壷伝「救出」
しくしくとむせび泣くベラ・デフルリは、重厚なデスクの下で、大きな壷を抱え込み、その水面に向かって口を開いた。
「ねえ、言う通りにしたわ。なのに、シエはわたしのものにならない」
『邪魔者を消すのだ』
「誰のこと?」
『シエ・ラートンをけしかけた者だ。お前から顔を背けるように仕向けた人間だ。本来お前が憎むべき相手だ』
「どういうこと?」
『ロイ・パソンだよ。なぜシエ・ラートンは心変わりをしたと思う? ロイ・パソンがそう仕向けたからだ。シエ・ラートンに、城以外の人間と関わりを持つように促したのが、ロイ・パソンだ』
「そう……そうだったのね……やつがシエをそそのかしたんだわ……」
『わたしの言う通りにするがいい。そうすれば、簡単にロイ・パソンを片付けることができる』
一行はカイハが脱出した穴をそのまま逆走し、カイハの地下室へと入っていった。しかし、その空間は予想に反して水浸しだった。
「なんじゃこりゃあ!」俊が声を荒げた。
「静かにしてよ!」倫がぴしゃりと言った。
それは水路よりもひどいありさまだった。
「これがカイハの気持ちなんだ」夏季は、声を詰まらせた。「もう二度と、ここに戻るつもりはないんだよ……」
「ここはぜんぶ、つい数時間前まで氷で埋め尽くされていたってことか?」哲が腰まで冷水につかりながら、戸惑いを隠さずに言った。
「なるほどな。偉大なる『氷使い』の怒りだ」ネレーは歩き辛さに音を上げて、白いマントを脱ぎ捨てた。
一様に全身を震わせた五人は、俊が手のひらから出した炎をしばらく囲んで、暖をとった。なんとか震えが治まると、身構えながら地下室の扉を開けた。そこに見張りの者はいなかった。
「警備が薄いな」哲が小声で言った。
「というか、誰もいない」俊も、恐る恐る、口を開いた。「いくら真夜中でも、これには驚きだな」
「もしかして警備が、城下街と裏門に集中しているのかな?」夏季がボソボソと言った。
「だとしたらこの潜入作戦は大成功ね」倫が夏季の背中をバシンと叩いた。
「ピルツが書斎を確実に空けるのは、文官たちの会合の時だろう」ネレーがぶつぶつと言った。
「日程を知っていれば確実だけどね」倫がため息混じりで言った。
「わたしを誰だと思っている? 政務大臣補佐のネレー・ドゥーラだぞ」ネレーが苛立った口調で言った。
「日程変更しているんじゃない? あなたが城を抜けたことはとっくにバレているでしょうから」倫が即座に言った。
「いいや……、まさか『壷伝』の初版本を狙っているとは思わないんじゃないかな」ネレーが食い下がって言った。
「そうかしら? なんのためにわたしたちを城から追い出し、軍部の幹部たちを投獄したと思う? 警戒しているのよ」倫が畳み掛けるように言った。
「そもそもが? いや、まさか、でも……そうか。ピルツなら……、考えかねない……」しゅんとするネレー。
「だったら会合の時を待たずに今すぐ突撃したって同じことでしょう。班を分けた方がいいと思わない? 『壷伝』の初版本の入手と、ラートンの奪還に。あるいは、ついでにハリルとかパソンも同じ場所に居れば助けられる……」倫がニヤリと笑った。
「ついでっていうのはつらいな」俊がとぼけて言った。
「確か地下の空間は限られているわ。ここから近いのは地下牢のはず」倫が言った。
「レナとセナは無事かな?」夏季は、地下で門番をしているはずの二人のことを想った。
「彼女たちは国民にとっての本物の英雄だ。おそらく誰も手出しできないだろう」ネレーが言った。
「なるほど。二人が何か教えてくれるかもしれないわね」倫がはつらつと言った。
「その部屋の場所は?」哲が言った。
「うろ覚えだけど、わかると思う。ここからそれほど遠くないはずだ」ネレーが少し考えて、言った。
「尋ねてみましょう」倫が言った。
頑丈な両開きの扉をノックした。
「ハイ」
と返事がした。
「夏季です」
「ええ?」と、くぐもった声が聞こえた。
ぎいぎいと音を立てて、重い扉が開いた。
「ほんとだ。夏季だ」レナがとぼけた顔をのぞかせた。「よく無事だったわね。というか、よく城に戻ってこられたね」
のどかなレナの言葉に、一行は力が抜けた。
「城中大騒ぎ。憲兵が急にやる気を出すものだから」セナがおっとりと言った。
「警備は一体どこに?」夏季が尋ねた。
「城下をくまなく探しているはずよ」レナが言った。
「正門から、裏門まで、びっしりと」セナが言った。
「もしかして、城の中はもぬけのから?」哲が言った。
「そう思うわ」
「まさか、すでに城の中にあなたたちがいるなんて」
「誰も思わないでしょう」
レナとセナが代わる代わる言葉をつないだ。
俊と哲は向き合って握りしめた拳を互いにぶつけた。
「わたしたち、ラートン隊長を助け出したいんだけど、彼は地下牢にいる?」夏季が言った。
「いいえ。地下牢にいるのはパソンとハリル。ラートン隊長は王室塔の、尖塔に幽閉されている」レナが言った。
「ここに来て正解だったわね。まさか王室塔にかくまうなんて思いも寄らないわよ。どうする? 近くにいるパソンたちを先に助けましょうか」倫が言った。
「カイハは?」セナがたずねた。
皆、顔を見合わせた。
「それが。彼女は城を去った。今回は協力できないと」夏季が答えた。
「うーん……」レナが唸った。
「仕方がないのかな……」セナもつぶやくように言った。
レナとセナは、揃って考え込んだ。その容姿からすると、少々幼い仕草だった。
「やはり、六人揃わないと、まずいと思うか?」
「君は誰?」レナが首を傾げた。
「政務大臣ピルツ付きの、ネレー・ドゥーラだ」
「あ、そうなの?」レナが言った。
「頭数だけは揃いそうだね」セナが言った。
「あなた方の考えは?」哲が聞いた。
「実はわたしたち、何度も何度も、立ち会ってきたの」レナが言った。
「封印や、打倒のその場面に」セナが言った。
「それは、『壷』と関係があるの?」夏季が聞いた。
「『壷』ではなかった。『壷』は一度も目にしていない」
「わたしたちはただの傍観者よ。ただ、必要な人間を召喚するだけ」
「それから時折必要なときに、召喚以外に力を使うだけ」
「そして彼らは必ず六人が揃っていた」
レナとセナは順に話した。
「だから、十五年ほど前に、『闇使い』であったクロ・アルドが死んでしまった当時、それが理由でリカ・ルカを倒しきれなかったのではないかと、思っていたのだけれど……」
「確かなことはわたしたちにもわからない。がんばってみてとしか言えない」
レナとセナは、そこで言葉を切った。
「今回は、先日リカ・ルカを倒したときのように、君たちの力は使えないのか?」俊がわずかな希望を込めて言った。
「そのつもりはない。リカ・ルカは滅ぼした。あとは帰還の意志を持つ者の帰還のために尽力するわ」レナがさっぱりと言った。
「なにより、倒すべきものが明確ではない。それがふつうの人間だとしたら、わたしたちの力は意味を成さない」セナもあっけらかんと言った。二人は優しく微笑んでいた。
俊はわかりやすく、がっくりと頭を垂れた。俊ほどあからさまに残念がりはしなくとも、皆気持ちは同じだった。魔女を消しとばしたレナとセナの力を目の当たりにしたのだからなおさらだ。
「それにね、我々はセボのしもべ。あなた方はたった今、セボのお尋ね者でしょう」
城の様子や、囚われた者の安否や居場所がわかって、訪ねてよかったと手放しで喜びたいところだが、なんともモヤモヤの残る対面となった。夏季たちは一様にあまり明るい顔は出来ず、言葉少なくレナとセナの部屋を後にした。レナとセナは、屈託のない笑顔で、手を振って、一行を送り出した。
「あっさりと言われるときついわね」倫が言った。
「『お尋ね者』?」俊が言った。
「そしてその『お尋ね者』を憲兵に通報しないあたりが、超越しているというか……」ネレーが言った。首を微かに横に振って手を震わせる姿は、感激しているかのようだった。
「まあ、らしいと言えば、そうかもしれない……」夏季は、そんな飄々としたレナとセナが嫌いになれなかった。ひたすらにセボのために淡々と尽くす姿は、王族よりも国を想う、あるべき姿であるようにも思われた。
「誰か来る」哲が、ハッとした様子で言った。
地下牢から何者かが階段を上がってくるところだった。一行は慌てて身を隠した。角からのぞき見ると、数人の憲兵たちに、手錠をはめられたロイ・パソンが、連行されていた。彼らが歩き去ってしばらく経ってから、ようやく俊が口を開いた。
「ハリルがいないな」
「ハリルだけまだ地下牢かも」哲が言った。
「夏季、俊と一緒に王室塔に向かって。わたしたちはハリルを助けてから、ピルツの書斎に向かう」倫が言った。
夏季と俊が顔を見合わせた。
「『壷伝』の内容を確認するのはネレーとわたしがいいと思うんだけど、腕力担当が一人必要でしょう? 哲を借りるわ」
哲の保護者でもない夏季は特に異論はなかった。哲も、倫と夏季の顔を交互に見比べて、戸惑う目線を夏季に向けて、頷いて見せた。倫と俊が可笑しそうに肩を震わせていた。ネレーは、不謹慎だと言わんばかりに、口元を真一文字に結んでいた。
倫たちが地下への階段を降りていくと、夏季と俊は反対方向へ、階段を登っていった。夜明け前の城内は閑散としていた。夏季と俊は慎重に、城の回廊を進んでいった。しかし手薄の城内で、加えて大抵の人間が寝静まった夜半であり、真正面で誰かに出くわすことはあり得なかった。何度か、うろつく憲兵をやり過ごすと、やがて王室塔に、たどり着いた。
「あれ見て、パソンだわ」夏季は、ひそひそと俊に耳打ちした。
「ほんとうだ」俊も回廊の角からその一行を見た。
地下牢から連行された、手錠をかけられたロイ・パソンが王室塔に連れてこられたところだった。
夏季と俊は息を止めるようにして、彼らの足音や物音が遠のく様子を、耳だけを頼りに推し量った。
「とらわれの身のパソンがなぜ王室塔へ?」夏季は独り言のつもりが、口から言葉を発していた。
「ベラ王女に呼ばれた?」俊がとっさに答えた。
夏季は俊の回答に妙に惹かれた。違和感があった。ベラ王女が懇意にしているシエ・ラートンならば、腑に落ちる。しかし相手が老齢のロイ・パソンだ。王女とパソンに一体なんのつながりがあるのだろうか?
「別に口から出まかせだから、気にするなよ」俊は、夏季を気遣うように言った。「それに、今はパソンよりラートンだろ」
「わかってる」夏季は少々冷淡に答えた。
二人は窓から見える、月明かりに浮かび上がるシルエットを頼りに、シエ・ラートンが幽閉されていると思われる場所に目星をつけた。その扉に取り付けられた大きく頑丈な錠前が、<正解だ>と言いたげだった。
「まかせろ」
俊が手をかざした。細く勢いのある青い炎が吹き出して、錠に当てられた。みるみるうちに金属が溶け始めるが、時間はかかった。炎に照らされた俊の顔は、額から汗が噴き出している。やがて、金属の部分がほとんど溶け落ちて、周囲の木部も焼け焦げはじめたところで俊は炎を収めた。
扉が開いた。
洞穴のような暗闇から、ふらふらとラートンが歩み出てきた。そして、夏季の姿を見つけるなり、覆いかぶさるようにして抱きしめた。
「哲がいなくてよかったな」
夏季は俊の軽口に、返事をしなかった。
ラートンの全身が震えていた。