ステッキの女「バイトの女」
「ありがとうございましたー」
倫は出て行く客の背中に向かって気のない声を掛けた。どこのコンビニでも同じだろうと、鼻を鳴らした。
しかしこの店舗の店長は、厳しい。コンビニに来てそんなところを見ている客なんかいないだろうと、いつも倫は思っている。いつもと言っても、雇われたのは、ほんの2週間前だが。
「ぃらっしゃいませー」
何度注意されても倫の発する言葉に生気は宿らない。その度に、店長がにらんだ。
男が手にマンガ雑誌を持って、レジに来た。
「420円になります」
倫は手早く卒なくレジを打った。
「あのう……」
男は釣り銭を受け取ってもなお動かないで、倫に話しかけた。年の頃は大学生といったところか、見た目は非常に冴えない。
「なんでしょうか?」
倫は淡々と受け答えをした。相手の容姿が、冴えるか、冴えないか、の問題では無かった。とにかく機嫌が悪そうに見える。
男は小刻みに震える手で、小さなメモを差し出した。そこには、電話番号、Eメールアドレス、そしてツイッターのアカウント名が書かれていた。
「よかったら……」
「受け取れません」
倫は辛辣に即答した。
男は逃げるようにして、去って行った。
「咲田さん」
店長がつかつかと、すぐそばに、やってきた。
「はい?」倫は退屈そうに、半分閉じた目で、店長を見上げた。
「あなたね、ちょっと、お客を怖がらせすぎですよ」店長が注意した。
「今のはあたしのせいではありません」倫が言った。
「そういう問題ではないでしょう!」店長は気持ちを高ぶらせた。
「どういう問題ですか?」倫はまったく動じない。
「もう少しやんわりお断りすれば、また来て下さるかもしれないけれど。あんな態度では『もう二度とこんな店はごめんだ』と思われるでしょう!」
「笑顔で断ったりなんかしたら、あの人が勘違いして、あたしをストーカーしますよ、きっと」
と、口に出しては言わなかった。
まったく。こんなこと言われたらたまらないわ。この人、お店のためなら、あたしがどうなろうと構わないんだわ。
倫は客のことしか考えない店長に嫌気がさしていた。アルバイトのシフトはめちゃくちゃで、個人の都合などおかまいなしであった。
結局さんざん言われた後に帰された。バイト終了予定の23時を過ぎていた。
前にも同じようなことがあったことが、思い出される。店のレジを担当していたら、高校生の男の子に今日と同じような紙切れを渡されて、倫はやはり、その場で突き返した。
そういえばあの商店の店長も、うるさいおばさんだったなあ。
倫は思い出にふけった。
真っ黒で張りのある髪質の前下がりボブは、頬のあたりで毛先が揺れている。同じく真っ黒な瞳は、見る者を引きつけるような、不思議な光を放つ。美人と言われたことはないが、細い顎の形は女らしい。
中学2年生から学校に行かなくなった。いじめられたわけではない。ただ家に居て本を読みたくなった。一日中部屋に閉じこもり、好きなだけ読み続けた。そんな彼女の行動に決していい顔をしてくれない大学教授の父とは反対に、図書館司書の母は無理に学校へ行かせようとはしなかった。むしろ母は、あれを読め、これを読めといろいろな本を勧めてくれた。
どうしても図書館で手にいれることが出来ない読みたい書籍があった。それらはたいてい定価よりも高い値段で売られていた。そういったものを購入することが動機となり、16歳からアルバイトを始めてフリーターとなった。いろいろな店を転々としている。愛想がないのが手伝ってトラブルが多く、なかなか職場が定まらない。愛想があったって、書籍への情熱のためにはなんの役にも立たないと、倫は思っている。
「ただいま」
倫は素っ気なく玄関ドアを開いた。
「倫」
真っ直ぐ自分の部屋に行こうとすると、父親に呼び止められた。
「なに?」
倫はイライラしていた。店長とのいざこざのこともあるが、図書館司書の母親に対して高圧的な態度をとる大学教授の父が、好きではなかった。
「アルバイトはどうだ?」
「ちゃんとやってる」
「そうか。今度こそ長続きさせろよ」
「うるさいな」
背筋に走った苛立ちから、思わず刺のある言葉が出た。
「うるさいとはなんだ」
娘のつっかかりに、父はすぐに噛みついた。
倫は居間を出て、二階の自室に駆け上がって行った。
「お前、倫のあの態度はどうにかならないのか」
「あなた、そうかっかしないで」
階下から、母の優しい声が聞こえる。
倫はベッドの下から、荷造りの済んだボストンバッグを引っ張りだした。一月ほど前から、長年住んだ家を出て行く計画を立てていた。
(父さんはわたしを憎んでいる。大学教授の娘が不登校からのフリーターだなんて、面目丸つぶれだものね。あんな目で見られるのは、もうごめんだわ)
夜中の午前1時過ぎ、倫は寝静まった家の廊下を忍び足で歩き、静かに玄関を出た。
「さようなら」
誰に言うともなくつぶやいた。
少なくとも宿泊先のホテルまでは、道筋は真っ直ぐに定まっている。
しかしそこから先はまだわからない。確かな夢や野望を持たない彼女には、上京してどうとかいう考えはまるで持っていなかった。母を残すことは少しばかり心残りではあったが、夫婦のことは、二人にしかわからないことだ。それよりもただ、父の憎しみから逃れたい一心であった……。
深夜の住宅街は静かだ。
遠くのほうで、パトカーのサイレンと、野生的なやからが走らせるバイクの爆音が響いている。
コンビニでは店長をも恐れない威勢の良さは鳴りを潜めた。暗闇は怖い。そして、静寂だ。自分以外に誰もいなことがこんなにも不安なのだと、思い知らされる。
「すみません」
人気の無い路地で、誰かに肩を叩かれた。
反射的に振り返った。
相手は若い女だった。
「ここは、どこですか?」
「は?」
「そのう、なんという街でしょうか」
その女は手に古ぼけたステッキを持っている。足でも悪いのだろうか? しかしそんな様子はない。女はステッキで地面をつついてはいない。
相手が酔っぱらいではないのはわかる。この状況、深夜で誰もいない路地では、それが余計に恐ろしい。
「●●町ですけど。……あなた、どちらから?」倫はコンビニの店員であれば決して発揮しない親切心を、唯一ここで垣間見せた。
「どこって……、えーと。あ、山田県です!」
相手の女は明るく答えた。真夜中だというのに元気一杯だ。まるで、早寝早起きして、それから顔を洗って、ママに用意された朝食をむしゃむしゃとお腹いっぱい平らげた後のように、ハツラツとしている。
山田。名字ならば、これでもかというくらいに聞いたことがある。つい最近まで働いていた飲食店の店長も山田さんだったが、「山田県」はこの世に存在しない。
相手は目をしばたくばかりで、自分の発言のおかしさには全く気付いていない様子だ。
「お名前は?」
相手が倫に聞いた。
「……咲田……倫です。」
なぜか、本当の名前を言っていた。
「よかった!」
なにがよかったのかはわからない。
訊こうとする前に、女はステッキを振り、何も無い宙に文字を書いた。
倫は消えた。