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使い「手の温もり」



 街の様子を確かめようと、ユニと俊、アレモを残して病室を出た。回廊にある、開け放たれた両開きの大窓から、上半身を乗り出した。セボの城の真白い壁。強い風にはためく旗は、その白によく映える濃くて明るい青。そこに刺繍された白い花の紋章が陽の光にきらめいている。夏季の少し長くなったポニーテールも、国旗と同じ方向になびいた。

 遥か彼方、城下街でもはずれの方で、灰色の土煙のようなものが立ち上っている。城の中が騒がしい。街で黒いマントの連中を見てからというもの、それなりに平穏だったセボでの日常は変わり始めた。城は落ち着かない足音で溢れ、あちこちで人々が言い合う声が病棟にまで届いている。夏季の胸の鼓動が速まった。


 病棟の入り口付近に、ハリル副隊長のぼさぼさ頭を見つけた。彼に続いて白い看護帽をかぶった男たちが担架をかついで病棟に入って来る。やはり街で何かが起きたのだ。あの灰色の煙、街を彷徨う黒いマントの団体、そして、青い封筒……。怪我人が出るほどの騒ぎが起きたのだろうか。

 そしてその後から入ってきたのは、ラートン隊長だった。彼の衣服が黒光りしている。元々黒い衣服だが、それが光るのは何かべっとりとした液体がついているからだ。その液体の正体は? 夏季は自分の想像が恐ろしくなり、思わず身震いした。

 運ばれてきたのは誰だろう。知らない人ならいいんだけど。ああ、もちろんいいわけはない。ただ、もしも自分の知っている人があんなに血を流していたりしたら、すごく嫌だなと思っただけで……。

 無意識のうちに夏季は頭の中で知人の顔を思い浮かべた。

 俊は病室にいる。ユニさんも、アレモさんも。ハリル副隊長やラートン隊長はすぐそこにいるし、倫さんは図書館にいるかな。あ、イルタさんとウォローさんはきっと街に出ているだろうな。デートが台無しになってはいるかも……。あとは、……哲は……

 まず、昨晩の哲の少し冷たい目線が蘇った。それから、半端な笑みを浮かべながらイルタの頼みを受け入れる彼を想像した。その場面を、驚くほど容易に思い浮かべることができる。

 哲はいま、「裏門」で……。


 夏季の足は勝手に動き出していた。病室の一つへと入って行く担架から目が離せなかった。そこからはみ出している、片方靴の脱げた足、そして片方残っている見覚えのある、埃にまみれた黒革のローファーを食い入るように見つめた。

 あの靴は、セボでは売られていない。わたしたちの世界で高校生がよく履いているものだ。


「あ、夏季ちゃん」

 ハリルは夏季が立っているのを見て、まずいというように両手を上げた。

「哲は?」

「必要な処置はした。助かるかもしれない」

 少年の身体が担架からベッドに移されるのを見守りながら、ラートンが言った。

 ハリルが戸口に立ちはだかろうとしたが、夏季は男二人の身体を力づくで掻き分けた。ラートンの腕に触るとき、やはり彼の衣服の袖にべっとりとしたものが付いているのを感じて、思わず鳥肌が立った。

 病室の入り口に立って最初に目に入ったのは木枠の窓。そこから見えるのは、セボの旗と同じ色をした濃いブルーの空。下方からわき上がっている、もこもことした入道雲が見える。夏季が雨を降らせない限りいつまでも続きそうな、さわやかな快晴だ。そして、その窓の傍らにベッドが配置してある。患者が外の景色を見るのもカーテンを閉めて陽を遮ることも自由に選択出来るように。その上でぴくりとも動かずに横たわっている哲は、肌の色は紫色で、胸は包帯でぐるぐる巻きにされていた。

「何があったの?」

 夏季は声を震わせた。哲の変わり果てた姿から目が離せず、まばたきすらできなかった。

「急襲だ」

 ラートンはぽつりと答えた。

「哲だけ?」

 のどが詰まる。

「他に家屋が破壊されたが、幸い死人も重傷者も出なかった」

「どうして哲が……」

 肩が震えるのを、どうすることも出来なかった。

 もう一度、昨晩の哲の冷たい視線が蘇った。くだらないことで言い合いをしたばかりだった。

 わたしが一言謝ればきっとすぐに仲直りできたのに。そうする前に、こんなことになるなんて……。

 まぶたの外に出たがる涙を抑えようとしたら、軽い頭痛がして、少し顔をしかめた。

 こんな痛みどうってことない。哲の痛みに比べたら。あんなにたくさんの血を流して、いったいどれだけ酷い怪我をしたんだろう。

 夏季は部屋の入り口に立ったまま、それ以上彼に近づくことができなかった。彼の瀕死の姿を間近で見ることが怖かった。


「離してよっ! またわたしを城から追い出すつもり!?」

 病棟に甲高い声が響いた。夏季は呆然として立ち尽くしたまま振り返ろうともしなかったが、ラートンが病室を出て行った。

 倫が兵士に腕を掴まれ、病棟に着いたところだった。三人掛かりで押さえつけられているため、足は宙に浮いている。

「君に頼みがある」

 ラートンは倫の正面まで来て言った。

「あーらそう。それにしてはずいぶん手荒な真似してくれるじゃない。人にモノを頼む態度っていうのがあるでしょう」

 倫は低音から高音まで器用に使い分けた。これだけ表情豊かな怒り方もあまり見ないと、ラートンは少し気を逸らされた。

「急ぎの用なんだ。人命に関わる」

「……それなら仕方ないけど。だったら今度はちゃんと事情を説明してよね。こいつら何も言わずに私を引きずっていくんだから」

 倫が腕を動かそうと乱暴にもがいた。

「ああ、約束する」

 本当に約束するのあんた、とヒステリックに返したくなるような素っ気ない言い方だったが、それだけ事態は差し迫っているものと判断した。身体の力を抜くと、三人の兵士は腕を締め上げていた手を離した。床に着地した倫は赤くなった手首をさすり、ラートンの暗くも美しい顔を睨め上げた。目の下に浮かぶ紫色のクマを除けば、非の打ち所の無いクールな顔立ちである。

 この冷徹漢、その辺の女よりよっぽどきれいな顔してるのよね。憎たらしいったらないわ。

「それで? 何すればいいの?」

 倫の頭のてっぺんからは湯気が出そうだった。ラートンは涼しい目で倫を見下ろしている。

「ドクラエの実、もしくはそれに類する植物を今ここで栽培できるか」

 倫以外、ラートンの言葉だけ聞いてそれがいったい何を意味するのかを一瞬では理解できなかった。倫はフンと鼻を鳴らして、顎を少し上に反らせた。

「誰かすごい毒でも盛られたわけ? ドクラエの実は無理だけど、その半分くらいの力がある薬草なら大丈夫よ」

「ならば頼む。早急に」

 倫は一度頷くと、右腕の袖をまくり、深呼吸を始めた。

「ちなみに、誰なの、解毒剤を必要としているのは」

「君の知り合いの一人だ」

「夏季はそこにいるわね。俊ていうバカ男なら間違いなく、罰が当たっても仕方ないんだけど。どうなの?」

 倫は吐き出すように「バカ」を強調した。

「君の予想に反して、呪いを受けたのは『風使い』の哲だ」

 倫は整えていた呼吸を乱し、舌打ちした。

「よりによって……」深いため息が口から漏れる。

「ならがんばらなくちゃ。哲くんのために」

 そして、浮き上がった眉間の皺は一瞬でどこかへ消え去った。倫は外界を遮断し、木の床の一点に集中した。


 喧噪から一転して急に病棟が静かになったとき、夏季はやっと、何事かと顔を上げた。倫が左手で右手首を掴み、床を睨んでいる。

 敷き詰められた黒い木の板の隙間から、双葉が芽を出した。そこまでは確認できたが、後は超高速で事が進み、見ていても何が起きているのかよく分からなかった。倫の力を目の当たりにしたのはこれが初めてだった。

 気付いたときには、茎に無数の刺のある植物が一メートルほどの高さの幹に成長していた。濃い緑色の広い葉が茂っている。そして、枝の継ぎ目の膨らみから小さなつぼみがもこっと飛び出し、黄色い花が咲き、がくから吹き出した貝殻のような形をした花弁は、一秒間揺れると次の一秒で枯れ落ち、その後には焦げ茶色の実がふくらんでいた。

 まばたきもしないで植物を凝視していた倫は、二つ三つの果実がソフトボールくらいの大きさに膨らんだところで、掲げていた右手を、払うようにしてばっと退けた。床から生えた細い木は、実の重さにしなり、頼りなさそうにゆらゆらと揺れている。


「出来たわよ」

 倫は真顔で言った。息は乱れ、額には汗がいく筋も流れている。

「わたしの栄養をねじ込んでおいたわ。城の床だけじゃあ頼りないものね……」

「ご苦労。ゆっくり休め」

 ラートンは早口で言うと、剣を抜いて細い幹を根元から刈り取った。それを肩にかつぎ、葉と果実をゆさゆさ揺らしながら、足早に看護士のところへ持って行った。

 倫はラートンが労いの言葉もそこそこに去るのを見逃した。哲の命を救うこと。彼の行動はそのためのものだ。

「そうさせてもらう」

 ラートンの背中に向かって言い、ふらふらと、夏季の隣にやって来た。

「倫さん」

 夏季は力なく言った。倫が植物が倍速で成長させたことには驚いたが、それについて触れることが出来ない。哲のことしか頭になかった。ただただ怯えたような潤んだ瞳で倫を見上げ、彼女に助けを求めることしかできなかった。

「どう、哲くんは?」

 倫も何事もなかったかのように言って、病室を覗き込んだ。

「わからない」

 弱々しく首を振る。

「ねえ、側に行ってもいいの?」

 倫は夏季の肩に寄りかかりながら、側に立っているハリルに声を掛けた。

「ああ。あまり負担をかけるなよ」

「負担と言っても、彼、寝てるんでしょ?」

「驚くなかれ、意識があるんだ。話しかけりゃ、ささやかな返事が返ってくるぜ」

 夏季は一つ、大粒の涙をこぼした。意識があるのなら、傷の痛みを感じているということだ。

 ハリルに頭を撫でられ、倫を肩で支えながら、夏季は哲が横たわるベッドに、おそるおそる近づいた。

 自分の足が震えているのが分かった。


 哲の顔には紫色の斑がまだらに浮かび、むくんでいるようだ。呼吸が苦しいのか、口は半開きになっている。見るからに加減が悪そうだ。夏季は見ているのが耐えられないと思ったが、首を横に振り、目を覆いたくなるのを我慢した。

「病気なの?」

 倫が哲の顔を見たままで、ハリルに言った。

「呪いだ。症状は病気みたいなものだけど、治りにくい。人の邪念が絡むとやっかいなんだな……。君がさっき作ってくれたもんがあれば、きっとなんとかなるさ」

「ならよかった」

 言葉とは裏腹に、倫の声にうれしそうな響きは微塵もなかった。ハリルは「きっと」と言った。なんとかならない可能性もあるということだ。

「哲」

 ハリルが低い、静かな声で彼の名を呼んだ。

 三人が見守っていると、哲の腫れぼったいまぶたが少し持ち上がった。

「見舞客だぞ」

「……」

 哲の目はぼんやりとしているが、ハリル、夏季、倫と順に顔を見ていった。

 夏季は声が出せず、見ているだけで精一杯だった。

 哲の首がゆっくりと動いた。

「無理すんなや。頭がクワンバみたいに重いだろう」

 ハリルがセボ独特の言い回しを使い、へへと笑った。

 クワンバってなんだっけ。ああ、哲がカルーに叩き付けたジャガイモみたいなやつか。

 夏季は初めて城下街に行ったときのことを思い出していた。

 ユニさんの店で、わたしがカルーにクワンバで攻撃されたとき、哲がやり返してくれたんだっけ。

 夏季の顔は少しほころんだ。同時にまた一つ、大粒の涙が落ちた。しずくは哲の紫色の手の上に落ちた。

 哲が口を開いた。

「……夏季……」

 哲がやっと発した言葉だった。

 ハリルが夏季に場所を譲った。夏季はベッドの傍らにしゃがみ込み、布団からはみ出している哲の手を両手で包んだ。肌の色がすっかり変わってしまい、むくんでいても、温かい、生きている人間の手だった。

「哲」

 夏季は、自分の顔がどんどんゆがんでいくなと思った。構わなかった。どうしたって言う事を聞かない。涙がぽろぽろと頬を伝っていった。

「……ごめん……」

 哲がかすれた声で言った。

「なにが?」

 息が詰まった。

「なんで、あやまるの!?」

 語尾は、叫ぶようだった。なだれのように、悲しみが襲ってくる。涙は次から次へと泉のように湧いた。

「きのうの……こと」

「哲は悪くない!」

 夏季はぶんぶん頭を振った。ポニーテールが頬に当たる。

「謝りたかった」

 夏季はベッドの縁に突っ伏した。声をあげて泣く彼女の肩に、倫がそっと手を置いた。

「わたしがいけなかったんだ、哲はがんばってくれたのに、ありがとうも言わないで、責めた。ごめん、哲、ごめん、ごめん……」

「……仲直りしよう……」

 夏季が触れている哲の手が、微かに動いた。夏季はそれを強く握り返した。

「うん」

 夏季は顔を上げ、微笑んだ。

 哲もお返しに微笑んだ。毒のような肌の色とむくみは哲の顔を見る影もなく変えてしまったが、その微笑みは、決して多く笑わない彼がときおり見せる優しい笑顔、そのものだった。温かい手も、しっかりと夏季の手を握り返している。

「俺……よくなる気がする」

 哲がぽつりとつぶやいた。

 そして、手の重みを夏季に預けながら、静かに目を閉じた。

 夏季は束の間の笑顔を再びぐしゃぐしゃにして、声をあげて泣いた。






「さあ、休ませてあげよう。これから苦い薬を飲まなきゃならんからな」

 ハリルがかすれた声で言った。夏季は眠りに落ちた哲の顔を見ながら頷いたが、その場を動かなかった。

「さあ、行こ」

 倫が夏季の両肩を持った。

 夏季は立ち上がったが、哲の手を離せないでいた。

「大丈夫よ。わたしの育てたケナヒーって草が、哲くんを治してくれるから。ね?」

 夏季は頷き、鼻をすすった。

「その草には、彼女の栄養が通っているんだぜ。それなら治らんなんてことはないさ」

 ハリルが明るい口調で言った。

「そうですよね」

 夏季がふふっと笑う。

「そこで笑うわけ?」

 倫が口を尖らせて言った。

 夏季が腕で濡れた顔をぐいと拭った。

 倫はフンと鼻を鳴らすと、ハリルと連れ立って病室の外に向かった。

「あの子夏季しか目に入ってなかったわね。起き上がったら今度はわたしが呪ってやる」

「君ならその種の呪いを体得しかねないな。実に腹黒い」

 二人は笑いながら遠ざかっていった。

「哲、がんばるんだよ」

 夏季は眠る哲に、静かに語りかけた。

「わたしもがんばるから」

 血色の悪い哲の手を布団の中にそっと戻す。最後に哲に優しく微笑んでから、踵を返した。背筋をまっすぐにして、ハリル、ラートン、倫の待つ扉に向かう。その目には、先ほどまでの哀しみに代わって強い光が宿っていた。


 彼にあんなことをするなんて、絶対に許さない。


 胸の内でふつふつと湧き上がるのは、何者かに対する激しい怒りだった。


 許さない。




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