壷伝「七人目」
扉を開けたラートンの後ろから、部屋の中を見た夏季は息を呑んだ。背後で倫の小さな悲鳴が聞こえる。
「ひどい……」
夏季の目には涙がにじんだ。
ラートンは表情を変えずに、静かに部屋の中へ歩いていった。
夏季はすぐには動くことが出来なかった。
少し先には、口から泡を吹き、目を見開いたまま横たわるロイ・パソンの姿があった。そのさらに向こう側にはもう一人、床に倒れている誰かの足が、大きな執務机のそばにある。その誰かを隠すようにして座り込み、ベラ王女が泣き喚いていた。
「わたしが。ニッキを。殺して。しまった」
ラートンがすぐそばに来たのを横目で見て、ベラ王女がしゃくり上げる合間に言葉をつないだ。
夏季も、心を決めて部屋に足を踏み入れた。
「わたし、パソンだけを、狙ったのよ」
王女がラートンの目を見て言った。なにかの間違いで亡くなってしまったペットのことを、話しているかのような、幼い子どもの訴えのようだった。
ラートンは顔を歪めた。苦悶している。凄惨な現場に、王女の純粋な瞳が不釣り合いで、困惑していた。
王女は、夏季の姿を見た途端に顔を激しく歪めた。
「近寄らないで!」
王女の剣幕に、夏季はたじろいだ。それから、心の底からじわじわと、罪の意識が芽吹くのを感じた。
憎まれている。
ラートンを奪った犯人だと、思われている。
「お取り込み中、すみませんけど」倫が忍び足で近づき、ささやいた。
王女が倫を睨んだ。倫はかまわずに、再び口を開いた。
「わたしたちは聞いてしまいました。『パソンを狙った』と。たとえ王族であってもセボで裁かれるには証拠として足りてしまう。そうでしょう、ネレー?」
「ああ。確かだ」ネレーがこくりと頷いた。青白い顔で、しかし冷静に、現場を眺めている。「人殺しは重罪だ」
「あの『壷』が悪いのよ!」
ベラ王女は大きな机の下を指差した。
「あいつがわたしにそうするように仕向けたのよ!」
ラートンと夏季は目を見張った。探していた壷がそこにあった。部屋の雰囲気に不釣り合いで、時代にそぐわない粗くおおざっぱな紋様でおおわれた、無骨で粗野な、茶色い大きな壷だった。
「なんなのよ。この壷が、王女をけしかけて、彼らを殺させたっていうの?」倫が顔を歪ませて言った。
「まるで……」俊がつぶやいた。
「魔女リカ・ルカと同じ」夏季が言った。
「この壷を壊さなければ」ラートンが、切羽詰まった様子で言った。
「今こそ力を合わせましょう」倫が深く頷いて、言った。
「そのいまいましい壷を、早く壊して!」ベラ王女が怒りをあらわに、金切り声をあげた。
「おおせのとおりに」俊が眉を上げて、言った。
哲と俊が執務机の上に土足で上がった。ラートンとネレーが床から壷を持ち上げた。哲と俊は机の上で壷を受け取り、構えた。二人は、白い大理石の床めがけて、壷から手を離した。
地響きのような重い音をたてて、壷が床を転がった。 ベラ王女が、耳を刺すような悲鳴をあげて、倒れ込んだ。
「ベラ!」ラートンが王女のそばに駆け寄った。
王女は床でのたうち、気を失った。
大きな壷は床をごろごろと転がった。割れも欠けもない。一方で、大理石の床には、蜘蛛の巣のような大きなヒビが広がっていた。
「壷を傷つけようとすると、王女が苦しむようだ」ラートンが、青ざめた様子で、言った。
「壷に操られているとしたら、これは演技なのかしら」倫が床に倒れたベラ王女を眺めて、冷たく言った。
「ニッキの死を目の当たりにして、一瞬我に返ったのではないか? 一時的に壷の支配から逃れているように、わたしには見える」ネレーが口元に手を当てて言った。
「まさに想定外の出来事でしょうからね。なぜニッキは死んでしまったの?」倫は、床に横たわるニッキを、憐れむように眺めて言った。
床には、壊れたティーカップや焼き菓子が散乱している。
「か弱い王女に出来ることは毒殺しかないだろう。お茶なり菓子なりになにか仕込んであって、それを口にしたのが原因で二人は亡くなったのだろうな……」ネレーが青白い顔で、静かに言った。
「おかしくない? なんで老パソンと召使いニッキが仲良くお茶するのよ?」倫がしかめつらで俊に詰め寄った。
「俺に言うなよ」俊がたじたじと後ずさった。「確かに、変な組み合わせだな」
「しかもここは王女の部屋だよね」夏季も口を挟んだ。
「どう思う? それから、どうする?」哲が、ラートンの方を見て言った。
ラートンは答えなかった。顔を上げずに、気を失っているベラ王女のそばに寄り添っている。
皆、黙ってしばらく様子をうかがった。ラートンの背中が語る重い沈黙が、推理大会をする雰囲気を消し去った。
「『壷伝』にも六人の仲間が登場し」ネレーが口を開いた。「そして壷を封じ込める」
「思うんだが、かつて壷を作り出した魔女も、そのずっと後の時代に壷を封じ込めた六人も、魔術に長けた連中だった。つまり七人は全員同じ血族なんじゃないかと」ネレーがまるで独り言のように、誰の顔も見ずにぶつぶつと話し続けた。
「ここへ来て盛大な仮説だな」俊がボソッと言った。
「それ、わたしもそう思うわ。実際、そういうバージョンの『壷伝』も読んだことがある」倫は俊を押しのけて、声高に言った。
「王女の身体がたった今、ルカと同体だと仮定すると……」倫がぶつぶつとつぶやいて、ネレーの横に並んだ。
「なんだよ? まさか、この壷を壊す秘策でも思いついたのか?」俊が倫に、先を言うように促した。
「いや……でも……」倫が言い淀んだ。
「なんだよ。何を出し渋っているんだよ、お前らしくない」
「ダメだ」倫は真っ青な顔で言った。そして、一瞬、夏季の顔を見た。夏季はそれを見逃さなかった。倫の恐怖をたたえた瞳と、目線が合ったからだ。
夏季は一瞬首を傾げた。それから倫の視線を追った。
倫は今度はラートン、ベラ王女と順に見ていた。
「言ってよ、倫」夏季は怒って言った。
倫が首を横に振った。
夏季は今度はラートンの方を見た。彼は静かだった。しかし考えている。夏季は倫の方へ、小走りで向かった。
「言うのよ、倫!」夏季が倫の両肩を掴み、揺さぶった。それは俊と哲が思わず止めようとする激しさだった。
「王女を救う手があるのなら、試してみないと! わたしたちは、王女を見捨てるためにここに来たわけじゃない!」
「わかった。わかったから」倫が観念したように言った。そしてコホンと咳払いをして、口を開いた。
「かつては同じ血族であったとして、紆余曲折を経て憎み合う関係となってしまったとしたら。魔女が本当に望むものはなんだと思う?」
愛。
一つの文字が、夏季の頭に浮かんだ。
「王女を幸せで溢れさせることはできるだろうか? ……と、思っただけ……思いついてしまっただけよ……」倫が、悲しそうに言った。
「外側からがダメなら」俊がぶつぶつと言った。
「内側から壊す?」続きをネレーがつぶやいた。
「おそらくそれをするためには」倫の声が震えていた。
「早く、言って」
夏季が怒りで顔を歪めた。
本当は、言わないでほしかったが、本心を隠すために必死だった。だから苛立っていた。その本音を読み取っているのか、倫は口を開いても、なかなか言葉が出てこなかった。
「夏季。俺は君を愛することができなくなる」
ラートンが口を開いた。