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使い「魔女とステッキ」



 太陽が傾きはじめ、まだ強い日差しが乱暴に窓から差し込んでいた。光の当たる場所はますます明るくなったが、影はくっきりと濃くなり、明暗が分かれた。

 男は、粉をふいたように埃っぽいマントの裾をなびかせながら、急ぎ足で回廊を歩いていた。鼻の下に口ひげを蓄え、まぶたの下には深い森の中で人知れず流れる川のように澄んだ、青い瞳があった。しかし感情の光は灯っていない。


 彼は城の中を隈無く知っているようで、目的地が定まっているのだろう、土のこびりついたブーツの立てる足音はコツコツと小気味よい。通りすがりに会釈してすれ違っていく人々を、かえりみることなく前進していた。

 しかるべき場所に近づくにつれて人もまばらになっていき、地下へ通じる小さな扉の前に着く頃には辺りに人はいなくなった。黒っぽい木製の扉を前にして、男はしばらくぴくりとも動かずにいた。背中の広い後ろ姿にはどこか気の抜けたような空気が漂っている。やがて、懐を探り、くすんだ赤褐色の鍵を取り出し、皺のある手の上で転がした。しばらくそれを弄んでいたが、ふと手を止めて、何かに気付いた様子で振り返った。回廊の曲がり角に目をやり、誰もいないことを確かめるとすぐに扉へ向き直った。

 しかし、鍵を鍵穴に差し込もうと手を出したとき、男は再び身を翻した。息を呑むほどの素早さだった。金属がぶつかりあう鈍い音が響き、男は衝撃で少し揺れた。余韻を引く打撃音が静寂に消えたとき、男の手には長い剣が握られていた。長年の間苦楽を共にした愛着のある品であることが伺える、把手に銘が刻まれているものだった。擦れたセボの文字は「オスロ・ムスタ」と読むことができる。剣を抜いた初老の男は、穏やかな顔つきで相手を見つめ、落ち着いた口調で言った。

「ハリル。ここで君に会うとは思わなかった」

 大槍を持った男がぜいぜいと息をしていた。全速力で走って来た様子で槍に寄りかかるようにして立ち、無精髭だらけのくたびれ顔は汗に濡れている。

「オスロ、いったい何をしているんだ」

 ハリルは苦い薬を舐めたように顔を歪めた。それとも、少しも取り乱さない相手に戸惑ったか。「セボが攻め入られているんだぞ。あんたが奥さんと同じくらい大事にしているもんだろ」


「ああ。わたしはセボを愛している」

 オスロは反芻するように、しみじみと言った。目はハリルより遠くのものを見ていた。

「知ってるよ。みんな知ってる」だからこそ、とハリルは心の中でつぶやいた。「なのに、なぜ裏切る?」

 オスロは両手に顔をうずめた。そして、壁によりかかると、力が抜けるようにしてずるずると床にへたり込んだ。それを見たハリルは、彼がただの疲れ果てた老人のように見えて嫌な気分を味わった。そのような軍師の姿を見るくらいならば、ここへ来ないほうがよかったのではと、後悔した。

「ここへ来て、少し話さないか」

 オスロ師士が、小刻みに震える顔でハリルを見上げている。頬の皮膚はたるみ、瞳が揺れている。常にまっすぐ前を睨み、威厳のある眼光で配下の二等兵たちを律してきた人物とはかけ離れた姿だった。

 ハリルは大槍を構える腕から力を抜いた。オスロの傍らへ歩み寄り、武器を床に置いて、やりきれない想いを傍らに押しやり、どさりと腰を下ろした。彼は何かを伝えたがっている。それはせめてもの救いなのかもしれなかった。

 ハリルの大槍の横にはオスロの長剣が並んでいる。主とは反対に、銀色の刃は輝きを失っていなかった。






「セボを愛してきた」

 オスロがぽつりと言った。ハリルは深く頷き、先を促す。

「穏やかな気候、豊かな土壌、民の知恵。他国が滅びここだけが残ったことも、それはこの国が素晴らしいからだと実は思っていた。……若い頃の話だぞ」

 オスロは弱々しく笑った。ハリルは胸ポケットから煙草を二本取り出し、ライターで手早く火をつけた。一本をオスロに差し出す。オスロは煙草を受け取った。

「しかし、素晴らしいと同時に、呪われてもいる。五十年に一度の『黒』の襲来。『黒』は姿形を変えて、時代を超えてやってくる。何度『使い』が現れ滅ぼしても同じことだ。お前にもわかるな。貴重な『五十年に一度』の時代を生きた者だから」

 オスロは床を見つめて、ぼそぼそと話した。

「そう。君と同じように、わたしも十七年前、実際に『黒』が魔女リカ・ルカという姿で現れセボを混乱に陥れ、やがて『使い』によって滅ぼされるのを目撃した人間だ。あの当時のことで最も忌むべき記憶は『闇使い』のクロ・アルドの死だろう。無敵と思われた『使い』の死に、皆が落ち込み、悲しんだ。それに血を流した兵士たちを挙げたらいったい何人になるのか。しかし、多大な犠牲を払いながらも悪を滅ぼした。そして五十年の平和が約束された……はずだった」

 それらは自ら見たり人に聞いたりして知っている類いの話であったが、ハリルは口を挟まずに聞いていた。

「ところが、それからわずか十五年後だぞ。『次の時』までにはまだ三十年以上の時間があるはずだった。にもかかわらず、リカ・ルカが復活したという噂がセボに届いた。信じ難い話だったとも。文官たちが信じようとしないのも、分からないこともない。数百年の間、言い伝え通りだったものが、ここへ来て違う方向へ転がりだしたのだから」

 オスロの指に挟まれた煙草は口元に運ばれることがないままで、ちりちりと焦げるだけだった。

「十五年の間にわたしは多くの若い友人を失った。クロをはじめ、エン・ラートン、王と王妃。皆、人格者で才能もあり、頼もしかった。わたしなどよりずっと。彼らが生きていればわたしはとっくに引退の道を選んでいただろう。安心して後世にタスキを渡し、退くことができただろう。特にエンの損失は大きかったよ、わたしにとっても、国にとってもね。わたしの後継者となるはずだった。しかし彼は死に、その後軍部は縮小が進み人材は育たない。武技大会が廃止されて逸材の発掘も難しくなった。若いシエ・ラートンではまだ早すぎるしな。彼はまだこれから経験を積まなければ。念のために聞くが、わたしの役職を、お前は絶対に引き受けないだろう?」

「ご免だな。俺には二番手が向いてる」ハリルは歪んだ笑みを浮かべた。「吸えよ」

 オスロの指に挟まれたまま短くなっていく煙草を指して言った。オスロは顔を上げずに笑い、煙草を吸い込んだ。

「復讐に燃える魔女。わたしのような老体には、荷が重すぎたよ」

 そして、吸うよりも長い時間をかけて、煙をゆっくりと吐き出す。

「わたしは疲れた。自分はなんのために軍部のトップに居座っているのだろうと、疑問に思った」

 トントンと煙草を叩いて灰を落とし、ブーツの踵で床にこすりつける。

「ほんの一瞬だったんだがな、セボへ仕える意味を疑った。それがいけなかったようだ。わたしの忠誠心に小さな影が生まれた。魔女はわたしを狙っていたに違いない。彼女はわたしの一瞬の隙を見逃さず、そこにつけ込んだ。魔女は人の心の影を見つけるのがうまい。そして入り込んでくる。一度捕まったら最後、やつの操り人形となる他はないんだ」

 オスロは居心地が悪そうに、身じろぎした。

「今はわたしを保っておる。しかしぐずぐずしているとわたしの身体は彼女に乗っ取られるだろう」

 ハリルは奥歯を噛み締めた。

 あんたが太刀打ちできないなら、セボの誰もが危ないだろう。

「狙いは、ステッキか?」

 ハリルが口を開いた。

「そうだ。レナとセナのステッキ」

「軍部のトップがいつも肌身離さず持ち歩いているその鍵で、厳重管理されているものだよな」ハリルはオスロの手の上にある赤褐色の金属を指差した。「魔女が狙う『モノ』といったら、それくらいしか思いつかなかった」

「勘がいいな」オスロは思わずというように、にやりと笑った。

「だけどよ、狂ったババアがそれをいったい何に使うつもりなんだ? 『使い』の召還以外には役に立たない代物だろ」

「そう。あれで魔女がなにをしようとしているのか、詳しくは知らない。しかし、これはセボでも一握りの人間しか知らないことだが、あのステッキは、『使い』を呼び寄せるための道具であると同時に別の力もある。あれに備わった力でセボを滅ぼすという腹積もりかもしれん」

「だが、レナとセナじゃなけりゃ使えないんじゃないのか? 二人ごとさらっていくつもりかよ、婆さんはよう」

「これも言っておく。二本のステッキをレナとセナの持ち物としているのは、力を隠し、悪用を防ぐためのカモフラージュにすぎない。あのステッキは誰でも使うことができる。自分の身体の一部と交換することを条件にな」

 オスロは横目でハリルを見た。わかるか、と言うように。

「足だな……。レナとセナに足がないのはそういうわけなんだな」

 ハリルもオスロを見返した。確信を持って。

「そう。そして、足を奪われる代わりに、ステッキを扱う力と、足をなくして移動する力、そして不老の命を、与えられるのだ。ただし、ステッキによって止められた時間はステッキを手放すことで一気に進行する。今、レナとセナがステッキを所持する権利を奪われたら、数百年の時間が押し寄せて、彼女らはちりとなり消えてしまうだろう」

 ハリルは考えながら聞いていた。軍部の最高機密であることは間違いなかった。オスロはそれを話してこれからどこへ行くのか。

「ああ、ずいぶん長々と喋ってしまったな。結論を言おう。わたしはたった今魔女に心を乗っ取られてもおかしくない状態だ。ステッキを奪うために、ためらいなくお前を殺す。そしてレナとセナも殺す。手遅れになる前に、わたしは自ら死のうと思う」

 オスロは最後まで、淡々と話した。






 ハリルは手に持った煙草をぽろりと床に落とした。床を張り替えない限り残るだろう、木目の上に小さな焦げ目がついた。

「それはだめだ。やめてくれ。お願いだ、オスロ」

 オスロは自分の煙草も床に落とし、ハリルのものといっしょにブーツの踵でこすりつけ、火を消した。床の焦げ目は濃くなった。

「しかしだな。魔女はすでにわたしから様々な情報を得ている。わたしはセボにとって有害なのだ。それに、お前やそしておそらくラートンに、わたしが魔女の手先だということが暴かれた今、わたしは魔女にとって用済みの人間となった。彼女に殺されるのを待つくらいならば、自ら命を絶つ」

「他に方法があるだろう」

「血の契約を交わしたのだ。その意味が分からないか?」

 先ほどまでのしょぼくれた老人の姿が嘘のように、オスロは毅然とした態度でハリルを睨みつけた。その青い瞳は、何者にも揺るがされることのない自信が、泉のように溢れていた。

 ハリルは握りしめた大槍で、床をどんと叩きつけた。血の契約の効力は生涯続くことを知っていた。だから苛立った。

「セボにはリカ・ルカの力を知っているもんが大勢いるんだ。話し合えばいい。そう簡単にあんたを裏切り者と言い切る奴はいないさ。あんたは魔女の手先じゃない」

 オスロはゆっくりと首を横に振った。

「今のわたしを見ても信じられないだろうな。契約を交わしたことなど。しかし今はわたしに残った最後の力で自分を保っておる。ぎりぎりのところでだ。わたしが力尽きたとき、君はわたしの目に紫色の瞳を見て後悔するだろう。そうなる前に……。わたしの意志が残っているうちに、残された力で自害する。魔女を倒すことができないならば、自分を殺すまでだ」

「あんたがいなくなったらセボは本当にどうにかなっちまう! あんたが死ぬのはセボが死ぬのと同じことだ!」

 ハリルは食い下がった。しかしオスロは首を縦に振らなかった。

「このざまだ。わたしが生きることでセボは死ぬ」

「ユニはどうするんだ?」

 妻の名を出しても、表情は崩れなかった。

「死なせてくれ」

 オスロが唸った。物わかりの悪い生徒に苛立っているようだった。

「わたしにはもう、時間がない!」

 悲痛な叫びだった。






「もう腹は決まっているんだな」

 ハリルは低い声で、静かに言った。

「ああ」

 オスロの物言いは穏やかな調子に戻った。

 ハリルは肩をすくめて、首を横に振った。自分にはなにもできやしないと、言い聞かせる。二人とも、見つめ合って笑わなかった。ハリルは、目の前にいる男とこのような別れを迎えることなど、予想だにしていなかった。

「これを頼む」

 オスロは懐から小さな封筒の束を取り出した。

「泣けちまうぜ」

 皮肉の調子で言ったが、冗談というわけでもなかった。

「術に嵌まった時点で、いずれこのようなことになるのは分かっていた。皆に宛ててある。必ず渡してくれ……お前の分もある」

「それはどうも」

 ハリルは真顔で言った。


 目の前でしゃんと立っている男と永遠の別れをするにあたって、何をするでもなかった。うまい言葉は出てこない。





 ハリルは全て見届けた。そこに立ち、他には何もせず、ひたすらに見た。

 自ら選んだ「死」の道を、オスロは果敢に突き進んだ。自らの剣で自らの腹を貫き、くずおれた。膝を曲げ、床に膝をつき、ゆっくり、ゆっくりと、腹を折り曲げた。歯を食いしばりうめき声一つあげないのは、彼が守りたかったプライドのように思われた。深い皺の刻まれた額にいく筋もの汗が流れ、髪の毛の先からブーツのつま先まで全身が小刻みに震えていた。流れる血の量に比例して、荒くなった息は静まっていく。赤色の血液といっしょに、オスロを作っていた大事な要素が抜けていくようだった。生きるために必要なものは腹の傷からずるずると漏れ出していった。

 力尽きた老人は無造作に横たわった。口からひょうひょうと細い息は漏れていても、光の消えかけた瞳はほとんど虚ろで、終わりが近いという真実を映していた。最後の灯火のような息が絶えるまで、時間はかからなかった。






 うずくまるようにして横たわるオスロの遺体の傍らに片膝をつき、そっとかがみ込んだ。ごつごつとした手の近くに、小さな赤褐色の鍵が転がっていた。

 ハリルは手を伸ばし、それを拾い上げた。何も考えず、険しい顔で、ただ見つめた。


<寄越せ>

<鍵を寄越せ!>

<その鍵だよ!!>

 しわがれ声が、鍵の中から聞こえてくるような気がした。

「くたばりやがれ、糞ババア!」

 右手の壁が粉々に砕けた。叩きつけた拳に痛みは感じなかった。壁を破った手は血まみれだが、その中には同褐色の鍵がきつく握られていた。誰にも渡さねえ、と言わんばかりに。

 声はぱったりと聞こえなくなり、先ほどの声が魔女のものだったのかは定かではなくなった。


 ハリルは、制帽を投げ捨てた。野太い声で叫んだ。

 本当に俺には何も出来なかったのかと、繰り返し自分に問いかけた。




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