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安息の荒野「荒野の墓」



 うっすらと目を開けるより先に、食器が鳴る音と、話し声が耳に入った。「エン」という響きに馴染みはないが、どこかで聞いたことのある名前だった。不思議なもので、昔その名を聞いたときによほど印象に残ったのか、それが誰のことであるのかにふと思い至った。たった今隣にいるはずの人物シエ・ラートンの、父親の名。女の子の声が遠ざかっていくと、イルタは開口いちばん尋ねた。

「どうして偽名を?」

「万全を期して」ラートンはイルタの覚醒に驚くこともなく囁き返した。

「傷が癒えるまで名を知られずに身を潜めていたい」

 次に思ったのは日差しがまぶしいということ。ラートンが目を覚ましてから丸一日後のことだった。すでにラートンは自身のことをエン、イルタの名をゲルとユエグ親子に教えており、目覚めたばかりの働かない頭でそれらのことをよく察したものだと、イルタは自分に感心した。


 自分たちのほかに助かった者はいないのかとイルタが尋ねると、パパス・ユエグという大男は濡れた手を前掛けで拭ってから、言いにくそうに口を開いた。

「いねえ。残念だ」

 イルタは視線を落とした。自分の胸元が包帯に埋もれているのが目に入った。

 パパスの言葉で、味方が切り倒される様子が封印を解かれたように思い出された。それでも信じ難い、ラートンと、そして自分だけが生き残ったとは。

 イルタは何も喋らずただ自分の傷だらけの手を見つめていた。パパスはそれ以上何も触れず皿洗いの作業に戻り、ラートンは窓の外を静かに見つめていた。

「だいじょうぶ?」

 娘のカウジだけが、心配そうな顔でイルタの顔を覗き込んだ。

 イルタははっとして、笑顔を作った。

「ああ。元気さ」口元がしみた。倒れるときに唇を切ったのだろうかと手を口元に持っていく。

「あまり触らないほうがいいよ。ばい菌が入ると厄介だって……父さんが言ってた」

「ありがとう、カウジ」

 カウジは遠慮がちに笑うと父親の隣に駆けていった。

 パパスが皿を洗い、カウジが水を切り戸棚に仕舞う。ふつうの生活が奏でる静かな音楽を聞きながら、何気ない風景をいつまでも眺めていたい気分だった。しかし安堵が溢れるほどに、胸の内がざわざわとして黒いもやが濃くなっていくようだった。イルタは両手で顔を覆った。目を覆っても、まぶたの裏には血を流し倒れる人々の像が焼き付いて消えない。


 目の前であれだけの人間が死んだが、俺は生き残った。理由がないのはわかっている。運が良かっただけだ。でも、考えてしまう。他のやつは死んで、俺は生きてる。どうして、俺が。


 それから2、3日、イルタは深く考えながら伏せていた。しかし、答えの出ない暗い考えに取り込まれそうになったときは、パパスの豪快な笑い声と、カウジの猿のようなはしゃぎ声に助けられる。親子を眺めていると、自然と明るい気持ちが膨らむのだった。

 隣のベッドで身体を起こしているラートンも、城にいるときよりも穏やかな表情をしている。親子の力が自分だけでなくラートンにも影響しているのではないかとイルタは思った。


 パパスの診断によると、イルタとラートンの腹の傷は「ただの」刺し傷だがかなり深く、二人とも絶対安静を言いつけられた。特にラートンは頻繁にベッドから出ようとしたが、その度に小さなカウジが膨れっ面で迫るので、ラートンはたじたじとベッドの中に戻るのだった。イルタはそのやりとりを見てはラートンから顔を背け、歪む口元を手で隠していた。

 また、ラートンが全身に負っている点々とした黒っぽい痣は日に日に薄くなっているが、パパスがなにげなく言った。

「そりゃあひょっとして『黒』なんじゃないのか、あんた」

「あなたは『黒』を知っているのか?」

 ラートンが目を光らせた。

「まあ、豆知識程度にな。どこの家にも置いてある『家族の治療』にだって載ってらあ」

 パパスはがはがはと笑って、二人のベッドに背を向ける。ラートンとイルタは顔を見合わせた。


 ユエグ親子は、包み込むような温かさを持つ一方で、何かと秘密めいていた。イルタが見たところでは、偽名を使っている自分たちだけではなく、パパスも同じように身分を隠そうとしている。農民にしては傷に関する知識が豊富で二人の看病をこなしているし、ときおり妙な勘を発揮して鋭い指摘をする。逆にラートンが目ざとくそういうところを突つくので、どうしても、ラートンとパパスの間で緊迫した空気が流れる瞬間がある。そんな二人の様子をカウジはハラハラしながら見て見ぬ振りをするしかないようで、イルタは申し訳なく思った。他人の日常に土足で上がり込んでいる気がしてならず、早く回復して出て行くべきなのだと感じた。


 イルタは、目覚めたばかりのときこそなんの疑いもなく、この親子をどこにでもいるふつうの農家であると思っていた。その環境に心を救われたのも事実だ。しかし、この家屋の外の世界を知るにつれてだんだんと疑問が増えていった。荒野にたった一軒ぽつりとたたずむ、がらくたをかき集めて作られたような家。城下街に限らず郊外の人々は集落を作って生活している。どれだけ人付き合いが面倒でも、つかず離れずの仲間を作って生活した方が、暮らしは楽になるはずだった。

 ところがこのユエグ親子は、人が寄り付かないような荒れた土地のど真ん中に、お世辞にも美しいとは言えない一戸建てを構え、馬2頭で一杯になっている小さな厩を持ち、こんな荒れた土地でもどうにかして自力で耕したらしい肥えた畑で作物を育て、自給自足の生活を送っている。

 他人とのふれあいをかたくなに拒んでいるとしか思えなかった。


 しかし、自分たちのことを棚に上げて何を言うのかとも思う。親子にしてみればこちら側こそ怪しく映るに違いない。一介の兵士と名乗ってはいるが、素性の知れない若い男が家の中に留まるなど、あまり歓迎できる事ではないだろう。怪しさならこちらの方が上かもしれない。

 ある晩、荒野を散歩がてら、イルタがラートンに言った。散歩といっても、身体を慣らすリハビリの一環だ。しかも、行けども行けども木ばかりか、花も草もない荒れた大地で、家が見える範囲までしか進むことはできない。目印がない荒野は壁の無い迷路と同じだった。暇つぶしにもならない散策コースだが、しかし空を見上げれば、無数の星が散る様子に目がくらむ。汚れのない乾いた空気が満ちている証拠だった。ユエグ家の明かりが点々と見えるあたりまで来たときに、イルタが低い声で話し始めた。

「あの家は怪しすぎます。わざわざ不便な生活を選ぶのに、いったいどんな理由があるのでしょうか」

 イルタはラートンから、上下関係を悟られないよう親子の前では敬語を使うなと言いつけられていた。二人きりになったときだけ、丁寧な言葉遣いに切り替えることができた。ラートンにため口を叩くことほど恐ろしいことはないので、イルタはほっとしていた。

「そうだな」

 しかしラートンの返事は素っ気なく、あまり興味がない様子だった。

「まあ、親子にとってみれば我々こそ得体の知れないものでしょうけど」

「ああ」

「親切がすぎる、というのは考え過ぎでしょうか?」

 イルタの問いかけにラートンは何も答えず、夜空をいつまでも見つめていた。イルタもつられて上を見た。無数の色とりどりの星が、砂糖菓子のようにきらきらと瞬いている。これほど多くの星があることをイルタは知らなかった。

 しばらくしてふと隣を見ると、ラートンはまだ星空に見とれている。ふだん鋼鉄のように気を張りつめている男の無防備な姿はなんとも危うげに映った。


 相手が明らかな悪人でないことだけは、自称農民と自称兵士が互いに認めあっていて、一定の距離感を保ちつつ、両者の関係はおおむね良好だった。特に年の頃十くらいの少女カウジ・ユエグは、二人の兵士とすぐに打ち解け、年上の友人が二人同時に出来たことに満足げである。それを見ているパパスも思わず頬を緩め、優しい眼差しで見守るのだった。






 二人がユエグ家で居候を始めてから二十日ほど経っただろうか、ある日の朝、ラートンとイルタは自分たちが発見された場所を訪れることにした。戦場に何か今の状況のヒントになるものがあるかもしれないと、ラートンが提案したからだ。

 現在、ユエグ親子の住居を絶好の隠れ家として利用しているのは、満身創痍の身で敵に遭遇しないためだった。イルタは、人の生活に上がり込むことにはじめこそ気が引けたものの、重要なことだと思うようになっていた。当然のことながら、一つの寝屋にとどまるのでセボの情報からは一切遮断されることになる。満足に歩けるくらい身体が回復したとたん、ラートンの中で止まっていたものが一斉に動きだし、早速の調査、情報収集というわけだ。「何か気づいたことがあれば直ちに教えてくれ」とパパスに念押しするのを、イルタは数回目撃している。

「兵士の埋葬は済ませてある」

 親子の家を出て荒野に踏み出したとき、背後からの太い声で、ラートンとイルタは振り返った。

「余計なおせっかいだったか?」パパスが戸口にもたれて立っていた。

「いいえ、感謝します。彼らも安らかに眠れることでしょう」

 ラートンは静かに言った。

「黒いマントのやつらは放ってあるけどな」

 パパスは頭を掻いた。

「それもまた感謝します。我々が知りたいのは正にその者たちのことなので」

 イルタはにやりと笑って言った。

「埋めた場所はひょうたんみたいな岩の後ろだ。念のため」

「わかりました。さあ行こう、ゲル」

「ああ」

 二人は背中にパパスの視線を感じながら、自分たちが血まみれで発見された場所へと向かった。重傷を負わされた場所に戻ることは恐ろしくもあり、イルタの脈は自然と早くなっていた。

「単なる親切心だろうか。それとも……」

 ラートンがぽつりとつぶやいた。

「でも黒いやつらの死体はそのままにしてあるみたいですし」

「できればセボの兵士の遺体も放置してくれればよかったが」

 死者に対する言葉にしては気遣いがない。ラートンの無感情な物言いにイルタは少し苛立ち、それを微塵も表には出すまいと奥歯を噛み締めて顔を伏せた。

「先に墓参りか、それとも黒装束の検視か。どちらがいい?」

 落ち着いた口調から、ラートンの涼しい顔が目に浮かぶようだった。

「墓参りですね。あの中には、よく知ってるやつもいた……」

 イルタは努めてなんでもない調子で話そうとした。

「だろうな」

 その素っ気ない口ぶりにイルタは思わず顔を上げ、ラートンを睨みつけた。しかし、予想に反して、ラートンの横顔はこれまで見た事のないような哀しみをたたえた表情だった。先ほど抱いた憎しみが吹き飛んでしまうほどイルタは驚いた。

 彼も悲しむことがあるのだと、初めて知ったような気がした。


「四角の地点から、東へA値を十五回測定、そこで勾玉印が現れ……それから、北へC値を七回、測定、と……」

 何の目印もない荒野は、目的もなく歩けば方向を見失いそうだった。ユエグ親子は、自分たちのための最小限の目印を荒れ地のところどころに設け、地図を作り記号や数字、そして風景について細かく記していた。ラートンとイルタは、様々な情報が書き込まれた地図を一晩かけて写したものと、歩数よりも正確に距離を測るため作られた定規を持ち、地図に赤く記した目的地へと向かっていた。

 地図を正しく辿っていくと、丸、四角、三角、様々な印が刻まれた、どれも親子の手作りの岩石の杭が、正確な位置の地面に埋め込まれていた。

「あの親子、いい仕事をしてますね」

 イルタは感嘆した。セボの軍部でも、ここまで地道に地図を書こうとする者はそういない。世代をまたいでやっとできる代物だった。

「これくらい正確に地理を把握していなければ、こんな場所で暮らすことは不可能だろうな」

 ラートンも感心しているようだった。

「おまけに風雨で土地は変化し続ける。年中測量していないとこの地図も役に立たないでしょうね。隊長、思うんですけど、ただの農民がここまでの仕事をしますかね?」

 わからない、とだけつぶやき、ラートンはまっすぐ先を見据えていた。

 やがて、ぽつんと大きな物体が視界に入るようになった。

「パパスが言っていた岩はあれのことじゃないですか?」

 イルタが手を掲げ、日光に目を細めた。ひび割れた地面から荒々しく突き出した大きな岩石は、大と小の二つの岩が連なったような形をしていた。

「おそらく」

 ラートンは額の汗を拭った。


 大岩の裏側に回り込むと、ラートンが急に歩みを止めたため、イルタは彼にぶつかりそうになった。

「隊長?」

 ラートンは墓場を見渡し、立ち尽くしていた。

「……城下街の人々は、誰かを葬るときに何か一つその人を象徴するものを墓標に添える習慣がある」

 大岩の裏に広がる墓場は、小さな丘が十数個並び、それぞれに何かが供えてあるように見えた。

「そのような習慣、わたしは知りませんよ」

「墓石に名を刻むのが主流の今ではあまり見られないかもしれない。一昔前の習わしだ。あるいは墓石を用意できない貧困層くらいのものだろう」

 ラートンの後に続いて一列に並んだ墓の前をゆっくりと歩いていくと、イルタは供え物の正体を確認した。肩章だった。イルタの制服の肩の部分にも縫い付けてある肩章。その金属片には兵士の名が刻まれている。

「こうして肩章を切り取って並べるのは、家族の元へ還る望みのない、戦場で死んだ兵士を葬るときによく見られた。パパスはセボの元兵士ではないだろうか? 大方逃亡兵といったところか。農民を装っている理由も説明がつく」

 めずらしく言葉の多いラートンだったが、イルタの耳には次第に言葉が届かなくなっていた。崩れるようにして墓の前に立て膝をつき、整然と並べられた埃まみれの肩章を震える指で夢中で辿っていった。ビロン、シルバリ、テテイロ。みんな一度は杯を交わしたことがある人間だった。

 戦闘中は剣を手に無我夢中だったが、こうして改めて仲間の死に様を思い返すと戦慄が走った。カルーの怪力剣を前に、切り捨てられるようにして崩れ落ちた、若い男たち……。そして、恐怖の後に押し寄せるのは、ひたすら悲しみだけだった。

「初めてか。仲間を失ったのは」

「ええ」

 イルタはこぼれ落ちる涙をぬぐった。ラートンを前にしていても耐えられず嗚咽を漏らした。横一列に並ぶ小さな墓標を前にして、二人はしばらく沈黙した。

「……そうですね。今までは賊の雑魚くらいしか相手にしたことがなかったですし。隊長は経験があるんですか?」

「ないと思うのか」

「もちろん、あるんでしょうね」

「あたり前だ」

 即座に返された頼もしい答えにイルタは少し笑ったが、仲間の眠るこの荒野のように乾いた声しか出てこなかった。


 このような思いをしてまで戦場に身を置きたがる人間がいるのか? 隊長は、なぜ……。

 イルタは鬱々と考えながら、ラートンの踵を見つめて歩いていた。急に、ひどい臭気が鼻をついた。死体が腐る臭いだろうと、戦場に不慣れなイルタにでもわかる。

 やがて眼前に希望のかけらもない光景が広がった。地面のところどころが盛り上がり、黒い布がはためいている。

「向こうで吐いてこい」

 ラートンに言われるまでもなくイルタは走っていた。黒く横たわる屍を背に、イルタは吐くものがなくなるまで吐いた。それから外套の裾を乱暴に破り、口と鼻をしっかりと覆った。両手で思い切り顔を叩くと、目を見開いた。

 俺は逃げないぞ。生き残った俺が、死んでいった仲間のためにできることが見つかったような気がする……ここで得られる情報を、セボに持ち帰ること。

 仲間の墓を目にした直後で、吐き気を催す死体の外観や悪臭に対する嫌悪感よりも、怒りが勝った。もう一度顔を叩き、ラートンの元へと戻った。


 ラートンは鼻をつまみもせず、涼しい顔を一つの死体に近づけていた。イルタが戻ったのに気づき顔を上げると、手招きはしないが顔は「来い」と言っていた。

「下に何かある」

 ラートンは黒装束の胸元を指差している。

 イルタが勇気を振り絞り、目を細めてラートンの示す場所を見ると、確かに黒いマントの下から、オレンジ色の皮膚のようなものがのぞいていた。

「なんでしょうね……」

 イルタは、自分は言葉といっしょにまた何か吐くのではないかと、おそるおそる小さな声でつぶやいた。しかしラートンはイルタに構わず、なんの合図もせずに黒装束のマントをめくり上げてその下にあるものを露にした。イルタは反射的に目を両手で覆っていたので、マントの下は一切見ていなかった。

 うーん、と、ラートンの唸る声が聞こえる。イルタは興味をそそられた。ラートンに無意識の唸り声を出させるものとは何なのか。ゆっくりと手を下げ、それを見た。乾いた気候のおかげで予想より状態はひどくないとは思ったが、生きた人間の皮膚とは色味が明らかに違い灰色にくすんでいるように映り、微妙な差がかえって生々しかった。しかしそれよりも先に目を引いたのは、死体の皮膚が様々な色に塗りたくられていたことだ。壊死による変色ではあり得ない。明らかに誰かの手によって着色された色だ。


 黒装束の皮膚は、赤や橙、黄色、青など、様々な色に塗られていた。それも、配色などお構いなしの原色ばかり。剣を交えている間は気づかなかったが、黒装束たちはマントの下は、上半身には何も身につけていなかったようだ。

 ラートンは続いて隣にうつぶせている死体のマントをつかみ、やはりカラフルに塗りたくられた胸を露にしながら、仰向けにひっくり返した。

 死体の顔で何かが蠢いている気がして、イルタは片手で頭部だけは見えないようにした。イルタの動作を意識したのか、無意識か、ラートンははがしたマントを死体の顔に覆いかぶせた。


「何に見える」

 ラートンがイルタに問いかけた。ラートンが何を尋ねているのか、イルタは理解した。死体の臍を中心に描かれた模様は何かの形に見えそうだった。

 好奇心が不快感を打ち負かした。イルタは目を逸らしたいのを我慢して、くたりと地面にのびている死体を眺めた。そして、死体から離れたり、近づいたり、目を細めたりした後で、一つの答えを導き出した。

「蝶……ですか?」

 イルタの返答に、ラートンは黙ったままだ。しばらくしてからぽつりとつぶやいた。

「黒装束に、原色の中身……」

 ラートンは思考にふけっている様子だった。イルタは再び吐き気が込み上げ、言葉を発する余裕はあまりなかったので、布で覆った口元を手で押さえながらラートンの背後に静かに立っていた。

 たたた、と軽やかな足音がして、イルタが振り向くと、大きな布切れで口元を覆ったカウジの姿があった。

「手伝いに来たよ!」

 イルタはぶんぶんと首を横に振り、来るなと合図をした。しかしカウジは構わず走ってきて、あっという間にイルタの横にやってきていた。

「平気なんだな……」

 イルタは弱々しく言った。

「慣れてるから」

 カウジがはつらつと言った。

「慣れてる?」

「死体があると、甲冑とか剣とか、金属がないか探すんだ」

 吐き気から気を逸らしたくてなんとなく話していたが、カウジがさらりと言った言葉に衝撃を受けた。

「カウジ、それは盗みをするのと同じだ」

 イルタは思わず怒りをこめていた。

「お金を取るわけじゃないよ」

 カウジは驚き、慌てて言う。

「お金でなければ取っていいなんて……」

「ゲル、やめろ」

 それまで一人考え込んでいたラートンが突然立ち上がった。

「子どもを責めることはできない」

 イルタはラートンの言葉で口を閉じた。

「ごめんな、カウジ」

 しかしカウジはあかんべをして、駆け出した。

「やれやれ、しまったなあ……。つい、大声出しちまった」カウジの小さな背中は、今やって来たばかりの方向へと遠ざかっていく。彼女には地図が必要ないらしい。「でも、死体からものを盗るなんてこと、セボでやったら懲役刑ですよ」

「農作物の自給自足の生活といっても、たかが知れている。肉は一体どこで手に入れていると思う?」

「やはり金は必要ですよね。農作物よりも、金属の方がお金になる」

「生きるために仕方なくやっているのかもしれない」


 しかしイルタは死体から物を頂戴するという行為は許されないことに思えた。そこまでするくらいなら集団の中で生活するべきだと。ならば、ユエグ親子はなぜそこまでして集団からはずれて生きなければならないのだろうか。疑問がますます大きくなり、興味も湧いた。


「ところで、こいつらはなんだと思います?」

 イルタは辺りに転がる死体をぞんざいに指差して言った。  ラートンはしばらく考えてから、言った。

「中身が色鮮やかな蝶ならば、それを覆っていた黒い衣服はなんだと思う?」

 イルタは、うーん、と唸りながら、蝶が生まれる様子を思い浮かべた。

「サナギ。黒いサナギから生まれる蝶」

「俺も同じことを想像した」

「どういうことですか」

「そこから連想される言葉は『成長』や『進化』。奴らの行いはこれからエスカレートしていく、ということではないだろうか」

「悪趣味なダイイングメッセージですね」

 イルタは言った後で、ラートンの方を伺った。軽々しいことを言ってしまったかと思ったのだ。

「君はおもしろいことを言うな」

 ラートンが真顔で言った。

「おもしろい、ですか?」

 ラートンがしかめ面のままなので、思わず聞き返した。彼の表情を見る限り、とてもおもしろそうではなかった。

「ああ。俺の頭では『悪趣味』と『ダイイングメッセージ』は結びつかない。ダイイングメッセージは高度な暗号で、卑下する類いのものではないと思い込んでいるから」

 ラートンなりの褒め方なのだろうとイルタは察した。

「まあ、そういうセンスは俺よりもアレモ……俺がいつもつるんでいる赤毛の二等兵です。わかります? ……彼の方が持っていると思いますけど」

「君たちのそういうところを時折うらやましく思う」

 イルタは耳を疑った。ラートンらしくない話しぶりに、思わず笑みがこぼれ、茶化した。

「光栄です」

 しかしラートンは笑わない。

「冗談ではなく。近頃、夜が静かなせいか、よく考えるのだ。君らにできて俺にできないことがあると」

「……言わせてもらいますけど、それは当たり前のことではないですか。誰にでも得手と不得手はありますよ」

「俺に出来ないことがあってはいけないと、そう思っていた」

「本当ですか。それは荷が重すぎますよ。生きるのが嫌になる」

 イルタは半分あきれながら聞いていた。ほとんど笑いながら話していた。

「こうも思う。もっと多くの人間と関わりを持った方がいいと」ラートンはぴくりとも笑わない。

 イルタの目には、ラートンが年下の少年のように映っていた。それは年相応の若者の姿だった。誰もいない土地で話しやすく口数が増えたのだろうか。

「今までふれあったことのない人間と少し言葉を交わすだけで、俺の考えはどんどん変わっていく」

「ユエグ親子のことですか」

「確かに、気づいたきっかけは彼らとの生活だ」

 イルタは少し考えてから、言った。

「夏季ですか」

 夏季とラートンが激しく言い争いをしたという噂を、小耳に挟んでいたからだ。ラートンと口喧嘩をしようとする怖い者知らずな人間は、彼の知る限り彼女だけだ。

 ラートンが何かを思い出すように吹き出した。カウジに向ける微笑みとも違い、無邪気な笑いだった。

「おもしろいやつだ。彼女も、ほかの『使い』も。城に帰ったら、彼らともっと話をしたい」

「いいですね」

 イルタは、自分やアレモと、夏季たち、それにラートンが同じテーブルを囲んで酒を酌み交わす姿を想像した。


 城に帰る楽しみが増えたぞ。そう思わないかい、アレモ?

 自分を待つであろう友に呼びかけた。顔を上げると地平線は一直線で見渡す限り何もない。しかし、いつか還る故郷への気持ちは強くなるばかりだった。




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