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はじまり「品定め」



 静養日が終わり、二等兵の訓練日となった。曇天が続いている。涼しい気候は歓迎だったが、カラッとしたさわやかな青空が恋しくなるのは皆同じで、朝食のときの会話ではふだんよりも天気の話題が多くなっていた。夏季も近くの席の若い兵士、通りすがりの哲やアレモと挨拶を交わしながら、時折曇り空の話題について話すのだった。

 朝食を食べ終わる頃になって六季が食堂に入ってくる姿が目に入った。向こうも夏季の姿を見つけたようで、まっすぐ歩いてきた。

「おはよう」夏季から声を掛けた。

「おはよおぉ」あらゆる気力をどこかに忘れてきたといわんばかりの気の抜けた挨拶は、語尾にはあくびが混ざっていた。

 夏季はふっと小さく笑った。

「なにか?」六季が目をこすりながら言った。

「いつもどおりだなって」夏季が言った。

「わかる」六季もニヤリと笑った。

 一緒に暮らしていてもいつも夏季が朝食を準備して、まだ寝ている母親を階段の下から大声で呼ぶのが日常だった。六季の仕事が夜遅いため仕方がないのだが。

「これ食べていい?」六季は、夏季が食べ残したパンを指差した。

「……ああ、いいよ。ちょっとよくばってしまって食べきれなかったの。これで足りる?」夏季が言った。

「昨夜食べすぎちゃってさ、ちょっと胃もたれが」六季が首を小さく横に振った。

「そういえば仕事はどうしたの?」ふと、夏季は気になったことを口にした。

「辞めてきた」六季はあっさりと答えた。そして乾き始めたパンを口にほおばった。

「そりゃそうだよね」夏季は少し視線を落とした。

「なんとかなるわよ。今まで生きてこられたんだから」六季がもごもごと、しかし強い口調で言った。

「わたしも働こうかな」夏季が何気なく言った。

「好きにしていいわよ」

 六季はいつもそうだった。夏季がどう選択しようと否定しない。夏季が望むならと、その道を応援する。親の理想を押し通そうとすることは一切なかった。人生の選択肢を広げるために、勉学をがんばって、大学まで進学するべきだとか一般的な説教を垂れることもない。いっさいの決断を任されるのは、時に砂漠に放り出されるような感覚でもあり、少しはアドバイスが欲しいことも、なくはないのだが……。


「おやおや。なぜあなたがここに?」

 落ち着いた声が頭上から降ってきた。

 キノコのような髪型をした背の高い男がすぐそばに立って、少し驚いた様子で微笑みかけていた。

「しらじらしい。昨日『呼び寄せ』されたことくらい知ってるでしょう。お偉くなったみたいだから。そうでしょう、ピルツ?」六季は相手を鋭く睨み返した。

「それが存じ上げておりませんで。ようこそセボに。再会できて光栄だ、六季。それにわたしの名前を覚えていてくださるとは感激ですよ」

 ピルツは皺が刻まれた大きな手を差し出したが、六季は手を出さなかった。

「またお話しましょう」ピルツはおとなしく手を引っ込めると、後方のワゴンにある食事を取りに行き、文官たちが集まるテーブルで食事を始めた。彼らの中の数人はこちらをちらちらと見ながら何やら耳打ちし合っている。

「あいつあまり好きじゃないのよ」六季が舌打ちを交えて言った。

「見てればわかるよ。わたしも別に好きじゃないかな。感じ悪いんだよね……」実際、軍部に対して何かと言うと目くじらを立てる連中がピルツの周辺の年の多い男たちであったし、今まさにこちらをじろじろと見られているのも、気持ちの良いことではなかった。

「気をつけた方がいいわよ。胸糞悪いことを企むのが得意なやつだから」

「あんな、少し突ついたら倒れちゃいそうな人たち、相手にもならないと思うんだけど」夏季がお返しにと文官たちに冷たい視線を送りながら、言った。

「なかなか言うじゃない」六季が表情をやわらげた。

「それに」くだらないとばかりに、夏季は視線を戻した。「政務部には倫が通じているし、何人か軍部に協力してくれているから」

「へー。文官にも物好きなのがいるのね」

「というか……倫と、ラートン隊長の力かな?」

「夏季のがんばりも少なからずあるってユニが言ってたわよ」

「まさか。わたしなんて、いっぱいいっぱいなだけで」夏季が首を横に振った。

「でも、めげない。ラートン隊長と同じでしょう」六季が優しく微笑んだ。

 夏季は少し顔が熱くなるのを感じた。

「ほら。早く食べて。訓練見学するんでしょ。遅れるとハリル副隊長に怒られちゃうよ」夏季は自分の顔色を誤魔化すように俯いて、母親を急かした。

「ハリルがいきがったところでわたしは何も怖くないんだから。昔はじゃれ合う子犬みたいだったのに。みんな偉くなっちゃってさ。おかしいったらない」

 六季がそう言って笑った。楽しそうだが、少し寂しげな母親の表情に、夏季は返す言葉もなく、あいまいに笑顔を返して食堂を後にした。

 昨夜の喧騒に比べれば、親子の周囲は静かなように感じられた。ときおり視線を感じたり指を差されているのが見えたりはしたが。ヒソヒソと話し続けるピルツたち文官のグループの横を通り過ぎる。夏季自身は意識することもないのだが、彼らはあからさまに夏季をじっとりと眺めて話し続けており、嫌でも気付いてしまう。

 ピルツの部下であるネレーもすぐそばにいたが、彼は朝食を黙々と食べながら小さめの書籍を眺めていた。そんな彼の姿は見ていて少しだけ勇気づけられるのだった。彼が夏季に直接声を掛けるわけではないけれど、夏季にとっては「気にするな」と言われているのと同じだった。






「オラッ。整列しろ!」

 小石が転がる荒れたグラウンドで、訓練の開始時刻きっちりで、ハリル副隊長が手を叩いて兵士たちを促した。

 数千人の集団の前で、ラートン隊長と、ハリル副隊長、それからパソン議長と六季、カイハが並んでいた。パソンはふだんの角ばった帽子や丈の長い着衣ではなく、兵士たちと同じ制服に身を包み、グレーの長髪とあご髭はひもで括っている。六季はジャージにTシャツで、腰に手を当て、不敵な笑みを浮かべて兵士たちを眺めている。カイハはいつもと同じ、地面を引きずりそうな丈の灰色の衣装で、静かに佇んでいる。

 ふだんより監督者が増えており、兵士たちは少しざわついていた。

 パソンが監督者の列から一歩前に進み出て、口を開いた。

「……ざわめくのも無理ないな。わしもびっくりしておる。自分がまだこれほどまでに格好良くこの制服を着こなせたことに」

 遠慮がちな笑い声が、あちこちから上がった。

「さて。わしも臨時とはいえ軍部に所属しておるが、シエ・ラートンが戻ってきたことでようやく政務部に戻る目処がついたわけだ……。とはいえ、それをきっかけに再び軍部とのつながりを断つのも惜しい気がしてきてな。たまにはこうして訓練に顔を出させていただこうかなと気まぐれを起こしてしもうた」自分に言い聞かせるように、深く頷いた。

「そうそう。こちらの女性方であるが、かつて『水使い』『氷使い』という名でセボに名声を轟かせていた人物たちだ。この度はわれわれの時代に力を貸すために、『元水使い』であり現在の『氷使い』でもあるカイハは隠居先であった『沈黙の森』の『氷の洞窟』からお越しいただき、『元氷使い』の六季ははるばる異国の地から『呼び寄せ』させてもらった」

 パソンが二人を紹介すると、それぞれ名を呼ばれたタイミングで会釈した。

「簡単に、何か一言、意気込みでもいかがかな?」パソンは二人に目配せした。六季とカイハが視線を交わし、六季が頷いて一歩前に進み出た。

「みなさんこんにちは」六季が少しかすれてはいるが、張りのある声で兵士たちに呼びかけた。「わたしは君たち若造から見ればそこらへんにいるふつうのおばさんだけど、それでも昔は魔女リカ・ルカをこの手で殺しました。長い間触っていない剣の腕はイマイチだと思うけど、気持ちだったら相変わらず誰にも負けない自信があるので、もしも昨今の状況から弱気になってしまっている人がいたら、ぜひ教えを請いにきてください。どうぞよろしく」

 確かに名乗ったとおりの人物かもしれないが、それにしてもどんな大物なのかと思わせるその堂々たる口ぶりに、兵士たちのざわめきが一層大きくなった。

「お母さん、いろいろとすごいな」哲がぽろっと感想を述べた。

「いつもああいう感じなんだ。なんていうか、場をわきまえないのに自信たっぷりなんだよね……」夏季は母親の言葉を聞いて冷や汗をかいていた。

「たいしたことじゃないんだけどさ、あれって夏季の学校のジャージじゃないのか?」哲が聞いた。

「いや……。お母さんが通っていた高校のジャージらしいよ」夏季が答える。

 哲が、へえっと、妙に驚いたような声を出した。それから指折り数えている。何年前のジャージであるかがそんなに気になるのかと、夏季は哲を肘で小突いた。

「いや、よく着こなすなあと思って」哲がへらへらと、笑って言った。

「戦闘は好きではありませんが、必要とあればお稽古範疇のお相手程度はできるかと。よろしくお願い致します」カイハが隣の六季の言葉に苦笑いしつつ、簡潔に話した。

 兵士の間からはふたたびざわめきと、まばらな拍手が起きた。

 得体の知れない新参の者たちを見やりながら兵士達はばらばらと自分たちの持ち場に散って行った。剣や槍、弓といった武器の鍛錬にいそしむ者。体力づくりの走り込みに参加する者。夏季たち新しい『使い』も、それぞれ剣を取り、兵士たちの輪に加わろうと、歩いていた。

「あれ。あんなところにヤツがいやがる」

 俊がつかつかと、人がまばらな方へ歩いていってしまった。彼の向かう先には小さな岩場があり、そこに倫が腰かけて分厚い本を開いていた。

「今日はにぎやかだな」哲が言った。

「でもめずらしいね。倫が訓練に来るのなんて初めてじゃない?」夏季が倫と俊が話すのを見ながら言った。

 俊が近づくと、倫の手からは細い蔦植物がにょろにょろくねくねと成長しており、なにかカゴのようなものが編まれている様子だった。

「なにやってんだ?」俊が言った。

「追い追い役に立つことなんだから、なんだっていいでしょう」倫が顔を上げずに言った。

「へえ? その編み物が?」俊が首をかしげる。

「人のことより自分の心配をするべきよ。『使い』の中で実戦経験を積んでいないのはあなただけよ」

「そんなことないよ。哲の相手やカイハの相手はしたことがあるぜ」

「味方ばっかりじゃない。あとは城下街の破壊活動」

「まあな。城下街の件は哲も同罪だ」俊はさわやかに笑っている。

「……そうだっけ? 哲は城下街のキムを倒したときのイメージが強くて」倫が、口の端を上げてニヤリと笑った。

「もう昔の話だな」俊がとぼけた。

「倫、どうしたの?」夏季と哲もやってきた。

「ちょっと気になって見に来たの。案の定、夏季のお母さんが爆弾投げまくってるじゃない」倫がくすくすと笑った。

「訓練に参加するんじゃないの?」夏季が鼻を鳴らして言った。昨夜さっそく自分の母親に、わざわざ話すまでもない内容を吹き込んだことについても問い詰めたい気持ちはあったが、ぐっとこらえた。

「剣に興味がない。植物の方がよっぽどおもしろくて」倫がすっぱりと言った。

「おい! お前ら何やってんだ!」ハリルの怒鳴り声が聞こえてきた。

「やべー、見つかった」俊が顔を歪ませた。

「でもさあ、ハリル副隊長がしっかりしたおかげで、ラートンの出る幕がないよね!」兵士の方に走りながら、夏季が言った。

「あー。ラートンだと口より先に手が出るからな……」哲が言った。「それから、今日も倫だけ特別扱いだな」

 倫は岩場から動かず、本に向かってぶつぶつと会話をしている様子だった。手元には着々と蔦の絡まった「作品」が出来上がっている。


 夏季はアレモを相手に剣の打ち合いをしていた。彼の友人イルタであれば、巧さと優しさがあるので、さりげなく相手がやりやすいように戦局をコントロールしてくれるのだが、アレモが相手のときはそうはいかない。負けん気を前面に出してきて容赦がない。

「少しは手加減してよ」夏季がアレモの剣に防戦一方となっていた。

「嫌だね」アレモがニヤニヤしている。

 夏季は少しずつ後退していき、もはや足が円の外に出そうになっていた。

 とどめとばかりにアレモが剣を大きく振りかぶったのを、夏季は見逃さなかった。すばやく剣を逆手に持ち替えて柄の先をアレモの腹に突き立てた。

 場外からおおーっというどよめきが起きた。

 円のふちスレスレのところで、アレモがうずくまっているのを夏季が介抱している。

「手加減しろよ……」アレモがぽろぽろと涙をこぼしている。

「え。ごめんなさい。そっちがぐいぐい来るからつい」夏季が大して悪びれもせずに言った。

「股間じゃなくてよかったじゃん!」ウォローがこちらを指差して大笑いしているのが目に入った。

 ウォローのけたたましい笑い声に混ざって、静かな足音が近づいてきた。

「代われ」

 頭上から声がして顔を上げると、ラートン隊長が見下ろしていた。

 アレモがうめきながら、四つん這いで円の外に這って出て行った。

 夏季の手にはじわりと汗がにじんだ。地面に放り投げた剣を手に取り、立ち上がった。

 ラートンと夏季は黙って円の中に入り、位置についた。ラートンが剣を抜く。それぞれが剣を構えて睨み合った。

 演習場は静まりかえってしまっていた。

「どうしてこうなった?」俊が怪訝な顔で哲の肩を叩いた。

「知らないけど、気づいたらラートンが」哲はムスッとして答えた。

 夏季とラートンはほとんど同時に動き出した。二人の剣がキンと甲高い音を立てて交わる。

「夏季をご指名ってわけか」イルタがにこにことやってきた。

「夏季もまったくためらわないよな。ラートンなんかに相手を申し込まれたらふつう引くぜ」俊がわざと歯をガチガチと鳴らしている。

「相手が強いとうれしいんじゃない?」イルタが言った。

「ラートンが相手でうれしいなんてヘンタイだな」俊が言った。

「おい」哲が俊を睨む。

「ラートン隊長、ほとんど片手しか使ってないな」イルタが言った。

「ああ? うそだろ。いくらなんでも、夏季だってそこそこやれる方だろ」俊が小馬鹿にするように笑ったが、打ち合いの様子を見ながらイルタの言ったとおりであることに次第に顔を曇らせた。

「ふうん。そんなに弱っているのか……」イルタが考えながら言った。

「おや。両手になったぞ」俊が言った。

 俊の言ったとおり、ラートンがそれまで片手で軽々と扱っていた剣を両手で握り直した。すると夏季がすぐに防戦一方となり後退していった。しかし夏季が円を超えそうになるとまた片手に直り、再び夏季と互角の打ち合いで円の半ばに戻ってくる。

「ラートンは一体何がしたいんだ?」哲がしかめ面で言うと、自分の右手の剣をギュッと握り直した。

 何度か、円の中をひたすら前進と後退を繰り返すと、息の上がった夏季が膝を折り、地面に手をついた。

 激しく肩で息をする夏季が顔を上げ、ラートンを睨みつけた。

「できないことをわかっているくせに何度も何度も……。性格の悪さはちっとも変わらない!」

「ああそのとおり。わたしは少しも変わっていない。君は変わってしまったのか? 以前の君なら何度でも向かってきただろう」ラートンの息遣いはまるでずっとそこに立ち止まっていたのかと思われるほど落ち着いていた。

 だって……ぜんぜん……力が入らない……。

 夏季がうなだれると汗がポタポタとしたたり落ち、地面に吸い込まれていった。

「俺が相手してやる」哲が突然円の中に踏み込み、奥歯をきりきりと噛み締めて、いきなりラートンに向かっていった。

 しかしラートンは剣を使わずに哲のふところに入り込むと、拳を繰り出した。哲が背中から地面に倒れ込んだ。

「とつぜん他人の決闘に割って入るな。礼儀から学び直せ」地面で悶える哲に向かって冷たく言い放った。

「まあ、ごもっともだよな」俊がため息をついた。

「熱くなりすぎ。可哀想なくらいに」イルタが思わず口を歪めた。


 夏季は立ち上がることが出来なかった。自分の目からこぼれ、汗といっしょになって地面に吸い込まれる涙を見ていることしかできなかった。絶望で重くなった頭がなかなか上げられない。

 以前のわたしってなんだろう。思い出せない。自分がどんなだったかを。今はどうしても水の龍が出てこないんだ。呪いの印に邪魔されているんだ。本当は会いたい。あの水の龍に会いたい。母親とも違う。友人とも違う。あたたかくて強い存在。


「なかなかやるじゃない、シエ君! 親父さんよりずっと性格悪いわね」遠くから様子を伺っていた六季が、瞳を輝かせて言った。

「そうだろ。そうだろう! ……って、娘があんな目に遭っているのによくもそんな呑気に見ていられるな」ハリルがあきれて言った。

「まあ、我が娘はかわいそうではあるけれど。シエ君だって、夏季に見込みがあるからああやって追い込むんでしょう?」

「そうか……。ラートンの苛め癖は、親心に似ているのかな?」ハリルが首を傾げる。

「親であるわたしには、あそこまで陰湿にできないわよ」六季がボソッと言った。

 ハリルが吹き出した。

「ラートンに言わせれば、母親失格だろうぜ……」

 ラートンは片手を腰に当てて、声を掛けるでもなく夏季をただ見下ろしていた。「早く立て」と言いたげに。周囲の者も手出しできないといった様子で、集まったりはせずにただ気になる様子でちらちらと盗み見ている。パソン議長も、ハリル副隊長も、気づいていないわけはないが、ラートンに一任と既に決めているようで他の兵士たちの持ち場からは離れない。

 ゆっくりと立ち上がった夏季は、頭は上がりきらないが、再び構えた。手には剣のようなものを握っていた。形は陽炎のようにゆらゆらと不確かだった。

「なんか痛々しいな」アレモがやっと、腹をさすりながら立ち上がった。

「お前もな」俊がアレモの脇腹を突いた。

「でも、隊長はちょっとうれしそうじゃないか?」イルタが言った。

「なんと悪趣味な……」アレモが顔を歪めた。

 夏季はしっかりとした足取りでラートンに向かって走っていった。夏季の持つ頼りない剣は、ラートンの長剣と触れ合う瞬間に飛び散った。

 そのしぶきは夏季の肩のあたりに一瞬で集まると、白いカナヘビとなってラートンの肩にくらいついた。

 ひるんだラートンに向かってためらわずに飛び込み、夏季は全ての体重をかけた拳で相手の頬を殴った。

 勢いまかせだった夏季はそのままラートンの背後に倒れ込んだ。

 ラートンはよろめいたもののしっかりと立っていた。

 夏季もすぐに立ち上がり、ラートンと向き直った。

「以前とは違っても負けるつもりはない」夏季は砂利の混ざった唾を吐き捨てた。

「力さえあれば、だろう」ラートンは表情を崩さずに静かに言い返した。

「なんだか、夫との日々を思い出すわね」六季がぽつりと言った。

「そうかあ? なんか真逆だよな。どっちかっていうと夏季がすぐ熱くなるクロみたいで、ラートンみたいな冷めた感じはむしろお前さんだろう?」ハリルが考えながら言った。

「逆になっただけで組み合わせは同じってこと」六季が微笑を浮かべて言った。

「まあな」ハリルもつられるようにして微笑んだ。

 ラートンが剣を鞘に収めた。

 そして夏季の目をまっすぐ見た。

 夏季は戸惑った。ラートンの目線に冷たさはない。熱意のようなもの……あるいは、活気。それはラートンにしてはとてもめずらしいものに思えてならない。

「ドクラエを入手する」ラートンがはっきりと、夏季に向かって言った。

「は?」唐突な言葉に夏季が聞き返した。

「その痣を消さないことにはいくら鍛えても仕方がない」ラートンが言った。

「俺がそう言っただろうが。わかったうえで夏季をいじめるとは趣味悪いぜ」ハリルはラートンににじり寄った。

「確認したくてね」ラートンは今度はハリルの目を見て言った。「遠征に耐えるかどうかを」

 わたしが行くのか……。

 夏季はがっかりしたのと同時に、どこかホッとしていた。

「わたしと、夏季と、哲の3人だ。異議は認めない」続けてラートンが言い放った。

 夏季は哲と顔を見合わせた。2人とも、なんとも言えない気まずさで、すぐに顔を背けてしまった。

 夏季が顔を背けたその方角から、倫が土埃をあげて全速力で走ってくるのが目に入る。なんだ、けっこう速く走れるんだ。夏季は怒りもわかず、ただぼんやりとそう思った。やがて近づいてくる倫の顔が満面の笑みで輝いていることがわかった。

「ゴシップ!」

 時折そうつぶやいている。

 ハリルはにやにやしているし、パソン議長は空を見て口笛を吹き始めた。

 彼らの反応に少し首を傾げてから、ラートンは城の方へ戻っていった。彼の中でその日の「訓練」でやるべきことは終わってしまったようだった。

「ラートン隊長って空気読まないのかな?」六季が遠慮なく感想を述べた。

「にぶいんだろ」ハリルが合いの手を入れた。




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