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使い「仲違い」



「剣に夢中になって、自分の不調に気付かないなんて」

 夏季は木陰で横になっていた。ウォローが濡らした手ぬぐいを、額に載せてくれる。

「冷たい……」

「しばらくそうやって寝てな。副隊長が、今日はもう休めだって。隊長が不在でよかったね」

 そうか、みんな、わたしが隊長の仕事を手伝っていることを知らないんだな。

「哲が真っ青な顔してたよ。彼も倒れるんじゃないかと思った」

 ウォローが一人で笑っている。夏季もにやりと、弱々しい笑顔を返した。

「すみませんでした、ウォローさん」

 ふと、夏季は口を開いた。

「なんで?」

 ウォローが聞く。

 夏季はなんと言っていいか分からず、黙っていた。

 するとウォローは、夏季の気持ちを察したように手を打ち鳴らして、言った。

「あんたねえ、倒れた女の子を放っておけると思う? それに、そんなに弱っていたら、水の怪物を出せっこないでしょ」

 ウォローはからからと笑い声を上げた。

 夏季は頭上で揺れる木の葉を見つめて、心の中でつぶやいた。

 怪物、か。





「シエ!」

 ハリルがラートンの姿を見つけて声をかけた。

「訓練中に夏季が倒れたぞ。せっかくの助っ人を酷使しやがって、ちったあ手加減しろ……」

「ハリル、至急会議室に集合だ。何者かが『使い』の一人を操って、裏門の鍵を奪った」

「なんだと?」

 ハリルのヒゲ面が引き締まった。

「オスロ不在で状況は厳しいが、なんとしても警戒態勢を手配しないとな」

「多勢に無勢だ。文官どもはなんやかやと反対してくるだろうな……」

 ラートンとハリルは、連れ立って会議室に向かった。


 会議室に着くと、部屋の奥に文官の年寄りたちが五人集まっていた。ネレー・ドゥーラが昼の出来事を説明しているようだ。席の一つには、俊が縮こまって座っている。

「ドゥーラ」

 ラートンが話しかけると、ネレーが振り向いて駆け寄った。

「集まりが悪いじゃないか。議長はどうした?」

「それが、捕まらなくて……」

 ドゥーラがおどおどと言った。

「何をやっているんだ、この一大事に!」

 ラートンが怒鳴ると、ドゥーラはひいと言って、一回り縮んだ。

「落ち着け、シエ!」

「騒がしいのう、君たち」

 文官の一人が、ゆっくりとした口調で言った。

 ラートン、ハリル、ドゥーラが振り向くと、真白いひげを胸の当たりまで伸ばした老人が、ゆったりと歩いてきた。

「鍵が一つ無くなったとな。君たちは探したのかね。こんなところで無駄な口論をしている暇があったら、城中をくまなく探したらどうだ」

「城の中にはない。わたしがこの目で見た」

 ラートンが腰に手を当て、言った。

「ほ。空を飛んで行ったと? ふざけたことを」

「あなたも知っているはずです、そのような力を使える者がいることを!」

「知っているとも。魔法を使える者が、この世の中に何人かいる。いや、いたと言うべきだな」

 白ヒゲの文官はここで少し間をあけてから、続けた。

「魔女は十七年前に死んだ。そして『使い』は魔女が消えると共に姿を消したのだ」

「今ここに再び『使い』が呼び寄せられた。それは魔力の再来を意味するのでしょう?」

 ドゥーラが相手の顔色を伺うように言った。彼は若い文官で、立場上、強い事は言えないようだ。しかし上司の応対に疑問があることを、隠そうとはしなかった。

「ふん。『使い』など不吉なもの、呼び寄せなければいいのだ。だいたい、時期が早すぎはしないかね。脅威が近づくのは五十年に一度であろう? 軍部の独断で『呼び寄せ』をしおって。わしは『使い』を救世主などとは思っていない。我々に不幸をもたらす悪いモノだ」

「この際、『使い』論議は脇によけて、目前の問題について考えるべきです」

 ハリルが落ち着いた低い声で言ったが、目つきは険しかった。

「鍵が盗まれたことをセボで暮らす者に報せて、警戒を強めなければ……」


「公表してはならん」

 今度は、背の高い、眼鏡をかけた男が待ったをかけた。灰色でまっすぐな毛髪を、キノコのような形に切りそろえている。

「こちらの失態が表に出るのはまずい」

「ピルツ大臣」ドゥーラが男の名を呼んだ。

「鍵の管理はわたしがしていたのだ。そちらが非難されることはないはず」

 ラートンは我慢強く、言った。

「しかし、現場にネレーがいたとなると……」ピルツはドゥーラを睨んだ。「文官が汚名を着せられるのは困る」

 ドゥーラは目を見開いた。

「な……」

 口を開こうとしたが、何か言う前に、ラートンが暗い口調で言った。

「貴様ら、そんなことを言っている場合か」

「シエ!」ラートンの言葉遣いが荒くなると、ハリルが小声で言って、横顔を睨みつけた。

「敵がいるという確証はない」

 ピルツという文官はラートンにひるまずに、平坦な口調で言った。

「ああ、確かに魔女は滅びたんだろう。しかし、新たな敵が現れないという保証もない。ここは万が一のためにも、警戒態勢を敷くべきだ」

 ラートンは怒鳴りそうになるのをこらえて、言った。

「よい、分かった。明日の夜に議長を交えた会議を開こう。正式な会議を! そこで決着をつける」

 白いひげの文官が、これで終わりと両腕を振った。その後も軍部と文官の間で、どちらも譲らない言い合いが何往復か飛び交ったが、結局は文官たちによって強制的に議論の終結が決められた。


「決着どうこうの問題ではない。団結しなければならないと、師士は言うだろう……」

 ラートンが重々しく言った。

「オスロはまだ戻らないんだろう?」

 ハリルがぼさぼさの茶色い髪の毛をくしゃくしゃにしながら、聞いた。

「ああ。少なくとも、あと二日は……」

「遣いを出して連絡しよう」

「そうだな」

 ラートンは目の端で、俊が席を立つのを見ていた。

「おい、お前」

 背中に掛けられた声に、俊はびくりと反応した。

「もう少し、話を聞かせろ」

 俊は素直に「はい」と返事をした。彼が哲や夏季に鞭を振るうところは俊も目の当たりにしている。逆らえばどんな痛い目に遭うか分からない。特に今は、いつ爆発してもおかしくないくらい、不機嫌な様子だ。

「なんでもいい。さっき話したこと以外に、例の声は何か言っていなかったか?」

 俊は少し下を向き、何かなかったかと頭をひねった。

 おいしいネタを話せば、こいつはすぐに解放してくれるだろうか……。

 俊は一つ、思いついて、目を見開いた。

「あいつは、俺以外の女にも、鍵探しを頼んだと言っていた。……その誰かは分からないけど」

「女?」

「ああ、そう言っていたな」

「君は、『リーダー』になりたいがためにその声に従ったんだよな」

「そうだ」

 ラートンとハリルは顔を見合わせた。二人は互いの意見が一致していることを、目線だけで確認し合った。

「聞きに行ってみるか。彼女の方が役に立ちそうだし」

 ハリルが言うと、

「同感だな」

 ラートンがうなづいた。俊は二人の顔を交互に見ている。「俺、帰っていいですか?」とでも言いたげだった。

「ハリル、先に行ってろ。彼女はたぶん図書館にいる。俺はこいつの片をつけてから行く」

「了解。じゃ、後で」

 ハリルは小走りで、回廊を戻った。

 片をつけると聞いて、俊はパニックを起こしそうになった。

 こいつ、何をする気だ?

 逃げ出したかったが、腕をがっちり掴まれて、既に手遅れだった。

「来い。お前に仕事をやる。そうすれば、こそこそ動き回る暇はなくなるだろう」


 ラートンが俊を引きずっていったのは、見覚えのある回廊だった。それもそのはず、今日の昼間に鍵を盗みに入った、幹部棟である。俊は足が重くなったが、ラートンは構わず乱暴に引っ立てた。

 彼は書斎の扉を開くと、俊を部屋の中に突き飛ばした。俊は掴まるものがなく、机まで片足でよたよたと歩いて行き、倒れ込んだ。机の上で、書類の山が危なげにゆらゆらと揺れる。

「まぬけなツラだな。何も考えていない馬鹿者の顔だ」

 俊の中で怒りが燃え上がったが、ラートンの前では気軽に口を開けなかった。歯を食いしばって、黙ったままのそりと立ち上がり、尻についた埃を払った。

 ラートンはデスクの後ろに回って、俊と向き合い、書類の山を指した。

「こいつを今夜中に片付けろ。一つのミスも許さない。今度何かやったらお前は牢獄行きだ」

 ラートンは怒りも表さないで、事務的な平坦な口調で言った。文官たちの前で怒っていた彼の方がよほど人間らしかった。

 彼は一枚の書類をぴらぴらと振って見せた。

「これを見本にして書類にサインをするだけだ。分かったら持って行け」

 それから以後、ラートンは部屋に他の人間がいるような振る舞いは見せなかった。徹底的に無視されたことで頭に来た俊は、書類を両肩に担ぎ上げ、書斎を後にした。

「根暗女に、根暗男」

 廊下に出ると、俊はぶつぶつと悪態をついた。

 彼は、ただただ、自分に向けられる非難を受け止めるのが精一杯だった。今日の彼の行動が何をもたらすかなど、考えもしなかった。





「大丈夫か?」

 哲は何度同じ言葉を言っただろうか。

「うん」

 夏季も、何度同じ返事をしたのか分からない。実際、訓練の午後の部はほとんど休むことができたので、すっかり回復していた。食欲も旺盛である。

 二人は食堂にいる。おしゃべりをしながら長々と夕食を取っているので、先に食事を終えた兵士たちが帰って行く。

「今日はないんだ、ラートンの宿題」

「まあ……ね」

 夏季は書斎から逃げ出してきたことを、ぽつぽつと思い出していた。明日になったら、彼に何を言われるだろうか? 処罰になることは確実だろうな。ああ、文句を言わせないつもりで、がんばったのに。

 向かいに座る哲には言っていなかった。哲のミスが原因で隊長を怒らせたことを、話していいものかどうか決めかねていたのだ。

「だけど、よかったな。あのラートンの手伝いっていうから、どんな大変な仕事かと思ったけど、数をこなすだけならなんとかなりそうだよな?」

「そうだね。今に慣れると思う」

「また、手伝うよ。俺は暇だし」

 哲はにこにこしていた。夏季は、哲が再び仕事の分け前を取りに来るなら、今日のことを言わざるを得なくなること、今言うのも、後で言うのも同じだということに気付いた。

 いや、後で言うよりは、今言ってしまった方が自然だろう。

 深いため息を、一つ。

「哲、実はね。今夜仕事がないのは、失敗したせいなの」

 夏季がどきどきしながら哲を見ていると、彼の顔つきが変わっていった。一瞬眉をひそめ、それから、口をぱくっと開いた。

「まさか、あんな簡単な仕事で。俺の字がヘタだった?」

「そうじゃない」

 夏季はぶんぶんと首を振った。そして哲の目をじっと見つめた。口で言うのはなんとなく気が引けたから、これで気付いてくれればと、強く念じた。

 夏季の強い思念が通じたかのように、哲が口を開いて、妥当なことを言った。

「君と俺、どっちなんだ、ミスをしたのは?」

 夏季は返事をしないことで、答えとした。

「ごめん!」

 突然哲は、皿の上に顔がつきそうなくらいに、頭を下げた。人が減った食堂では、哲の声はよく響いた。皆、何事かと振り返る。

「そんな。やることを説明したのはわたしなんだよ。哲は手伝ったくれた。それですごく助かったんだから」

「でも、間違えようがないだろう。見本を見ながら書き写すだけなのにさ。俺、いったいどんな間違いをしたんだ?」

「……その、サインを書かないといけないところに、『承認した』っていう言葉が書いてあったらしいよ。隊長は、『書き取りじゃないんだ!』って学校の先生みたいな怒り方をしてたけど」

 哲はゆっくりと顔を上げ、夏季の顔を見ずに、天井の方に目をやった。何かを思い出そうとしているようだ。

「そうか……」

「どうしたの?」

 哲が宙を見ているので、夏季は心配になって言った。

「わかった。俺の馬鹿な間違いの原因が」

 哲は、事件を推理して犯人を探し当てた探偵のような言い方をした。

「夏季が見本を見せてくれただろう。俺、夏季が指差している場所を見間違えていたんだ」

 夏季は、未済の書類の上半分に、サインが済んだ書類を重ねて説明したことを思い出した。

『これみたいに、書けばいいの』

 夏季はぞんざいに、見本の書類を指差していた。ひょっとしたら、未済の書類を指差していたかもしれない。そしてさらに、その中のサイン箇所の上の行、つまり「承認した」の部分を指していたかも……?

 夏季は記憶が定かではなかったが、きっとそうに違いないと思い始めた。我に返って哲を見ると、項垂れていた。前髪がスープの椀に浸かっている。

「おかしいと思ったんだ……。なんで同じことを二行続けて書くんだろうって」

「だったら、聞いてくれればよかったのに」

 なんとなくでも哲は気付いていたのだと、夏季は少し苛立ちを覚えた。

「だって君、すごい剣幕で俺に書類を持ってきたんだ。とても質問していい空気じゃなかったよ」

「そりゃそうよ。隊長に文句を言わせないつもりでがんばっていたんだから。それだけ必死だったの」

 二人の間にただならぬ黒い空気が漂った。

「……悪かったよ」

 哲はしぶしぶ言った。

「なに、その言い方?」

 夏季は立ち上がった。我ながら嫌な言い方だと思ったが、口が動くのを止められなかった。

 これまで意識はしていなかったが、たった今、蓄積されたものが火口で吹き出そうとしているのを感じた。こめかみがひくひくと動いている。

「どうしてわたしがこんな目に遭わないといけないの!? 『リーダー』なんて、なりたい人がなればいいのに!」

 夏季は後先省みず、思いの丈を声の限りに叫んだ。

 言い終えると、食堂はしんと静かになった。

「君が『リーダー』になったのは、俺のせいじゃないし、俺自身は、『リーダー』になりたいと思ったこともない」

 哲は静かに、つぶやいた。

 食堂にいる者たちは、一人残らず、夏季と哲に目を向けていた。

 みんな、ここから消えてしまえばいいのに。夏季は涙でかすむ目で、哲が席から立つのを見ていた。

「おやすみ」

 哲は立ちすくむ夏季を残して、食堂を後にした。


 後悔すると、余計に涙が溢れた。

 味方らしい味方は哲しかいなかったのに、どうして、よりによって彼に当たってしまったのだろう。彼は何も悪くない。

 哲、ごめん。

 夏季がとぼとぼと出て行った後も、食堂はしばらくの間、誰も喋らなかった。





 外は暗くなり始めている。

 窓に囲われた空は、夕焼けで橙色に染まったかと思えば、そそくさと青紫色に変化した。

 闇夜を避けたいとは思いながらも、本を閉じられないでいた。燭台を手元に寄せ、ロウソクの明かりで書物を読んでいる。

「七人は役者である」

 書棚の奥で見つけた古い本だった。内容は主にセボの史実だが、筆者の考察が巧みに混ぜ込まれていて引き込まれる。夢中になると、小説を読んでいるような錯覚に陥った。

 人の気配を察して、倫は読書を断念した。

 誰よ、わたしの楽しみを邪魔するのは。

「こんばんは。……ごきげんよう」

 ハリルは手を挙げて挨拶したが、倫の鋭い目線に恐れをなし、きびすを返した。

「ちょっと待ってよ。人の読書を中断しておいて、それはないでしょう。用があるなら言うべきじゃない?」

「ごもっともだ」

 ハリルは冷や汗をかきながら、倫に向き直った。

「後で隊長も来るが、君に聞きたいことがあってね」

「副隊長だけでなく、隊長も来るの? わたし、訓練に出る気はありませんから」

 副隊長はうーんと唸った後、倫の向かいの席に腰掛けた。癇に障る話し方をする女だとラートンから聞いていたが、まったくその通りだと思った。

 倫は副隊長が口を閉じたのを確認して、本のページに目を戻した。しかし、心は本の内容から離れつつあった。副隊長がやって来たことに少し安堵していたのだ。

 もちろん、あのしわがれ声を恐れていたからだ。独りは怖い。


 十分も経った頃に、シエ・ラートンがやって来た。

「片はついたか?」

「仕事を与えた」

「助手が増えてよかったな」

 ハリルがにやりとすると、ラートンはふんと鼻を鳴らした。

「助手などいらない」

 ああ、そうかいそうかいと、ハリルが話し始めたところで、倫が口を挟んだ。

「それで、話は? わたしに用があるんじゃなかったの」

 ハリルは、俺は大人なんだからと自分に言い聞かせ、倫をはり倒したい欲望を押しとどめた。おほんと咳払いしてから、言った。

「君、近頃身の回りで妙な事が起きてはいないか?」

「妙な事、というと?」

「例えば、怪しいやつを見たとか、何か聞いたとか……」

 倫はしわがれ声のことを考えた。

 この二人が聞きたいのは、まさにあの声のことかもしれない。でも、わたしだって今それの正体について調べているところなのよ。独りで真相を突き止めてやれば、わたしを「リーダー」に指名しなかったことを後悔するかしら。

「特にありませんけど」

 倫は言った。

「本当に、ないか?」

「ええ」

 ラートンとハリルがちらりと顔を見合わせるのを、倫はじっと観察していた。

 嘘だと気付かれた?

 ハリルが言った。

「実はだな。今日、君の仲間の俊君が、姿の見えない者の声に操られて、セボの裏門の鍵を盗んだのだ」

 倫は、あの馬鹿! と怒りを感じたが、表情は自然のままだった。首を横に振って、小さくため息をつく。

「あのバカ……」

「それで彼が言うには、その声は、『リーダーになりたければ従え』という文句で彼を誘惑したらしい」

「なるほど。それで、わたしにもその怪しい声が誘いをかけたんじゃないかと、あなたたちは考えたのね?」

「その通り」

 ハリルがうなづく。

「幸い、わたしのところには来てないわよ。もし来たとしても、そんな誘いには乗らないけどね」倫は本を、ぱたりと閉じた。古書のページの隙間から、細かい塵が吹き出した。「リーダーは、『七つの光を拝した者』と決まっているんだから」

「まさに」

 ラートンが言った。

「もしも君のところへ誘いが来ていたら、君は彼以上に何か掴んでいるんじゃないかと思って来たんだ。残念だよ」

 ハリルが落胆して言った。

「残念ですって? わたしは、そんな不気味な声に話しかけられるのなんてごめんよ」

 倫は顔をしかめた。

「そうだな。悪かった。残念ではない。おめでとう」

 ハリルは適当に相づちを打つと、ラートンの背に手をかけ、図書館の出口に向かった。

 うまくまいた。これでいい。

 倫は本に視線を戻した。





「彼女は喋らない」

 城へ戻る廊下を歩きながら、ハリルがぼそりと言った。

「ああ、癖のある女だ」

 ラートンが言った。

 あの女から何か出たとしても、出なかったとしても、今するべきなのは裏門の警備を固めることだ。明日の会議では、絶対に議案を通してやる。

 ラートンは固く決意した。





 倫は閉じた本を小脇に抱え、ロウソクの火を吹き消した。  読書を中断するきっかけが出来たので、素直に帰宅することに決めた。

 まだ真っ暗ではない。今のうちに、帰ろう。

『さらばだ、役立たずの小娘』

 倫は、建物の出口に差し掛かって、足を止めた。

「よかったわね。目的が達成できて」

 ふつうを装い、言った。

『始めから、彼を狙えばよかったよ。ヒヒッ』

 その笑い方に、ぶるっと身震いする。

『お前はひねた女だのう』

「自覚はしている」

 声が震えるのを、制御できない。

『おお、わしが怖いのかえ?』

「いいえ」

『素直でないのう』

 倫の右手の中で、古書がぶるぶると振動した。倫はひっと声を上げ、本を放りだした。本はカーペットの上に落ち、風もないのに、勝手にページがめくられていった。魔女の挿絵が動いている。眼球がぎょろぎょろと動き、骨と皮になった手が、ページから出ようともがいていた。

「やめて!」

 倫が悲鳴を上げた。

『お前、素直に怖がることができるのかい。かわいいところもあるじゃないか』

 しわがれ声は、喉が割れそうながらがらの馬鹿笑いをぶちまけた。

『安心しろ。わしはもう行く。それは最後のいたずらだよ』

 それきり、しわがれ声はぴたりと止んだ。

 本の挿絵は元のままに収まっている。

 倫の頬を、一筋の涙が伝った。



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