壷伝「ティータイム」
「彼の手枷を外してちょうだい」
机上の書類に羽ペンをさらさらと滑らせる手を止めて、ベラ王女が憲兵に命じた。憲兵の一人がロイ・パソンの前にやってくると、彼の両手を不自由にしている枷に、鍵を差し込んでがちゃりと外した。パソンは両腕をだらりと垂らした。
「下がってよろしい」
ベラが退室を命じると、数人の憲兵たちはぞろぞろと、出て行った。部屋には囚人の装いのパソンと、ベラ王女と、そして召使いのニッキの、三人だけとなった。王女は執務用のデスクからおもむろに立ち上がった。落ち着いたラベンダー色のドレスの丈は床につきそうなほど長いけれど、以前は、王女が立ち上がれば侍女たちが裾を持ちに駆け寄らなければならないほどだったことを思えば、ずいぶんと控えめな装いだった。王女は優しげな笑みを浮かべながら、パソンが立っている部屋の入り口に、歩いていった。
「お招きいただいて光栄じゃ」パソンがにこりと笑った。目は細められ、口元のヒゲがかすかに動いた。
「最初に断っておきますが、あなたが投獄されていることに対して、罪悪感はみじんもありません」ベラ王女が微笑んだまま、言った。
「いや、大したものじゃ。ほんの十日ほど前とは見違えるよう。幹部会議での、王女らしく毅然としたふるまいには、しびれましたぞ。いったいどういった心境で、華麗な変身をなされたのかを知りたいと、ちょうど思っていたところでした。どうかそのあたりの事情を、お聞かせ願えませんかの?」
パソンは分厚い眉毛の下で、瞳をきらきらとさせた。王女が口元に手の甲をあてがってホホホと笑い声を上げた。
「さすが、元大議長でいらっしゃるわ。あなたのおかげで、わたしたち、もうすっかり打ち解けましたわね。さあ、少しだけ、お茶でも飲みませんか」
二人が明るいやりとりをする傍ら、壁際にいる召使いのニッキは、無表情で待機している。それを横目で見ていたパソンは、浮かない顔だと、感じた。あまり物事に動じることなく冷静な人間であることは知っていたが、それにしては、表情があまりにも暗すぎた。
ベラ王女がこれほどまでに快活で、大人らしいふるまいができるようになったにもかかわらず?
パソンは一瞬、眉をぴくりと動かした。
「シエ・ラートンにはずいぶんと厳しいことを言われましたわ。でも、そのおかげでわたくしはこのように変わることが出来た」
「その仕打ちが幽閉では彼もやるせないのう」
「あら。多少しかられる程度であれば問題無かったのに、彼は踏み込みすぎた。わたくしへの侮辱にあたるわ。それで咎めが無いとすれば、王族の威厳が無くてよ」
「ほう。威厳……ね」パソンが肩を揺らして、ふふっと笑った。「色恋沙汰のコントロールは難しいじゃろう。なにせ本能に依る」
「まあ。事情を、よくご存知の様子ね」王女の瞳が少し冷ややかになった。
「何を今更。皆知っておろう」
王女はテーブルの上で手を組み、何かに耐えるように目をつむってから、言った。
「皆、うわべの話だけ聞いて、知ったつもりになっているだけよ。わたしとシエのことなど、誰にもわかりはしない……」
ノックの音が響いた。
ベラ王女とパソンは顔を上げた。
「失礼致します!」
憲兵が部屋に入ってきた。緊張した面持ちで、ベラ王女の方へ早足てやってくると、王女に耳打ちした。
とたんに、ベラ王女の顔色が変わった。
「少々お待ちいただけるかしら?」
パソンに向けられたベラの笑顔は引きつっていた。
「御意。焼き菓子をいただいて待っとります」
パソンは呑気な調子で、華奢で華美な大皿に乗せられた焼き菓子をつまんで見せた。
ベラ王女は憲兵と共にせわしなく出て行った。ドレスの布地がこすれる音と、コツコツという足音が、遠のいていった。
パソンは急に、壁際に立っている召使いのニッキの方に顔を向けた。呑気な表情はそのままだが、瞳はきらきらと、力強くニッキの目を覗き込む。
「一緒にいかがかな?」パソンはいたずらっぽい目つきで、ニッキに焼き菓子を勧めた。
「めっそうもございません」ニッキは慌てた様子で首をぶんぶんと横に振った。
「なに、王女はしばらく戻るまい。遠慮するな」パソンは楽しげだった。脚を組み、姿勢を崩した。
ニッキは少し迷った様子を見せた後で、今度はそそくさと、テーブルに駆け寄った。
「なにやら少し思うところがあるようじゃのう」パソンが軽い調子で言った。
ニッキが椅子を引き、腰掛けた。
「少しどころか……ラートン隊長には何度か相談させていただきまして」ニッキは少し下を向いてから、怯えるような目つきでパソンと目線を合わせた。
「うむ。小耳に挟んでおる。まあまあ、お茶でも飲まんか」パソンは空いているカップにドボドボと茶を注ぐと、ニッキの眼前に置いた。
ニッキはそれをぐいっと飲み干した。
「気が狂いそうです」空にしたカップをドンとテーブルに置いた。
「お側にいるからこそです。わたしはこれまで忠実に職務にあたって参りました。例えベラ王女の気性が嵐のようにめまぐるしかろうと、どんな日々も、淡々と、なすべきことをやってきた自信があります。ところが近頃はどうでしょう。こんなに落ち着かないことは初めてだ」
怯えた様子のニッキは泣き出しそうにすら感じられた。
「気持ちはわかる。わしも同じじゃ。気が狂いそうじゃ」パソンが呑気な調子でうんうんと頷いた。
「さて、王女の用意した焼き菓子、恐れ多くてなかなか手が出ん。君が先に食べてくれ」パソンがふたたびニッキに焼き菓子を勧めた。
「はあ? ご冗談を」ニッキは苦笑いを浮かべた。主人のおやつのつまみ食いなど、経験がない上に思いつきもしないことだった。
「真面目すぎるんじゃよ。君もラートンも。ほれ、食べなさい」パソンはかまわずに、ニッキに促した。
ニッキは、しぶしぶ、クッキーを手に取り、口の中に運んだ。