愛のかたち「誓い」
嫌だ。
夏季の心が叫んだ。
夏季の真横を、何かが素早く通り抜けた。
哲がラートンの頬を殴りつけた。ごつっという鈍い音と共に、ラートンが大理石の床に倒れ込んだ。周囲にあった食器や書籍が、音を立てて散らばった。
「お前。何を言っているんだ?」哲がラートンの服の胸ぐらを掴み、立ち上がらせた。「よくそんなことを口にできるな? 王女から夏季に乗り換えたのはお前だろ」
「哲。やめて。あなたが口出しすることじゃない」倫は両肩を震わせて床を見つめ、絞り出すように言った。床には大粒の涙がぱたぱたと落ちている。
「知ってるよ。でもな、言わずにはいられない。こいつは夏季の想いを弄んだんだ」哲はラートンの体を揺さぶった。
ラートンが哲の手首を掴み上げた。哲はうめき声を上げ、顔を歪ませた。
「ベラを見捨てろと言いたいのか?」ラートンがすごんだ。
「知らねーよ。今までさんざんわがまま放題で勝手をやっていた女の行く末なんか」哲は捻りあげられた手首の痛みに耐えて言った。
「貴様が、ベラの何を知っていると言うんだ」ラートンの手に力が入った。
「だから知らねえよ、そんなの。はたから見てれば、お前がひどい人間だってことしか分からない!」
哲が唾を飛ばしながら、ラートンに言い放った。
シエ・ラートンは哲の手を解放した。二人はにらみ合った。
「やめて」夏季が低い声で言った。
「……むかつくんだよ。許せないんだよ。俺が好きな夏季を、全力で愛さないこいつが」
「そうじゃないんだよ、哲!」夏季が叫んだ。
「夏季、いい子ぶるなよ。言ってやれよ、こいつに向かって、『お前は最低な人間だ』、『クズだ』ってな」哲が今度は夏季を睨みつけた。
「わたしは、言うべきときには言ってきたつもりだよ。どんな相手であっても」
夏季が声を震わせた。怒りと悲哀が混ぜこぜで平静を保つのは難しく、顔が震えた。深く息を吸って吐くことで、なんとか顔を上げることが出来た。そして哲と目を合わせて、口を開いた。
「今はわたしが駄々を捏ねる時じゃないと、思うから言わないだけだよ。悲しくないわけない。悔しい。王女が憎い。でも、どうなんだろう。シエだって、同じ気持ちなんじゃないかな」
「同じ気持ち?」哲が聞き返した。
「本当はすべてを投げ打って、彼と結ばれたい」夏季が、言った。
しかしルカの壷を壊すために必要なことをしなければならない。
ラートンはその手をぐぐっと握りしめ、震わせた。耐え忍ぶように目を瞑り顔を歪ませてから、ふたたび哲の方を見た。
「俺が夏季の気持ちをわからないと思っているのか」ラートンの声も、少し震えていた。
「俺が何も彼女の気持ちを想像しないで決めたと思っているのか」ラートンが哲と額を付き合わせた。その瞳は燃えるように鋭く、熱をもっていた。
「俺が今そうすると決められたのは、彼女が同意してくれるとわかっていたからだ」言葉の終わりは、悲しみがにじんだ。
「それが許せないって言っているんだ。それは夏季への甘えだ」哲は負けじと、声を張り上げた。
「わたしがそうして欲しいからなんだよ」夏季は弱々しく、哲に言った。
「わからない……わからないよ……なぜそこまでするんだ……」哲は自身の頭髪を掴み、苦悶した。
「ありがとう、哲。わたしの心配をしてくれているのよね……」夏季がかすかな笑みを浮かべて言った。歪んだ微笑だった。
「いつもそうだ。なぜこんな男のために行動する? 俺がどうして君におせっかいを焼きたがるのか、知ってるか?」哲も顔を歪ませた。
「わたしを、想ってくれているから……」
「ああ、そうだ。俺は君を愛している。狂おしいほどに。なぜだと思う? がんばる君が、報われて欲しいからだ。幸せになってほしいからだ。君が幸せになるために、俺はパートナーにはなれないことを知った。けれど、そばにいられなくても、君には幸せになってほしいと、心から願ってる」
哲は両目から涙をこぼした。それを見て、夏季はむせび泣いた。
「……幸せに、なって見せるよ。哲のその気持ちに恥じないように、幸せになって見せる」
夏季は泣きながら、まっすぐ哲の目を見て言った。
「でも、それは今じゃない。許して、哲」夏季は懇願するように言った。
皆、涙をこぼしていた。
ただ一人、涙の枯れたシエ・ラートンという男が、夏季の肩をそっと叩いた。
「ねえ、夏季」
「なに?」夏季は赤くなった目で、ラートンを見上げた。
シエ・ラートンの黒い瞳は穏やかだった。深海の底のように深い闇だった。
「人の心は変わっていくと思うんだ。かつての俺のように」
「うん」夏季が相槌を打つ。
「君が変えてくれた俺の心のように」
「うん」
「時間が経ってもしも人の心が変われば、きっとまた君を愛せるようになるんじゃないかと、俺は思うんだ」
「うん」
「信じてくれるか。君を愛していることを」
「信じるよ。わたしもあなたを愛しているから」
「哲、君が証人だ。俺と夏季は永遠の愛を誓う」
「そんな誓いになんの意味があるんだ」哲が床に視線を落としたまま、ぽつりとつぶやいた。
「わかるでしょう、哲。ベラ王女を救うためだよ。王女が幸せにならなければ、シエは絶対に辛い思いをする」
夏季は哲に語りかけた。その落ち着きは、哲には冷酷さすら感じさせた。
「そうか。君は、本当にラートンを愛しているんだな。ごめんな、夏季。俺はそれを知っているつもりになっていた」
「わたしもよ。夏季。人を愛するのがどういうことか、どれだけ書物を読んで知識を得たって、自ら体験してみないとわからないと思っていた。あなたを見ていて今理解できた。地獄なのね」倫が言った。
「それに、ラートン隊長って、すごいよな。絶対に人から憎まれるとわかりきっていて、その役目を進んで引き受けるんだもんな」俊が鼻をすすった。
「それをわかっていても、俺はラートンという男が憎たらしいよ。なぜなら俺は夏季の友人だから。友人をこんなに辛い目に合わせられて、平気でいられるかよ」哲が言った。
「ねえ、ネレー。わたしたち、どうしてここにいると思う? けっきょくわたしたちは壷を壊すために力が及ばなかった」倫が、ネレーに声を掛けた。
「夏季を勇気づけるためだ。そうだ。彼女を応援するためだ」ネレーは朗々とした声で言った。
「おそらく正解だわ。わたしたちは夏季の決意を確固たるものにするために、彼女のそばで見守らなければならない。出来ることはそれだけ。とてもつらいけれど」
「仲間と共に、強く生きてくれ」ラートンが夏季の方をちらっと見て言った。
「ええ。わたしは大丈夫。あなたはどう?」夏季もラートンを見て言った。
「君を愛してからも、ベラ王女の幸せを願う気持ちは変わらなかった。だから自分がこれからすることに後悔はない」
ラートンが言った。
「シエ。わたしを棄てて」
「ああ。俺は今から君への気持ちを封じて、全力で王女に愛を傾ける」