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はじまり「動き出す歯車」



 シャワーを済ませてすっきりしたのは良いのだが、隣室からすすり泣きが聞こえてくるのが気になって、倫は夏季の部屋のドアをノックした。鍵は開いていたので、そっとドアを開けて中に入った。窓から月明かりが差し、青白く部屋の中を照らしている。

「夏季?」

 返事はないが、泣いているような息遣いは確かに聞こえてくる。

 足元で何かがこつんと当たった。見下ろすと、サンダルの片方が落ちていた。もう片方も少し先に転がしてある。

「大丈夫?」

 夏季はベッドに突っ伏していた。倫と一緒に選んで買った水色の膝丈ドレスは床に脱ぎ捨ててあり、下着でベッドに横たわっていた。足の裏は一体何があったのかと思うくらい、真っ黒だった。

 倫は想像以上の惨状に思わず口元をゆるめ、フッと笑った。

「ごめん。つい。子供みたいだなって」

 そう言ってからふと、夏季の年齢を思い出す。

 十六か、もう十七歳になったのかもしれない。それでも大人というにはまだ少し酷。それをすっかり忘れてしまうくらい彼女は懸命に大人になろうと気を張り詰めている。私相手の時くらいたまにはこんな姿を見せてもいいんじゃないのかしら。

 夏季の隣に腰掛けて、頭を撫でてやる。細く柔らかな髪の毛は、汗でじっとりと湿っていた。

「私でよければ話聞くけど」

 それから倫はマッチを使ってランプに火を灯した。


 ベッドに突っ伏したままで、夏季は洗いざらい話した。倫は気恥ずかしさでムズムズしながらそれらを聞いていた。最も驚いたのが哲の突発的な行動だったが。

「幸せなんじゃない?」倫が呆れ半分で言った。「そんなに心ときめく相手がいることと、それほど愛してくれる男の子がいること」

「私は困っているんだけど……」

「なかなか出会えないでしょ」

「そうなのかな」落ち着きを取り戻した夏季がやっと身体を起こし、鼻をすすりながら言った。

「まあ、ラートン隊長の件は勝手に惚れておけばいいとして」

 夏季はぶつぶつとつぶやいている。「ちがう、そうじゃない」などと。

「哲くんについてはちゃんと決めた方がいいんじゃない? なんかかわいそうになってくるのよ。あの子あからさまに夏季しか見てないから」

 夏季はうすうすわかっていたつもりだったが、それほどまでとは知らなかった。

「知ってる? 最近城下町で哲くん大人気なんだけど、誰が言い寄ってきてもキッパリ断っているそうよ」

「哲ってそんなにモテるの?」夏季が驚いて言った。

「『背が伸びたからだ』って俊とアレモがぶちぶちうるさいけど。かわいいところがあって、優しいじゃない。その上城下町を救った英雄だからね」

「わたしにはできない。そういう目で哲を見ることができない」夏季は目をつむり、首を横に振った。

「そう。残念だわね」倫はため息まじりに言った。

「ただ、びっくりしてしまって」夏季は天井を見上げて深く息を吸って吐いた。

「そんなに具合は悪くなさそうでよかったわ。あのしわしわの実でも少しは効いているのかしら?」

「だいぶいいよ。このまま痣が消えてくれれば……」夏季はショートヘアの襟足をかき上げて見せる。

 倫がため息をつく。

「ちっとも消える気配がないわね」

 夏季は弱々しく笑った。

 首元にはくっきりと呪いの印が刻まれていた。


「ありがとう、倫」部屋を出ようとする倫を、夏季がドアを支えて見送る。

「どういたしまして。それほど深刻な話ではなかったから、ちょっと安心した」

 夏季が頬をふくらませた。

「わかってる。夏季にとっては一大事なんでしょ」倫がやれやれと首を横に振った。「今日は楽しかったわね。ゆっくり休んで」

「倫もね。また明日」

 倫と夏季はほぼ同時に、それぞれの部屋の扉をパタンと閉めた。


 泣き疲れて目が腫れているのが自分でもわかる。「今日は楽しかった」という倫の言葉は、涙さえなければ本心から同意していたのだろうが。

「夏季が心配だから」

 倫が文官に立候補した理由のひとつ。そう申し出たことを人づてに聞いた。

 セボの文字に対して人一倍熱意があり、あわよくばそれらを生かして他人の役に立ちたいという思いが強かった彼女が文官を目指したのはごく自然なことだが、それに加えて夏季への気遣いを言い添えたことに、「リーダー」として夏季が指名された頃の倫の態度を思うと胸が熱くなる。

 それから、「成長の手」があるにもかかわらず夏季の首の「黒」い痣を完全に消すことが出来なかったことを悔やんでいるようだった。かつての「成長の手」であればもっと有用な治療が出来たはず、という声を、城の中でも何度か聞いたことがあり、それは当然倫本人の耳にも入っているはずだった。せめてなるべく夏季のそばで不調をサポートできるようにという、言葉には出さないが彼女の決意が感じられた。

 そんな経緯があったからこそ、夏季は遠慮なく倫に甘えることに決めていたのだった。

 足元の脱ぎ捨てたドレスを拾い、埃を払って、クローゼットを開けてハンガーにかけた。サンダルもドレスの足元にきちんと揃え、クローゼットの扉を閉めてフーッと息を吐き出した。

 つかの間の非現実的な時間が終わっただけのこと。

 舞踏会がみんなの頭をおかしくしてしまうんだ。

 明日からはいつものわたしに戻れるはず。





 夏季の想いとは裏腹に、哲とのぎこちなさは続いた。夏季が幹部棟に移ってからは既に一緒にいる時間は減っていたものの、同じ室内にいてもお互いに視線を交わさず、必要最低限のことしか話さない。周囲が心配するほどの他人行儀だった。

「お前やるなあ! 夏季に迫ってチューしたんだろ?」

 食堂で、食事を載せたトレーを持った俊が先に食事を始めていた哲の前に来て、部屋中に響き渡る大きな声で言った。哲は静かに立ち上がると俊の頬を拳で殴った。俊の食事トレーは派手な音を立てて床に落ちた。食堂の全員が2人の方を向いていた。俊が喚いた内容については先に倫が口を滑らせていたので兵士の大半が既に知っていたが、俊の豪速球は流石に相手が哲でなくても殺気を抱かせるものがあり、誰も俊を慰めず、先に手が出たことで罰則を受けた哲の肩を叩くのだった。「いろいろあるよな」とか「大変だな」などと言い添えて。


 このままではいけないと、哲が気持ちをくすぶらせながら夏季を狙って城を何周も何周も徘徊していると、回廊の向こう側から目当ての相手が歩いてきた。

 夏季が避けるようにしてすれ違った後で哲が彼女の背中に呼びかけた。

「夏季!」

 夏季の足は止まらないが、哲は先を続けた。

「ごめん」哲は頭を下げた。「本当に悪かった」

 ようやく、夏季が立ち止まった。

「でもやっぱり君が好きだ。俺は夏季を守りたい」

 哲は願うように夏季を待った。夏季が少し振り返り横顔を見せる。

「私も好きだよ。哲は優しいし一緒にいると楽しい。でもね、そういう関係は考えられないんだ。悪いけど、哲の気持ちには応えられないと思う」

 夏季は淡々と話した。

「それでも構わない」哲が苦しそうな顔で言う。

「だから今まで通りそばにいさせてほしい」、頼むから、と続きそうな懇願だった。「夏季さえよければ」哲は胸に手を当てて、言葉に力を込めた。

 夏季が振り返り、哲の目を見た。

「私たちは『使い』の仲間なんだから、ずっと一緒でしょう。一緒にいなきゃならない」心なしか夏季は何かを諦めたような、冷めた目をしていた。

 二人の視線がしっかりと交わった。

「それもそうだな」

 哲は少し笑った。夏季も控えめに笑った。

「わたしだって前のように哲といっしょにいたいし話もしたいと思ってる」

 哲がふーっと息を吐き出した。

「それはよかった」

「舞踏会ではみんなちょっとずつおかしかったから。無かったことにしたいくらい」

「無かったことにはできないよ。俺の気持ちは変わらない」

 歩み寄る哲の顔を見上げ、真っ直ぐに見つめる哲の瞳を覗き込んで、夏季は思った。

 わたしにはわたしの気持ちがわからない。これほどまでにはっきりとした想いを口にできる人を前にすると、ひどくあいまいな自分を恥じてしまう。わたしはどこを向いているのだろうか。哲や倫が言うようにラートンに気があるのだろうか。

 夏季の肩をぽんと叩く哲の手の大きさを、じんわりと感じるのだった。






 雑踏の中で、手の中にある小さな肩章を神妙な面持ちで見つめていた。

 活気に満ちた市場の路肩で、周囲の喧騒を意に介さずに、静かにまばたきを繰り返すと、ゆっくりと手を握りしめた。

 自分で決めたことだから覚悟はしていた。それが心の底で淀む微かな罪悪感を晴らすために必要なことだと思ったから。仲間と共に命を落とさず生き残った自分に出来ることが何かないだろうかと。

 舞踏会の前に三軒を訪問していた。それは決して明るい気持ちになるものではなかった。皆涙をこぼしていた。荒野で命を散らしたのだという唯一の証拠となってしまった彼らの肩章を家族に手渡して初めて、礼を言われても少しもうれしくならないことがこの世の中にはあるのだなと、イルタは妙に冷静に考えるのだった。

「おい」

 突然声を掛けられて、振り返ると、アレモとウォローが揃って立っていた。とつぜん、街の音が戻ったので、自分がどれだけ考え事に没頭していたのかを思い知らされた。こちらをじっと見つめる二人は、少々怒っているのだろうか、しかめ面に近い。ウォローは特に、ちょっとした喧嘩が始まる前のおなじみの顔で「不満がある」と訴えるときの、不機嫌丸出しの顔つきだった。

「やあ」

 イルタはとっさに笑いかけた。

「やあじゃねえよ」アレモは鼻息荒く歩み寄ってきた。そしてイルタの両肩を掴んだ。軽い痛みを感じるくらいの強い力で。「笑いたくないときは笑うな。お前が最近何をしているのかは知ってる」

「そうか」イルタはまだ笑顔だったが、アレモの目から視線を外した。

「手伝うから」アレモは構わず続けた。

「え?」イルタが顔を上げる。

「ていうか、言えよ」

「でもこれは俺が決めたことで……」

「ラートンと居て変わっちまったのか? そんなにつらそうな顔するくらいなら話してくれよ。自分の殻に閉じこもるなよ」

「俺、そんな顔してる?」イルタが驚いて言った。

「バカ……」ウォローは目に涙を溜めている。

「俺たちは後ろを付いていくだけだから。一緒にいさせろ。いいな?」アレモは泣きはしないものの、少し声を震わせていた。

「ああ。構わない」イルタはニコッと微笑んだ。「心配してくれてありがとうな」

 アレモはようやく手の力を抜いた。イルタの肩には、親友の手に掴まれる感触がいつまでも残っていた。

 イルタが大きく腕を広げて、アレモとウォローの肩を抱いた。三人はまるでご機嫌な酔っ払いのように持ちつ持たれつ歩みを進め、雑踏の中に紛れていった。






「彼女はなんと?」パソンが尋ねた。彼は格子の窓から庭を眺めている。

 パソンの書斎でハリル副隊長と灰色の装束のカイハが小ぶりな丸テーブルを囲み、華奢な椅子に腰掛けている。ハリルは片足を反対の膝に載せてリラックスしている。カイハは膝の上できちんと両手を揃えている。

「セナによれば『喜んで協力する』だとさ。自分で過去にケリをつけたいんだろ」ハリルが背もたれをきしませながら答えた。「まあ、ラートンとカイハの推測が正しければ、ずっと機会を窺っていたということになるからな。それが俺には恐ろしく思えるぜ。だってよ、もう二度と行けるかもわからない世界に対して絶えず怨念のような気持ちを持っていたってことだろう。相当な黒い気持ちだろうぜ?」

「リカ・ルカを倒したときの彼女を知っていればそれもあり得なくもないと思える。そうじゃろう、カイハ?」パソンが庭を眺めるのをやめて振り返り、カイハに同意を求めた。

「ええ。確かに」カイハは静かに頷いた。

「そんなにえげつない決戦だったのか」ハリルは指でテーブルの天板をこつこつと叩いた。

「おお。君はあの頃まだ二等兵だったのう」パソンがちらりとハリルに目をやる。

「そのとおり。その他大勢の一人だったもので、頂上決戦は俺はなにも知らねえんだ」

「彼女は常には冷静で、どこか飄々としてつかみ所のない感じ」カイハがとつとつと話した。「それがクロ・アルドのこととなると依存的というか、唯一心を許す相手であり、恋人であり、最も大切なモノだったんでしょう」

「それを奪われてキレたってわけか。この世の果てまで追いかけてやるとかそんな勢いで?」ハリルは自分で言ってからガハハと笑った。しかし他の誰も笑わず、むしろ頷いていた。

「マジで?」ハリルは笑顔のままで聞き返した。

「マジよ。文字通りルゴシク山を這って登り、凍らせたリカ・ルカを引きずり下ろし、山の麓に叩きつけたのだ」カイハが真顔で答えた。

「どっちが魔女かわかったもんじゃねえな」ハリルがぼそっと言った。

 カイハが眉を上げてハリルを睨んだ。

「悪い」ハリルは両手を上げて見せる。

「いや。……実際、あの時は、六季とは思えなかった。彼女があのように激しいものを内に秘めているとは誰も知らなかった……」

 カイハは記憶を辿っているのか、床を見つめたまま、言った。

「ま、その獣のような女を『呼び寄せ』るってわけだな。楽しみなこった」ハリルが大げさに首を横に振って見せた。

「わたしは……少し、怖い。本当にただ会うだけならば手放しで喜ぶのだけれど」カイハは静かに言った。

「用もないのに『呼ぶ』ことはない。仕方がないじゃろう。しかし、くれぐれも忘れないように。彼女が何を考えているか、正直なところわからない。『氷使い』の力をまだ所有することを望み、意図して使用している可能性が高いからじゃ」

 ロイ・パソンは再び窓の外を見やった。ちょうど、夏季と哲が中庭を通るところだった。年頃の男女がぎこちなさなど微塵もなくごく自然に会話を交わしている姿が微笑ましく、思わず目を細めたが、特に夏季の方にどうしても目がいってしまうのは、仕方のないことだった。



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