ステッキの女「雨に混じる涙」
坊さんが何かぶつぶつ話している。
「念仏を唱えている」という表現よりも、こっちの方がしっくり来ると、哲は真面目に考えていた。
祖父が死んだ。発見したのは、いっしょに暮らしていた、孫の哲だった。
何をどうすればいいのかがわからずとも、とりあえずは救急車を呼び、親戚に電話をかけ、母方の叔母夫婦が到着してからは成り行きを見守るだけだった。なにもかもが手早く済まされ、祖父が死んだという実感が湧かない。
やっとのことで、永遠に続くかと思われた坊さんのぶつぶつが終わり、どこか宙を見ていた哲はハッとして立ち上がった。これから昼食で、その後、出棺となる。
どこに座っていいかも分からず、かなり集まった親戚たちの合間にやっと席を見つけた。同年代の兄弟や従兄弟もいなければ、ここに集まった親戚とはほとんど会ったこともないので、哲は黙々と冷たい弁当を食べ始めた。
「まったく、急に死なれるとこっちの予定が狂うわよ」
息巻いて話しているのは、哲が病院の電話で呼んだ叔母である。
「それでもちゃんと来てるじゃないか」
初老の男性が言った。
「当たり前でしょう。いっしょに住んでるのが中学生の坊ちゃん一人じゃあ、こういうときどうすればいいかわからないじゃない」
(もう高一なんだけど)
と哲は思った。
「なあ、哲くんのことはどうするんだ?」
と、叔母の旦那が切り出した。本人がすぐそばにいることにはお構い無しだ。
「どうするってあんた、一番縁があるのはあなたたちでしょう?」
一度も会ったことが無い中年女性が言った。
「そうやって、責任を押し付ける。あー、やだやだ」
叔母が、大げさに首を振った。
「仮にうちに来るとしても、部屋もないし、お金の余裕もないし」
再び見知らぬ親戚が口を開いた。
「うちもちょっと……」
そう言った男性も、哲はその顔を初めて見る。
「そうやって言うけど、みんな分かっているじゃない。結局は我が家が引き取ることになるのよね。『仮にうちにに来るとしても』とか言って、悩むフリをするなんて、なんと嫌味だこと!」
叔母が声高らかに言った。『仮に』の部分だけ、いやらしいほどに、強調していた。
我慢ができなくなり、哲は席を立った。気付いているのか、いないのか、部屋を出て行く彼を誰も引き止めようとしなかった。
(せめて莫大な財産でも残されていたら、みんなで俺を取り合ってたかもな)
大して怒るふうでもなく、哲はぼんやりと考えた。
実の両親はとっくの昔に亡くなっていて、気付いたときは、祖父と暮らしていた。そんな矢川家に対し、叔母夫婦は知らん顔。これまで会った回数は、指を折らない方がまだ分かり易い。
あんな人のところで暮らすなんてこっちから願い下げだよと、内心では思っている。しかし夫婦の『好意』を断れるほどの余裕はない。まだ未成年だし、高校は卒業したい。お金が要る。誰かに養ってもらわないと生きて行けない立場なのだ。
それとも、思い切って高校を中退し、働くか?
そんなことを考えながら、祖父との思い出が詰まった家の、門を出た。
(出棺に付き合わなかったら、じーちゃん怒るかな。でも、あの人たちといっしょにいるのは、もう耐えられないよ)
外は小雨だった。焦げ茶色の髪の毛が、哲の頬にはりつく。
病院でじいちゃんの安らかな顔を見ているときだって平気でいられたのに。なぜだか急に涙が出そうになって、空を見上げた。静かな瞳はその持ち主の性格を表すようにゆっくりと穏やかに、しかしそれでもしっかりと、一度、二度、とまばたいた。雨が放射状に降り注いでいる。しとしとと落ちてくる雨粒が、真っ白なワイシャツをしめらせていった。
哲はふと、雲の中に何かを見た気がした。
「なんだぁ?」
開いた傘が、くるくると回りながら舞い降りてくる。
真っ直ぐに向かってきたので、哲はその柄をはっしと掴んだ。
「濡れちゃうでしょ?」
傘の向こうに、先ほどまではいなかった、女の子が立っていた。年は哲とそう変わりそうもない。
哲は口を開けて突っ立っている。
「あなた、哲くん?」
「は……、はい。」
「これでよし! 仕事が終わったぞぉーー!」
少女はさもうれしそうに叫んだ。
そして、手に持ったステッキを振る、宙に文字を書くように。
哲は訳も分からないまま、傘だけを残して、こつ然と消えてしまった。