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城「静養日・後編」


「いててて。あーあ、運動不足だ」

 夏季と哲がユニの店で友情をはぐくんでいる頃、俊は城の廊下で一人呻き、壁に寄りかかるようにして歩いていた。

 我ながら、壁に張りつくようなへっぴり腰は、情けないと思った。

 一日中ベッドの上でごろごろしようにも、手元にはマンガや雑誌といった暇つぶしの道具がない。これには耐えられないとうんざりしていたところ、図書館で本を探すことを思いつき、こうして壁伝いにそろそろと向かっているのだ。しかしこれでは休息どころではないと、完全な静養はきっぱり諦めるしかなかった。


 城からはみ出すような位置にある、黒ずんだ円形の建物が図書館である。その表面を覆う蔦が、寂しさを誘う。俊は暗い気持ちで、背の高い建物に足を踏み入れた。館内はむかむかするくらいに古いにおいが充満し、憂鬱な気分を煽った。

 気軽に読めるような読み物のたぐいはないかと、建物に沿って円形に連なる本棚を見て歩く。俊は背表紙に指を走らせ、そこにある文字を読もうとした。そこで俊は気付いた。文字が読めない。目の前には、俊の知らない記号が並んでいる。セボの国に来てから不自由を感じたことがなかったためか、俊は目の前に並んだ文字が一つも読めないことに、違和感を覚えた。


 自分に分かりそうな本を見つけられないことに苛立ちを覚え、回廊をフラフラと漂った。

 全身の痛みを堪え、ここまで来たのは無駄なことだったのか。

 そう思うと、俊は自分が哀れで仕方がなく、大げさな言い方でもなく、悲嘆にくれて項垂れた。真っ直ぐ宿舎に帰る気力もなく、かと言って読めない本を選べるはずもなく、ただ重い体を引きずってうろうろしていると、机と椅子が並べられたフロアが目に入った。あそこへ行けば座って休むことができると、目をギラギラとさせて机を目指した。


 机のフロア全体が見渡せる位置まで来ると、その一角で、倫が分厚い本を眺めているのが目に入った。あまり気が進まなかったが、朝から誰とも言葉を交わした記憶のない俊は、寂しさに負けて倫に近づいていった。二人の他には、誰も見当たらなかった。

「こんにちは」

 俊は怒鳴られやしないかと、恐る恐る声をかけた。

 倫が顔を上げる。芯を感じさせる艶やかな黒髪、揃った毛先が、頬の横で微かに揺れた。

「あら、お久しぶり。何か用?」

俊はその言葉を聞いて、今日はまともな会話ができそうだと思い、肩の力を抜いた。

「今日が静養日だってことは知ってるか?」

「知ってるわよ」

「じゃあなんで図書館に籠っているんだ?」

「休日に何をしようとわたしの勝手」

「まあ、そうだよな……。じゃあ訊くけど、どうして訓練に出ない? そろそろあのオスロとかいうじいさんが、ここに怒鳴り込んでくるぞ、きっと」

「心配無用。オスロ師士に許可はいただいているもの」

「なんだって? ずるい! あんただけ特別扱いか」

「理由さえ話せば分かってくれる人よ。あなたも出たくないなら話してみれば? 私はこう言ったの。ここの図書はすばらしいから、気の済むまで見たい。そうしなければ気が狂って、このお国を救うどころじゃなくなる。第一、運動が苦手なんです、ってね」

「なんて自分勝手な理由なんだ……。それを鵜呑みにするじいさんもあれだけどさ」

「いい人じゃない」

倫はそう言って、クスッと笑った。

「そんなに読むのが楽しい?」

俊は倫が読んでいる本を覗き込んだ。まさかとは思ったが、そこに書かれているのはやはり、俊には解読できない記号ばかりだった。

「おい、あんた。この変な記号、ちゃんと読んでる?」

「もちろん。本を眺めているとき、文字を読まないでほかに何をすればいいのよ」

「どうして読めるんだ?」俊はからかうように、にやにやしながら言った。

「ふつうに読んでいるだけ」倫が眉を上げる。

「頭おかしいんじゃないの」俊は笑いながら言った。

「あなた、喋ってるのに読めないってことはないでしょう」

 倫は本から顔を上げ、真顔で言った。

 俊はにやけた顔のまま、「は?」と言った。

「今、あなたの口から出ているその言葉は何なの?」

 倫は頭髪の色と同じくらい真っ黒な瞳で、俊の目をじっと覗き込んだ。倫の大きな黒目は松明の光を映し、ちらちらと輝いていた。俊は言おうとした言葉を声にする寸前で飲み込んだ。これだけ奇麗な瞳の持ち主には出会ったことがなかった。顔がいい人間は探せばいくらでもいるが、眼がここまで美しい者は、そういない。倫の瞳に吸い寄せられながら、俊は考えた。

 俺が今話している言葉は何だ? つまり、何という名の言語だ?

「日本語って言いたい気持ちはよく分かるわ。だってあまりにも普通に喋れるから。でも、違うのよね」

俊は、倫の言った言葉を理解するのに、しばらく時間がかかった。

「ぜんぜん気付かなかった……」

そう、俊には答えられなかった。自分がたった今話しているのが、何語であるのかを。

「無理ない。これではまるで、生まれるときからこの言葉で話しているみたいだもの」

次の言葉が発せられるまでに、しばらくの沈黙があった。


「それは分かった……。俺たちは気付かないうちに名前も分からない言葉を流暢に話しているってことは、たった今、よーく分かったよ。だけどな、その本に書いてある文字が、俺には読めないぞ。逆立ちしたって読めないっていう自信がある。話せても読めないとは、どういうことだ?」

 俊は机の上の黄ばんだ書物を、指でトントン叩きながら言った。理解の範疇を超えたことが起きようとしている事実に、苛立っていた。

「なんでわたしに訊くわけ? 知らないわよ、そんなこと。目に見えるからこそ読めないんじゃないかと思う……まあ、どう説明したらいいのかよく分からないんだけど、文字は一から学ばないとダメみたいね。この言語、文字は三十九種しかないから、覚えようと思えばけっこう簡単よ。あとの二人にも、このことに気付いていないようだったら教えてあげてちょうだい。わたし、あと何日かは、ここを出るつもりはないから」

倫が一気に話すのを、俊は口を開けて聞いていた。

「あんた、すごいな」

「あたしはただ、周りのモノを、よく聴いて、見ているだけ」

倫はそう言って微笑んだ。口の右端が上がるいたずらっぽい笑い方が、俊にとっては意外だった。

「夏季の嬢ちゃんは化け物並みの運動神経だし、哲も、少なくとも俺よりは体が動く。で、あんたはどうやら文系のスペシャリストらしい。俺はいったいなんだ? “こっち”に来てから自信を無くすことばかりだ」

「あら、そのままでもけっこうステキだと思うわよ」

倫が本に目線を落として言う。

「ほんと? どんなところが?」

俊は目を輝かせ、身を乗り出した。

「そうねえ。ちょっと間が抜けているところ。かわいいんじゃない?」

俊は舌打ちして、陰気な顔になった。

「“あっち”で俺はけっこうモテたんだ。男にも女にも。……男にも、ていう言い方はちょっとおかしいかもしれないけど……まあ、言いたいことは分かるだろ。常にみんなを束ねる立場にいた。だからやっぱり俺は“ここ”でもそうあるべきだと思う」

俊は人知れず悩んでいたことを、ぽろっと口に出した。

「それって自分の力だったの?」

倫が顔を上げずに言う。

「なんだって?」

「あなたを見ていると、とてもそんな風には見えないから。そんなに気が強いとは思えないし、頭が良いとも思えない。容姿もふつうだし。他人から抜きん出ているところを強いて挙げるとすれば、我が強いところ、かしら?」

俊は怒鳴りたい気持ちを必死で抑えていたが、

「この根暗女が」

口は勝手に動いた。

「うそくさい愛想を振りまくよりは、自然体でいるほうがましだと思う。たとえ他人から『根暗』と呼ばれてもね」

倫は本に目を落としたまま、静かに言った。もう笑っていなかった。





 俊は城の廊下を歩いていた。

 倫に反論できないのが悔しかった。心の奥底では知っていた。今までの人気は自分の力のおかげではないことを。父の金がなければ大学に入ることもなかった。仲間に酒をおごって心を掴むこともできない。分かっていても、一度味をしめたら、人の上に立つ快感からは抜け出せない。

 俊が食堂に入ると、夏季と哲が、若い兵士たちと談笑していた。

「よう、若いの。二人きりの休日でうらやましい限り」

俊は哲の頭を小突いて言った。

「違うってば。どうしてみんな……、あーもう、うるさいな」

哲がつんけん怒りながら言った。

「からかってるだけなんだから、本気にするなよ。だから余計言われるんだ……」

 イルタが腹を抱えて笑いながら言った。

 哲が夏季を散策に誘ったと聞いて、俊は少々驚いていた。大人しいチビだと思っていたのに、やることはしっかりやるんだな、と。

 俊は、哲に下心など無かったことを知らない。今の彼には、そんな純粋な親切心が理解できなかった。

「あ、そうそう、ユニさん……オスロ師士の奥さんがね、お小遣いくれたんだよ。はい、俊にも」

夏季は、哲が照れていることにはちっとも構わずに言った。

「いい人だな。自分の息子と勘違いしてるんじゃないのか?」

「そうかもね。ユニさんは冗談のつもりらしいけど。倫さんの分もあるんだけど、渡してくれない?」

「なんで俺が……?」

「だってまともな会話したことあるのって俊だけでしょ。わたしは怒鳴られたことしかないし、哲は一言も話したことがないんだって」それを聞いてアレモとイルタが笑っている。「ほら、倫さんが“ここ”で初めて会ったのも俊だし。ちょっとは信頼されてるんじゃないかなーって」

「絶対にお断りだ。あいつは顔も見たくない」

「なんかあったのか、倫さんと?」

俊の険しい表情を見て、哲が言った。

「別に、なにも。」

俊はそう言って、椅子にどかっと腰を下ろした。

「あの人、まだ図書館で暮らしてる?」

イルタの恋人の女兵士、ウォローが言った。

「うん。まあ、それでもときどき食堂で見るようになったけど」哲が言った。

「さりげなーく、あたしたちと同じテーブル使ってるんだよね。ちゃんと仲間の顔は覚えてくれているみたいで、ちょっと安心」

「ま、悪い人じゃあなさそうだもんな」哲が言った。

「ただちょっとだけ……」

アレモが言った。

「本狂いなだけで」

イルタが後を継いだ。

「あと、口が悪い」

俊は、皆に聞こえないくらいの小さな声で、ぽつりと言った。



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