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使い「イルタの頼み」



「哲」

 宿舎の回廊を、肩を落として歩いていた。知っている声に呼び止められて振り返ると、イルタが手を振りながら歩いてくるところだった。

 哲の目の前まで来て、微笑みながら

「やあ」

 と言った。

「こんばんは」

 哲はふてくされた顔で、素っ気なく返した。

「どうしたんだい。ずいぶん暗い顔をしているね」

「別に」

「まあ人間、そういうときもあるよな」

 イルタは笑顔のままだった。小さなことでくよくよする弟を優しく見守る、年の離れた兄のようである。

 彼の笑顔は少年のように屈託がない。女兵士たちがしばしば彼に熱い視線を注ぐのも、そんな母性をくすぐる一面があるからだろう。「使い」が起こした騒動の後でも彼は哲たち四人が相手のときでも、愛想が悪くなることはなかった。イルタはあくまでも自然体だから哲はそのことに決して嫌みを感じることはないが、先天的に世渡りがうまいタイプだと思わざるを得ない。実際、彼と話すのは何周期かぶりなのに、なんの違和感なく会話が始まっている。

「丁度いいや、そんな君の、気分転換になるかもしれないな。哲、ちょいと頼まれごとをしてくれないか」

 哲は、背丈のあるイルタの顔を見上げた。

「頼まれごと?」

「ああ。俺、明日の当番を欠勤したいんだよ。……その、ウォローの誕生日なんだけど」

「なるほどね」

 夏季と口論したばかりの哲は、なす術も無く気持ちが沈んだ。夏季の目に浮かぶ涙を見逃したわけではない。その場面を思い出すと、悔しさに押しつぶされそうになったが、気持ちを無理矢理現実に戻し、イルタに言った。

「欠勤届け、出さなかったのか?」

「出したはずだった。たぶん、提出を仲間に頼んだのがいけなかったんだろう。さっき念のためタイムテーブルをチェックしたら、しっかり俺の名前が入っていやがった。彼女の大事な日にこういうミスがあるなんて、俺だめだな」

 イルタはからからと笑った。

「仕方ないから誰かに交代してもらおうと思ってね。だけど、ほかの兵隊たちは大抵それぞれの仕事がある。確実に割り当てがないのは、君たち四人だけなんだ」

 彼の言う通りだった。若い二等兵は城の内外の雑務に駆り出されている。平日五日間のうち前半二日は大多数の兵士が仕事を持ち、後半三日間は訓練に出る者と仕事をこなす者とが半々である。確実に仕事を持っていないのは、セボに来たばかりの四人なのであった。


「それで、たまたまここで遭遇した俺に、頼むことにしたと?」

「その通り」

 イルタは申し訳なさそうに頭を掻き、弱々しい笑みを浮かべた。「やってくれないか?」

「まあ、いいよ。剣を振るのも、毎日同じじゃ刺激がないし」

「そうだな。それに、少しは元気が出るかもしれないぜ」

 イルタが真顔で言った。

「大丈夫だよ。大したことじゃないし」

 哲は、そう言いながらも相変わらず暗い顔だった。

「それにしちゃあほんとに参ってる顔だな。話してみろ、きっとすっきりするよ」

「いやだ」

 食堂での失態劇を自分の口から話すなど、哲は絶対にしたくなかった。

 俺が言わなくても、もうすぐこいつの耳にも届くだろう。けっこうたくさんの兵隊たちに見られていたから。


「それで、明日の仕事はなんだ?」

「ああ、裏門の警備だよ」

「裏門?」

「そう。知っているだろうけど、城下街は周囲を防壁に囲まれてる。『裏門』てのは通用門の一つでな。街の東側の壁を南に向かって歩いて行くとじきに見つかる。行ってみれば分かるが、俺たち兵隊はそこでただ立っているだけでいい」

「あんたら本当に雑用係だな」

「『あんたら』の中には当然君も含まれているよな? 俺たち同じ二等兵だろ」

「……ま、そう、だな」

 哲はイルタから目をそらした。彼からそのような言葉を聞くとは意外だった。哲は「風使い」としてすでに散々事件や事故を起こしている。それなのに面と向かって、「俺たちは“同じ”二等兵」と言われることなど、考えもしなかった。

 哲が困惑していると、イルタは体をかがめて哲と視線が合うようにした。低い背丈を気にしている哲は、ふだんならそうされるのが堪え難い屈辱と感じただろうが、このときはそうは思わなかった。イルタが、笑いもせず、真剣なまなざしでこちらを見つめていたからだった。

「哲、俺もアレモも、君らのことを特別と思っちゃいない」

 イルタは右手で、哲の左肩をしっかりと掴んだ。

「アレモはまだ、周りの空気に呑まれてる。彼は彼なりに周りの間違った憶測と戦っている最中なんだ。こんなこと言うと信じられないかもしれないが、俺だって誰にでも愛想を振りまくわけじゃない。カルーやキムのような野郎には、自然と顔が歪んじまうってもんだ。君たちに今まで通り接しているのは、本当に、君たちは何も変わっていないってことを分かってほしいからだ。……つまり、俺が言いたいのは、君たちを信用しているってことだ。君らが、持っている力を悪いことに使うなんて、これっぽっちも思っていない」

 哲はてっきり、イルタやアレモも皆と同じように、「使い」の力を恐れてわざと遠巻きにしているのだと思っていた。そうではなかった。イルタは、多勢に無勢でも自らの考えを突き通すことができる。しかしアレモは、正しいと思ったことが、周囲の否定に揺れてしまうのだろう。

 イルタは、アレモが数の力に打ち勝つのを待っているのだ。親友として。

 二人は「使い」と交流を持ったことで、彼らなりにほかの兵士たちとは一線を画している。

 哲はそのことに、初めて気付いた。

「だからこそ、友人として、俺の頼み事をしっかりやってくれよ」イルタは明るい声でそう言うと、大きな手で哲の背中をばしりと叩いた。

 哲はイルタの言葉に強く胸を打たれた。そして、悟った。彼は単に愛想が良いだけで人々の信頼を得ているわけではない。それは誠実な人格に裏打ちされた、当然の結果なのだ。

「どうだ、少しは元気出たか?」

「まあね。悩みは消えないけど」

 哲はふんと鼻を鳴らした。

「……なあ。君の悩みはセボでの対人関係じゃなかったのか?」

 哲は合点した。

 イルタは俺が周囲の冷たい態度のせいで、落ち込んでいると思ったんだ。だからこそ、熱い言葉で元気づけようとしてくれたのか……。

 哲はそう思うと、おかしくてたまらなくなった。顔を両手に押し付けて肩を震わせる哲を見て、イルタは黒髪を掻きむしっている。哲が思わぬところで思わぬ反応をしたので、きまりが悪いようだ。

「で、本当はどうして落ち込んでいたんだ。言えよ」

「ぜったい、いやだ」

 哲は子供っぽく、首を横に振った。目に涙を浮かべているのは、笑いたいのを必死でこらえているからである。

「……ああ、そうかい。もういいよ。元気になったみたいだし」

 イルタはやれやれとため息をついた。

「じゃあ、しっかり頼むぞ」

「しっかりって言っても、立ってればいいんだろ」

 哲はにやりと笑った。

「そう。その通り。それだけ分かっていれば大丈夫だ」

 哲の反応がよくなったので、イルタは安堵して頬を緩ませた。

「じゃあ、イルタさん、デート楽しんで」

「ありがとう。君も、なんだか分からないけど、がんばれよ」

 明日、夏季に謝ろう。そして、今日イルタに言われたことを、彼女にも教えてやろう。

 回廊を引き返すイルタの背中を見送りながら、哲は心に決めた。





 姿の見えない声に怯え

 終わらせなければならない仕事に奮闘し

 明日への決意を胸に安眠を貪り

 抗えない権力への怒りを抱いたまま悶々として寝返りを打ち

 それぞれがそれぞれの想いを胸に

 夜は更けて行く。


 白い古城の地下深く。薄暗く幅の狭い、長い長い階段を下りたその奥に、頑丈な一つの黒い扉があった。両脇には足の無い天使が、一人は腕を組み、項垂れて顎を胸にくっつけている。もう一人もやはり腕を組み、壁に額をもたせかけている。二人は宙に浮いたまま睡眠をとらなければならないようだ。

 二人が守る扉の向こうには一対になった二本の杖が飾られている。真っすぐな柄が交差し、カーブを描く先端が合体して、ハートマークになっている。

 杖は蛍光灯のように白く発光し、震えていた。カタカタと微かな音を立てて。

 まるで何かに、おびえているかのように。



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