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はじまり「乾杯」



 どんなに酔いつぶれた客も追い出さない、民衆に愛される酒場「ヒムラ」の扉には張り紙が一枚。

『貸し切り』

 めったにないことで、常連客と見られる男が張り紙の前で足を止めると、ゆっくりと首を横に振って、去って行った。


「すげえ!」

 俊が瞳を輝かせた。楕円形の大きなテーブルの上にはところ狭しと大皿料理が並べられ、フラワーアレンジメントで彩られて華やいでいた。

「まだだめよ」

 倫がじろりと俊を睨みつける。

「何もしてねえよ」

 俊はフォークを取ろうとしていた右手をさっと引っ込めた。倫が勝ち誇ったようにふふんと笑った。

「あなたたち、喧嘩はしないでちょうだいね」

 ユニが睨み合う二人をたしなめる。

「おーおー、仲のいいこと。俺たちも見習わないと。なあ、ウォロー?」

 アレモが、イルタを挟んで向こう側に座っているウォローの肩に手を回そうとしている。

「やめてよ」

 ウォローが笑いながらイルタに寄りかかる。イルタも笑って、ウォローとアレモ、二人の肩に手を置いた。

 きいっと音がして、店の扉が開いた。

「こんばんは」

 夏季と哲が揃って入ってきた。

「どいつもこいつも!」アレモが三回舌打ちした。

「何が?」夏季が外套を脱ぎながら皆の顔を見渡す。

「あなたたちがお似合いだってことよ」とユニが目を細めて言うと、たちまち口笛でにぎやかになった。

 夏季と哲は顔を見合わせた。

「たまたま一緒になっただけだよ……」耳を赤く染めた哲が、ぶつぶつとつぶやいた。

「もじもじすんなよ!どうせ夏季が出てくる頃を見計らって鼻息荒く……」俊の表情が一変したのはテーブルの下で誰かが彼の足を思い切り蹴飛ばしたからと思われた。

 夏季は照れる様子もなく微笑みながら、哲の隣の席についた。

「厨房に寄ってたの。クコさんに会ったから」

「仲いいよな。あのおっさんと」哲が気を取り直して言った。

「料理仲間かな? 楽しいよ」夏季はユニにごつごつとした布袋を差し出した。

「まあ。いいクワンバだこと。使わせてもらうわ」ユニは袋の中を見てにっこり。

「全員揃ったところではじめますか」俊が何食わぬ顔で、足をさすりながら言った。

「ちょっと待ってよ。主役が一人足りないじゃない」倫がすかさず止めに入る。

「どうせ来ないだろう」

「約束の時間まではあと十五分あるでしょう」

「おっといけない、忘れるところだった!」

 俊がわざとらしく額を叩いた。倫が俊の背中を小突くと、それに続いてアレモと哲が俊の頭を叩いた。「痛ぇ!」

「でも、本当に来るのか?」と哲。

「彼は『来たい』と言ってくれたよ」イルタが呑気に答えた。

「そんなものは当てにならないぜ。『来たかったけど来れなかった』なんて言い訳にされるのがオチだぞ。相手が女の場合は、な」

 俊がニヤニヤしながら言った。

「ラートン隊長は女じゃないでしょうに」

 ユニが少しムッとした顔で俊を睨んだ。

「まあ、イルタが来るって言ってるんだから、来るんじゃねえの」アレモがイルタの煙草に火を付ける。「おい、奴が来るまで始めないぞ。それで、もしも遂に来なかったら、全部イルタのおごりってことにしたらどうだ?」

「はあ? なに言っちゃってんのよアンタ」ウォローがアレモの胸ぐらを掴んだ。

「な、なにそれ。イルタさんが帰ってきたのをお祝いする会のはずでしょう?」夏季がぎょっとして口を挟んだ。

「さすがのわたしもそれはどうかと思う」倫はにこりと笑いながら、アレモに向かって眉を吊り上げた。

「さすがの優男イルタでも、なあ」俊は苦笑いだ。

「わかった。それでいいよ」イルタがゆったりと、煙草の煙を吐き出した。

 ガチャン。

 哲がグラスを倒した。

「驚きすぎだろう、哲」イルタがアハハと笑う。

「イルタさん、これ全部ですよ?」

「なんだよ夏季ちゃん。まるで隊長が来ないと決めつけているような口ぶりだね」イルタが微笑んで言った。

「そんなことはないけど……」

 夏季が顔を伏せるのを、哲はちらりと横目で確認する。

「来ない」俊がきっぱりと言った。

「来たらおもしろいけどね」倫がからからとグラスの氷を回す。

「本当に来るのかなあ?」と夏季。

「来ないだろ」哲はムスッとして言った。

「はいはい、ラートン隊長が来ても来なくても、ちゃんとみんなで払ってちょうだい!」

 ユニが手を叩きながら大きな声で言った。





 漆黒の、目の粗い生地のズボンに、ふわりと軽やかな生地のグレーの襟付きシャツ。その上から暗い茶色の外套を羽織った。 姿見の前で一通り身なりを確かめると、ベッドに立てかけた剣を手に取りかけて止めた。

 しみ付いた習慣は、非日常の中で初めて気づくものだな。

 そんなことを思いながら、シエ・ラートンは自室を後にした。


 セボに帰還してからあっという間に三日が過ぎていた。

 まずはベラ王女に謁見し(遠慮もなく滝のように涙を流す王女を皆困った顔で見守っていた)、ロイ・パソン師士やハリル副隊長と話をして、それからそのまま三人でユニ・ムスタを訪ねつつオスロ・ムスタの墓参り。さすがは軍師の家族で、いつか何があってもおかしくないという覚悟が出来ていたと言えば簡単だが、如何せんショッキングな最期は影を落としたに違いない。それでもなんとか、時折見られる暗い表情を除けば一応はどこかで区切りがついたと思わせる空気があった。ユニや息子のスアンは案外元気にしているようには映る。

 むしろ疲労しているのはハリルで、ラートンが日常的に受け持っていた軍部の仕事の多くを意地と気合いで引き継いでいたようだ。そもそも普段から重責から逃げていなければそれほど苦労することもなかったはずなのだが、仕方がない。永遠に続くと思われていた平和が突然終わりを告げたのだから。

 あとは文官たちのなじりを受け流しつつ、これは驚いたことだが、ネレー・ドゥーラが文官サイドの情報を流してくれたりするものだから考え事が増えてしまった。ハリルの話では「使い」の働きに感銘を受けて、ネレーをはじめとした若手を中心とした数人の文官が軍部にかなり協力的になっているという。さらに「雑草使い」の倫が文官に立候補したとのことだ。パソンの仕事やラートンが肩代わりしていた書類仕事などを全て彼女が引き受けているのだという。そんな訳で、臨時でオスロの後任となった老齢のロイ・パソン本人は余裕しゃくしゃくで、「みんな忙しいから、わしが何か楽しいことを考えねばならんなあ」と呑気に話すのを、ラートンは真顔で聞き流すのであった。

 目まぐるしい日々に長旅の疲れもあり、なかなか頭が回り切らない歯がゆさもあって、今日の行事はちょうど良い息抜きになるかもしれないと考えていた。そもそも「息抜き」などという甘えに頼るのは、不本意、とも言い切れない。


 キシキシと小さくきしむ床を踏みしめて、いくつかの階段を下り、城門へ向かう。広い城の中はいくつも通り道を選べるが、なんとなく、花庭を通った。理由は簡単で、彼の愛する場所の一つだったからだ。夕日も沈み、昼の明かりがついに消えようとしている濃紺の空気の中で、白いドレスが際立って光っていた。

「ベラ王女。ここでなにを?」

 家来以上に自分の身体に気を遣い、風邪を引いてはいけないからと日が沈み気温が下がる前に自室に引きこもろうとするのが王女の常だったので、この時間に王女の姿を外で見つけることはまったく予想していなかった。

「お出掛けかしら? めずらしく……」

 ベラが哀しげに微笑む。

「ああ。めずらしく誘いがあったから」

 ラートンはいつもの通り、ベラ王女にしか見せない優しい微笑みを向けた。

 唐突に、王女の瞳に涙が溜まり、城から漏れる白い明かりにきらりと光った。

「どうされました」

 ラートンは驚き、ベラの傍らに寄った。

「部屋へ行きましょう。身体が冷えてしまいます」

 ラートンの手の温もりを肩に感じて、ベラ王女は安堵し、うれしさに微笑んでいた。


「それで。なぜわたしを引き止めたのですか」

 ラートンは、部屋の扉を後ろ手に閉めるやいなや、王女の背中に問いかけた。

 紅茶の葉を入れ替えていた召使いのニッキは、ふと手を止めてから、そのまま作業を続けた。

「怒っているの?」

 白いソファに腰掛けたベラが、ちらりとラートンの方を見る。相手の顔色を窺うような、上目遣いの怯えた瞳。

「いいえ」

 ラートンは静かに答えた。本心だった。突然のことに戸惑ったものの、大切な人を怒る理由などなかった。

「どなたのお誘いなの」

 王女は苦悩しているように、眉根に皺を寄せていた。

「共に帰還した、イルタ・ニトルスという兵士、そしてその仲間たちだ」

 仲間。あまり口にしたことのない言葉の響きに、ラートンは歯の奥が痒くなった。

「仲間、というのは」

 ベラの声が震え始めた。

 ラートンは躊躇ったが、答えた。

「仲間の兵士と、『使い』の4人です」

 言ってから、後悔した。ベラの瞳からはぼろぼろと大粒の涙がこぼれている。ラートンの胸が締め付けられたように苦しくなった。

「『使い』がお嫌いですか」

 ラートンの問いかけに、ベラは強く何度も頷いた。

「しかし誘いを受けた以上、わたしは行かなくては。どうかお許しを」

「わかったわ。そう言うのなら。でも、忘れないでね、シエ。わたしの気持ちを」


 約束の時間に遅れて顔を出せるほど、シエは連中と親しくないはずよ。

 ベラ王女は涙を拭き、化粧を崩しながら微笑んでいた。

「ふだんお優しいラートン様でもいつかお怒りになりますよ」

「黙っていなさいニッキ! 余計な口を挟まないことよ」

 ベラはヒステリックに声を荒げた。ニッキは驚き、片付けた紅茶の葉を手に、そそくさと部屋を後にした。

 誰もいなくなった広い部屋の中で、ベラ王女は再び静かに泣き始めた。本当に嫌いなのは、「使い」ではなく、ラートンを引き止めるすべを持たない自分自身だった。






『忘れないでね シエ わたしの気持ちを』


 ベラ王女の言葉がラートンの心の底に淀んでいた。

 今の俺はベラに心から共感することができない。数ヶ月前ならばできたかもしれない。予想外のことだが、俺はイルタという男や「使い」たちとある種の絆をつくってしまったのだろう、おそらく。


 ラートンは店の場所は知っていると、イルタに伝えていた。昔、父親に連れられて何度かやって来たことがあるからだ。道に迷ったことは言い訳にならない。なぜだかわからない焦りを感じた。命を懸けた戦闘の最中だって冷静でいられるのに、一体どうしたことだろうと混乱してしまう。そもそも誘いを受けたのが間違いだったと思わずにはいられない。最初イルタに声を掛けられた時に非常に面倒だと感じたのだ。それなのに断れなかったのは、イルタのあの自信に満ちた、挑戦してくるような笑顔だ。まるで、ラートンが絶対に断らないと確信しているかのような……。

 考え込んでいるうちにも足は勝手に動き、あっという間に「ヒムラ」の前に着いてしまった。開け放たれた窓からは、オレンジ色の明かりと、笑い声が溢れている。今更店に入るのも気が引けたが、それ以上にこのまま何も言わずに帰ってはさらに気まずいことになりそうで、怖かった。戦場に身を置くのも恐ろしいことだが、経験の量でいえば圧倒的に少ないのは人付き合いのほうだった。

ラートンはすうっと息を吸って、店の扉を開いた。


 一瞬、店の中に誰もいないのではないかというほど静まり返ってから、一斉に騒がしくなった。

「来た! 本当に来た!」赤毛の男が大声で喚いている。

「だから言っただろう」イルタがニコニコしながら首を大きく縦に振っている。二人はすでに相当酒が進んでいるようだ。

「もう、遅いじゃないの、シエ君! お料理温めますからね。ビールで良いかしら? 別のものがいい人は言ってちょうだいね」

 ユニはほっとしたような表情で、親しげに呼びかける。

「あーあ、イルタの奢り確定してたのになー」

『雑草使い』の倫がサラダの皿に向かってつぶやいていた。

「あんた、本気にしてたの、その話?」体格のいい女兵士が呆れ顔で言う。

「隊長、空いている席へどうぞ」

『水使い』の夏季がラートンに座るように促す。その隣で『風使い』の哲がムスッとした顔で、氷が溶けたグラスを見つめている。体格はラートンとそう変わらないのに、その顔つきはまるで子どもだった。


 ユニが料理を準備している間、席が静かになった。ラートンはこほんと咳払いして、口を開いた。

「……遅くなってすまない。急用ができて」

「わかってますよ。なんといっても二等兵隊長、もうすぐ師士の役職に就く人なんですから」

 イルタが言った。全員頷いている。

「本当に来るとは思ってなかったし?」倫があっけらかんと言った。

「そんなことないって」夏季が慌てて言う。

 微妙な空気が流れる中、ユニが次々と皿やグラスを並べていき、皆の手に飲み物が渡った。

「辛気くさい!」

『炎使い』の俊が急にガタンと音をたてて立ち上がった。手にはビールの入ったグラスを持っている。

「全員揃ったな。よし。えー、本日はお集りいただ」

 そこで突然倫が立ち上がってグラスを掲げた。勢い余って水色の液体がテーブルにぼたぼたとこぼれる。

「イルタとラートン隊長、お帰りなさい! 乾杯!」

「お帰りなさい、かんぱーい!!」

 倫に続いてみんなが杯を掲げた。

 満足げに座った倫を、俊が震える手でグラスを握りしめたまま、鬼の形相で睨みつけていた。




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