下の方に、黒くて大きなシルエットが見える。それは海に落ちた二人の周りをゆったりと巡った。そして水面に近づくと辺りを波立たせた。船が再び大きく揺れた。海面を突き破って姿を現したそれは、傷だらけのサメのような、クジラのような、巨体の生物だった。無数の生傷には血が滲み、目は白濁してこの世のものとは思えない様相だった。

「ゾンビ」

 夏季はとっさにそう表現した。倫の小さな悲鳴が聞こえた。

 海で顔を出して浮かぶシーマと仲間に向かって開かれた大きな口の中には、黄ばんだ無数の禍々しい歯が並んでいた。

 荒れた波にもまれてシーマは少し場所がずれた。シーマの仲間が、

「ぎゃ」

 という声を残して怪物の口の中に消えた。辺りの水面に赤いものが漂った。夏季は吐き気を催して口を手で覆った。

「夏季……」

 落ち着いた声の呼びかけに夏季が我に返ると、カイハがこちらを見つめていた。夏季ははじめて、自分の目から涙がこぼれ落ちていることに気付いた。

 夏季は船の先頭まで一気に走った。そして揺れに負けないよう船の端をしっかりと掴み、シーマを襲おうと旋回している怪物を見てから、シーマに意識を集中させた。

 海中から水柱が渦巻き、シーマの身体を包んだ。慌てるシーマを落ち着かせるように、はみ出そうとする彼の腕や脚は優しく包み直した。噛みつこうとする怪物の頭をふわっとかわした、その勢いで、水柱はシーマもろとも船の上に落とされた。つられた怪物はそのまま船に向かって口を開いた。

 カイハが夏季のそばに来ていた。

「行きましょう」

 カイハの言葉に、夏季は頷いた。

 夏季は海面から練り上げた水の龍を向かってきた怪物の大きく開かれた口の中に突っ込んだ。一瞬動きを止めた怪物に向かって、カイハが両手を掲げた。

「ノラス」

 丈の長い衣装をはためかせて、カイハが静かにつぶやくと、パキパキという音を立てて海の怪物は凍っていった。夏季は怪物と一緒になって凍っていく水の竜巻の上を駆け上がった。勢いのままに跳躍して怪物の頭上に飛んだ。腰の剣を抜き、思い切り振り下ろした。

 粉々になった氷のかけらがキラキラと舞い、海に散っていった。夏季はそのまま海に落ちていった……が、ふわりと身体が宙に浮かぶのを感じた。柔らかい風にのせられて、船の上に戻ってきた。着地すると、哲が見下ろして、微笑んでいた。夏季はほっとして、微笑み返した。

 シーマが涙を流していた。その背中を俊がさすっている。皆、声を掛けることもなく静かに見守った。

「本当に嫌なやつ。あの魔女は」六季が自分の身体を抱え込むようにして、小刻みに震えていた。「人から大切なものを奪っていくのよ……」

「確かに。あの雷で船を狙えばよいものを。遠回しな攻撃は悪趣味だわ」倫はびしょ濡れになってしまった本を、船の床に投げ捨てた。「今ごろわたしたちを見て嘲笑っているに違いない」

「先へ進もう。そいつを止めるために、倒さなければ」

 ラートンが言った。






「シーマ、頼みがある」ラートンが言った。

「どういったご用でございましょうか」目と鼻を赤くしたシーマが、健気に聞き返した。

「我らが上陸した後はすぐに引き返してくれ」ラートンが強めの口調で言った。

「なんだって?」シーマは途端に眉を吊り上げて、素っ頓狂な声をあげた。「シエ王子、いったい何を考えているのですか? 海路を行くにしても、峠道を行くにしても、船がなければ帰路が詰みますぞ」

「以前、我らを案内した船頭は正気を失った。そして今日は君の仲間が一人死んでしまった。ここにいてはあまりにも危険だ」

「俺はあなたと共に還りたい」シーマが声を震わせた。ここにとどまることは死と向き合うことだとわかっているうえで、その恐怖を打ち負かそうとしているかのようだった。

「君の信念は理解しているし、感謝もしているんだ。だからこそ。トラル復興のためにも、君には生き残ってほしい」

「それは……シエ王子。あなたが存命でなければなんの意味もなさないことです」シーマが目線を落として、首を横に振った。

「俺は死なない。魔女を倒して、必ず生き残り、すべてが終わったら、トラルのことをきちんと考えるつもりでいる」

 シーマが呆気にとられたように、口を大きく開けたままで、何度も瞬きをして、ラートン顔を見つめた。ラートンは目を逸らさなかった。

「王子がそうおっしゃるのであれば。御意。仰せのままに致します。畏れ多くも、あなたにお任せ致します。いや、お待ちしております。必ずや、任務を全うして、そしてトラルにご帰還ください」

 そう言いながら、シーマは次第に涙ぐんでいった。

「ありがとう」ラートンがゆっくりと、噛みしめるようにして、言った。



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