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エピローグ「ただいま」




 あっという間に、十五年の月日が経った。

 セボから元の世界に戻ったあとは、めまぐるしい日々だった。

 まずは高校退学の手続きをした。二年休学したあげく、ふたたび学校に通う気にはなれなかった。母親とは何度も話し合った。高校を卒業しないことの大変さは一応知っているつもりだった。母親が、高校を卒業せず、ましてや早々に父親のいない赤子を生んで育ててきたのを、その子どもとして間近で見てきたのだから。しかし、それまでの母親であれば、「あなたが決めたことなのだから」と反対も意見もせずに、すんなりと受け入れたはずなのだが、今回ばかりは簡単にはいかなかった上に、おそらく初めてなのではないだろうか、これからの道筋を提案してきたのだ。

「どういうことかわかっているわね。わたしの手で育ったのだから」

「わかってる。それでも、お母さんのことは尊敬している。だからこれから先、自分がした選択を恥じることは絶対にない」

「そこまで言うのなら。ただし、学校へ行かないのなら、働く場所を見つけないと。ただのアルバイトではだめ。一生懸命打ち込めるようなところ。わたしにひとつ提案があるんだけど」

「え?」

 夏季は目を丸くした。


 二人が訪れたのは立派な日本家屋だった。夏季にはどこか見覚えがあった。

「覚えているかしら? あなたがヨタヨタ走り出した頃までは何度かここに来たのよ」

「覚えている……かも。ごはんやさん?」

 日本庭園風に仕立てられた立派な池や、大きな行灯のような看板と『湯芽路』という屋号を眺めて、夏季が言った。

「料亭。わたしの両親の店」

 店の表ではなく、裏手に回り、インターホンを押した。しばらくすると引き戸がガラガラと開き、六季によく似た、少し細面の女の人が現れた。

「夏季ちゃん。お久しぶり。覚えているかしら?」

「おばさん。何年ぶりかなあ」

「わからないくらいよ。大きくなったわね。さあ、上がって。母が待っているわ。六季も一緒に」

 六季は黙って建物に入った。その表情は乏しく、少し硬い。

「自分の家でしょう。なに緊張してるのよ」伯母が笑った。


 奥の間に通されると、初老の女性が、ウグイス色の和服で座布団の上に姿勢良く正座していた。どことなく母親や、伯母に似ており、シワが深いことを除けば、涼しい目元が特にそっくりだ。

「突然の訪問、お許しください」

 六季が畳に両手をつき、頭を低く下げた。

 土下座。はじめて見た見世物のような姿勢に、夏季は驚いた。

「ちょっと六季」伯母も驚いて六季の肩に手をやった。初老の女性は六季を眺めるだけで、硬い表情を変えなかった。

「本日はお願いがあって参りました」

 六季は額を床につけたままで話した。

「頭を上げなさい」

 初老の女性が口を開いた。はきはきとしているが、怒っている様子はない。

「そんなことだろうと思っていたわ。今更ノコノコと、この屋敷の敷居をまたぐなど、よっぽどのことだろうとね。それで、そちらの望みは?」

 六季は顔を上げた。そして、息を吸って、口を開いた。

「この子を。夏季を雇っていただけませんか」

 和装の女性は表情を変えなかった。伯母は、息を呑んで、見守っている。

「わたしと違って素直でがんばりやです。この職場の厳しさは身をもって知っています。それでも彼女は適している。役に立つ」

 六季は自分の母親に向かってはきはきと喋った。

「どうか、お願いいたします」

 そして再び頭を下げた。

 しばらく、部屋は静寂に包まれて、六季は頭を下げたままだった。夏季は手に汗握り、母親の行動にただただ驚いていた。

 やがて六季の母親は小さな笑い声を漏らした。こらえきれない、というように、小さく吹き出したようだった。

「ふふふ。これではまるでわたしが、どこぞのアニメ映画に出てくる、怖~い雇い主ババアみたいじゃない?」

 ひとしきり肩を震わせると、コホンと咳払いをして、正座した膝の向きを変えて、夏季の方を見た。

「夏季」

「はい」名を呼ばれ、夏季が返事をした。

「自己紹介が遅れたわね。私の名は喬松美里といいます。わたしのかわいい孫。いつかこうして話ができることを夢見ていたわ。来てくれてありがとう」

 六季ががばっと顔を上げた。目線の先には、硬い表情を崩して、孫に向かって優しく微笑む女将の姿があった。

「心の準備はできていますか? あいにくこの店は就職希望者が多いの。親族のコネでここで働くことはリスキーだわ。その分も背負って働いていけるかしら」

「そのつもりで来ています。やり遂げることには自信があります。それから、もっと大切なことだと思いますけど、料理が好きです。わたしを雇うことで後悔はさせません」

 六季の母親は、今度はあからさまに声を上げて笑った。口を大きく開けた、豪快な笑い方だった。

「さすが、わたしの孫。そしてさすが六季の娘。だからといってすぐに包丁を握らせるわけにはいかない。雑用から始めてもらうわ。ちょうど洗い場に欠員が出ていてね。ゆくゆくはホールの仕事も覚えて。すべて叩き込んであげる」

 六季が、夏季を抱きしめた。安堵している。

 がらっと、ふすまが開いた。

 そこには、紺色の作務衣に身を包み、前掛けをつけた初老の男性が立っていた。

「俺の孫はどこだ!」

 ずかずかと部屋に入ってきた男は、夏季に目を止め、頬を緩ませた。

「夏季や。会いたかったー!」

 夏季に飛びかかろうとした男性を、伯母が立ちはだかって制止した。

「ちょっと。この子もう十八歳なんだから」

 どっと笑い声に包まれた。皆、笑い転げていた。六季も笑っていた。母親の笑顔が見られて、夏季はとてもうれしかった。






 料亭で働きはじめて二年後に、母、六季が死んだ。

 病死だった。

 後から分かったことばかりなのだが、夏季の後を追ってセボへやって来たときにはすでに病気の診断は済んでいたらしく、最初から治療する気がなかったようなのだ。むしろ、病気が発覚したからこそ、母親は異世界への再訪問を決意したのかもしれなかった。まだ元気なうちに、若さゆえにとっさに凍らせたクロ・アルドの遺体と、もう一度再会しなければ、と。

 十年以上の時間をかけて、身近な人の死を時が経つと共にそれなりに消化したつもりでいても、今でも時々夢に出てくる。

 高校生の頃に戻った自分がいて、階段の下から母の名前を呼ぶ。夜勤明けで、眠たそうな目をこすって階段をゆっくりと降りてくるだらしがない母の姿を見て、少しだけ違和感を抱く。

 家はアパートで、階段などないはずだ。それに、母は死んだはずではなかっただろうか?

 そしてその夢に出てくる母の肌の色はどこか青白い。目つきもうつろだ。そして確信する。やはり母はすでにこの世にいなくて、今ここにいてはいけないはずの存在なのだと。

 懐かしさと、恐ろしさがないまぜになった不気味な夢だ。

 この世界で最愛の人を失ってしまい、生きる意味を見出すことが難しかった。だからひたすら仕事に打ち込んだ。

 祖父母の料亭の若女将となりようやく一人前を自負できるようになった夏季は、なんの脈絡もなく、ふとセボのことを思い出した。

 わたしはここまでやりきった。この先は? 今のままであれば、大なり小なり同じことをして、一生を終えるのだろう、

 あの頃輝いていた異なる世界に、今なら戻ってみてもいいかもしれない、などと。


 十五年の間で、セボのことを色濃く思い出させる出来事があったのは一度だけだった。

 母の葬儀に、「君の父と母を知っている」という人物が現れた。

 母だけならいざ知れず、父をも知っているとなればと思い、カマをかけた。

「クワンバはお好きですか?」

「なぜクワンバを知っている?」

 後日、男と会食をした。彼は「『元・炎使い』だ」と教えてくれた。

 母に恋心を抱いていたこと。父に嫉妬したこと。そして、当時の「成長の手」を下僕のように扱い、父が魔女の手にかかるように仕向けたこと。その「成長の手」は自責の念に駆られていたこと。

「俺はとんでもないことをしてしまった」男は両手に顔を埋めた。

「いいんです。すべて魔女リカ・ルカが悪かったんです。そういった感情に、魔女が付け入らないわけがない。あなたの感情を悪用したのは間違いないでしょう。わたしの仲間も魔女にけしかけられて過ちを犯していた」

 思い出されるのは俊の顔だった。現在テレビの画面で見る小太りの彼ではなく、もう少し、いや、ほんの少しだけ細身だった頃の顔。

 遠い昔の出来事だ。母はもうこの世にいない。だからこそだろう、もはやそれほど感情を揺さぶられる内容ではない。それでも真実を知ることは、未来の自分が明るい気持ちで生きるためにの助けにはなる。どうしてそんな理不尽な目に合わなければならなかったのか、いつまでも疑問を持ち、心の奥に淀みを抱えたままでは、きっとどこかで足踏みをしてしまうだろう。

 だから夏季は「元・炎使い」を名乗り出た男に感謝した。

「母のどこがよかったんでしょう?」夏季は素直に疑問を口にした。

「めったに笑わないところが、かわいいんだよな」懐かしむように、男は言った。

 無愛想な母。涼しい目元のおかげで少し近寄りがたい空気をまとった母。時折みせる人間らしい表情が、確かに魅力的なのかもしれない。誰にも懐かない大人びた雰囲気。自分にだけ見せる表情があると感じれば、男の人はなびいてしまうかもな……。

 夏季は少し妄想にふけった。


 ちなみに、俊や倫とはたびたび連絡を取り合い、何度か顔を合わせている。二人はそれぞれ充実しているようだった。

 俊は無事に父親の会社を継いで華々しい日々を送っている。最近はWEB広告で目にする機会も多くなった。

 倫は得体の知れない雑学学者として世界中を飛び回っているらしい。

 有名大学の客員教授に呼ばれたりと、セボにいた頃とやっていることはあまり変わらないようだった。

 いや、セボでの経験があったからこその今なのだろう。







 ある日の早朝、店の前を箒で掃いていると、目の前に懐かしい姿があった。

「あなたの名前は?」

「夏季。喬松夏季」

「一緒に来る?」

「喜んで」夏季はにっこりと微笑んだ。

 目の前が真っ白になり、まぶしさに目を瞑った。

 身体が浮かんだ感覚の後で、地面を踏みしめる。

 そこにシエ・ラートンが立っている。

「やあ、夏季」

 夏季は走り出し、ラートンの広げた腕の中に飛び込んだ。








 目を覚ますと見慣れた三畳間だった。

 いつもと同じ時間。外はまだ薄青く、冷たい空気を感じさせる、静寂の時間。

 腰エプロンを身につけてそっと土間へ降りて行き、仕込みのチェックをする。厨房を一通り拭きあげる。考え事をしていても、身体は勝手に動いた。


 七月十一日の午前五時

 料亭の門の前で


 夢の最後で聞こえた声が忘れられない。

 七月十一日まで十日ほどある。

 もしも今朝の夢を信じるのであれば、その日が来るまでに必ずやっておかなければならないことがある。







 遺骨の回収の手続きなど手慣れないことをした。

 ただし、「散骨のため」という事情を設定したところ、予想していたほど難しいことにはならなかった。

 七月十一日の午前四時五十五分。

 夏季は料亭の前に立っていた。

 もしもだれかに見られたとしても怪しまれないようにふだんと同じ前掛けをつけて、母の遺骨を入れた手提げは胸元に抱えた。

 四時五十七分。

 鼓動が早くなる。

 四時五十九分。

 誰もまだ起きてこない。どうかこのまま、すべてうまく進んでほしい。

 五時ちょうど。

 五時一分。

 血の気が引いた。

 わたしは馬鹿だ。

 いいかげんいい大人になってなにを血迷ったのだろうか。

 あれはただの夢なんだから……。


 夏季は遺骨を抱えたままその場にへたり込み、肩を震わせた。

「うふふふふふ……。必死になって、馬鹿みたい。わざわざ、母の遺骨を持ち出す手続きまでするとか……」

 涙が溢れ出して止まらなかった。ひくひくと、しゃくりあげた。

「どうか、してるよ……」絞り出すように、言った。

「大丈夫?」

 夏季は顔を上げた。

 おだんご頭を結わえた美少女が、先が鉤型になった杖を持って見下ろしている。

「びっくりした? そうだよね。ごめんね! でもさあ、考えてもみてよ。セボから見てこっちの世界の時間なんか正確にわかると思う? かといって時間を指定しないわけにはいかないんだし。でもそんなに遅れてないでしょ。マシな方じゃない?」

「ほんとに。レナ。あんたは変わらないのね」

 夏季の顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。

「さあ、行こうか。みんな待ってるよ!」

 夏季はレナに抱きついた。

 二人は白い光の中に消えた。








 油が燃える香りは郷愁を誘う。

 部屋の角で松明がぼうぼうと燃えている。

 そこは笑い声で溢れていた。

「く、くるしいよ、なつき……」レナが顔を真っ青にして言った。

「感動の再会だっていうのに何やってんだよ。もう遊んでんのか?」茶化すような口調には聞き覚えがあった。

 レナがなんとか夏季を自分から引き剥がした。

「ようこそセボへ!」

 朗々と言ったハリルは、記憶にある姿からすると、頭には白髪が、顔にはシワが増えていた。

 その隣で、背の高いすらっとした男が佇んでいる。黒髪は毛先が自然に遊んでいる。

 黒い瞳は涼しげだが優しく、目尻にはかすかにしわが寄っている。

 夏季は彼の胸に飛び込んだ。

 男はしっかりと抱きとめた。

 ハリルがまた笑っている。

「おいおい夏季。誰かにくっついていないと立っていられないのか?」

「会いたかった」周りに構わず、夏季はラートンの胸に顔をこすりつけた。

「それは光栄だ」シエ・ラートンが静かに言った。「ところでその服装はいったい?」

「……料理人の格好」

「なるほど?」シエがふふっと笑った。

「ようこそセボへ」ネレーが胸を張って言った。

「久しぶりね」ユニが涙を流していた。


 ラートンの横で、夏季は鼻をすすっていたが、落ち着いていた。

 ラートンが口を開いた。

「罪を背負ったベラ王女は地道に信頼を積み上げて、今はセボの当主としての役目を全うしている。トラル国の再建を申し出て、先ごろ王女から許可が下りたところなのだ。『よく今まで尽くしてくれました。あなたには感謝しかありません』と」

「ベラ王女の赦しがあったから、わたしのことを、思い出してくれたのね?」夏季が顔を上げた。

「忘れたことなど一度もない。ずっと君を想ってきた。封じられていただけなのだよ。君の強い意志がそうさせたんだ」

 シエ・ラートンが夏季を強く抱きしめた。

「わたしの意志?」

「俺のために君は自分の気持ちを押し殺した。そして俺が王女のためを想うことを願った。ありがとう、夏季。感謝している」

「少しでも、役に立てたのなら……よかった」ラートンの腕の中で動けない夏季が、かすれた声で言った。

 抱擁を解くと、夏季の肩に手を置いた。

「夏季、よかったら、いっしょに来てくれないか? 俺は祖国を立て直したい。君には俺の側にいて力になってもらいたい」

「わたしで役に立つのかしら?」

「いてくれるだけでも心強い。そばにいて、支えてほしい」

 やっと。

 かつて答えられなかった申し出に、今度は返事をしない理由はなかった。

「喜んで」

 夏季はかすれた声で言った。

「おかえりなさい、夏季」ユニが言った。

「おかえり、夏季」ネレーも言った。

「おかえり! でも、すぐにトラルに行くなら、行ってらっしゃいだけどな」ハリルが言った。

 夏季は袖で涙を拭った。そして深く息を吐いた。顔を上げると、まっすぐ前を見て、皆の顔を見回した。

「ただいま」







 無数にあるWEB小説の中から拙作を見つけていただきまして、ありがとうございました!

 少しでも楽しんでいただけたならば幸いです。

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