断罪の時「水路」
アレモ、イルタは自警団やユニと連携し、準備を整えた。イルタとアレモが「使い」と親しいことは周知の事実で目立つ動きはできなかった。代わりに、他のメンバーが地下水路を進むための目印を用意した。倫の提案のとおり目印は城に近い場所から順番に、明記する番号を大きくしていった。そして何度か話し合いを重ねるうちに、さらに城への方向を示す矢印も併記することに決まった。そして、ネレーのあいまいな水路の情報をもとにしたのに加えて夜な夜な重ねた調査により、おそらく工事用のために設けられた人間が入れる空間がある場所が明らかになった。
迷っても困らないようにいくらかの食料も準備して、小さめの荷物を用意した一行は、真夜中に地下に潜る手はずとなった。
出発点はようやく民家がまばらに見え始める地点で、皆で水路を覗き込んだ。腰が浸かるくらいの水かさ、その黒々とした水の中を覗き込むと、流出口と排水溝があるのがわかる。
イルタ、アレモ、ユニ、そして六季が見送りに来ていた。
「ユニさん、いろいろありがとう」夏季が言った。
「役に立ててうれしいわ。それはオスロも望んでいることだから」ユニが穏やかに言った。暗がりで、明かりも付けられず、表情は判別できないが、その言葉から感じ取られる優しさはいつもと変わらなかった。
「気をつけて」
六季が言った。こちらも細やかな心情はわからないが、神妙な面持ちが目に浮かぶ。
「しばらく会えないかもしれないね」夏季が言った。
「そうね。折を見てわたしはさっさと還るわ」
六季は、ユニの家に間借りしている間に何度か話し合いを持ち、夏季たちに先行して元の世界へ戻ることに、同意していた。夏季はそれがうれしかった。母親が、恋人の破滅を目の当たりにして自暴自棄になるのではなく、生きる道を選択したことに、安堵していた。
「その方がいい」夏季が頷いた。
「もうこれ以上あなたに迷惑をかける気はないから」六季が明るく言った。
「それ、笑えないんだけど」夏季が小さく笑った。
「夏季。あなたの好きにしなさい」六季が言った。言葉に力がこもった。
夏季は、六季の顔をじっと見た。瞳が黒く光っている。
「わかるわね。ちゃんと自分のことを考えて決めるのよ」
夏季は、こくりと頷いた。
ラートンの誘いは、誰にも話していない。しかし母親は何かを察しているのかもしれなかった。
母親と二人でたくさん会話をしておけばよかった。まさか急にこんなことになるなんて思ってもいなかったから。
夏季は急に後ろ髪を引かれるような気持ちになった。
しかし夏季は水路のほうに顔を向けた。
ゆっくりしてはいられなかった。
夏季は水路に手をかざした。水路の水はまたたくまに水かさがなくなっていった。
「行こう」
夏季が声を掛けた。
先頭の哲が排水溝の金網を外した。ぽっかりと空いた穴は少し狭いが、なんとか身体をくぐらせて、中に入っていった。
「真っ暗だ。俊、早く来てくれ」哲の声が反響して聞こえてきた。
俊が哲に続いて、身体をひねるようにして狭い穴の中に消えていった。そしてしばらく後に、穴の中から小さな光が漏れてきた。俊が炎で地下を照らしたのだろう。
「うえっ」俊の悲鳴が聞こえた。
「きれいとは言い難いな」哲がつぶやく。
ネレーが嫌そうな顔をして、ぶつぶつと文句を言いながら、後に続いた。
「……臭い」
ネレーの一声に、夏季と倫は顔を見合わせた。そして倫は頷くと、つま先から排水溝に入っていった。倫がすっかり排水溝の中に消えたのを確認してから、夏季はイルタとアレモの方に向き直った。
「ありがとう、二人とも」
「よろしく頼む。今のセボはつまらないからな」イルタが肩をすくめた。
「そうだ。なんとかしてくれよな」アレモが頭を掻いた。
「あなたたちも気をつけて」
夏季も水路に消えていった。
俊の手のひらにある小さな炎だけに照らし出された水路はおどろおどろしい。足元でパシャパシャと鳴る水面は真っ黒で、壁面の黒いぬめりは時折不潔な緑色へと変わった。ネレーはしょっちゅう自分の衣服の汚れを気にしている。
「潔癖かよ」俊がネレーを睨んだ。
「悪いことじゃないでしょう」倫が早速口を挟んだ。
「そうだ。文官たるもの身だしなみが大事であってだな」ネレーがシャツの胸元のあたりをつかみ、ビシッと伸ばした。
「ていうか、人間としてふつうのこと」倫が言った。
「汚れや臭いに構わず突き進む俺は人間じゃないって言いたいのか?」俊が苛立った様子で言った。
「文官は先頭に立つのが好きじゃない」ネレーが顎を突き出した。
「そーだ、そーだ!」倫がはやし立てた。
「慎ましいのだ」ネレーが胸を張った。
「やーい、やーい!」倫が手を叩いた。
「静かにしろよ」哲がたしなめるように言った。
「倫が二人いるみたい」夏季が言った。
「バカなのかな」哲がぼそっとつぶやいた。
「何よ。せっかく盛り上げて差し上げてるのに」倫がわざとらしく頬をふくらませた。
時折、ねずみやコウモリと思われる小動物が通り過ぎるのを除けば、誰かと遭遇するはずもなく、静かな旅路が続いた。
「調子はどう?」倫が夏季に声を掛けた。
「順調だよ。先がよく見える」
夏季は足元の水の流れに心を委ねて辿り、何十メートルか先の水路まで、さざなみを生き物のように巡らせていた。
「それでもまだ城までたどり着く感じはしない」夏季が言った。
「なるほど。工程のどのあたりまで来ているかは、作戦どおりに目印を頼りにしなければね……」倫が暗闇の先を睨んで言った。
目印は、すべての排水溝に付けられたわけではなかった。手元におおまかな地図があるとはいえ、目印を見つけるのはほぼ運任せだった。しばらく進むと、月明かりが落ちている箇所があり、ようやく一つ目の目印が垂れ下がっているのを発見した。
「七」
橙色の細長いひもには数字が書かれていた。
「最も遠い場所に『十二』を書いたはずだから、まだ道程の半分に届いていないようだわ」倫ががっかりした様子で言った。
城を中心にして、半径で区切り、おおよその位置で城に近いほど若い数字を振り分けたため、城に近づくにつれてカウントダウンされていくはずだった。
それからしばらくだれも喋らず、黙々と歩みを進めた。目印の数字によると一進一退だった。
よかれと思って書き込まれた矢印がかえって仇となった。目印に使用された細い布きれはその向きが定まらず、せっかく城への方角を示すねらいで書かれた矢印は、布きれと共にゆらゆらと揺れていた。
矢印はあてにしないほうが良いとしても、いずれにせよ数字はきれいにカウントダウンされず、「六」「七」「六」「五」「五」「六」といった具合に、水路をぐるぐると、行ったり来たりすることとなった。足元が水浸しで重かった。衣服も湿りきっており、あまり気持ちのいい感じはしなかった。やがて……
「四」
と書かれた細い布が見つかった。哲と俊は小声で歓声をあげた。倫と夏季は手を取り合って喜んだ。
「うーん」ネレーだけが、笑いもしないで、唸り声を漏らした。ところどころ水滴でにじんだ地図を、辛抱強く眺めている。
「どうしたの?」夏季が言った。
「だいぶ近いとは思うけど、どうも心もとない。いいかげん方角を定めないと、夜が明けてしまうかなと……」
「それじゃあこの辺りで、辿ってみるね」夏季はそう言って、目を閉じた。
水でできた蛇のようなものが、ザブザブと浅い水面を進んでいった。分岐の箇所では二手に分かれていく。やがて何本にも分岐して、あらゆるルートを巡っていった。その無数の枝分かれの中で、たった一本の先端が何かにぶつかり、そしてパキパキと音を立てた。
夏季は目を見開き、走り出した。
「ちょっと待ってよ!」倫が驚いて後を追った。
派手に跳ね返った水に、ネレーが顔をしかめた。俊と哲が顔を見合わせた。それから、夏季と倫を追いかけて、三人も走り出した。
俊の炎がなければ水路は暗闇だったが、夏季には進むべき方向がはっきりしていた。
夏季は肩で息をしていた。
「しばらくぶりね」落ち着いた声だった。
「カイハ」夏季はほっと息を吐いた。
灰色の頭髪と装束は、水路の暗がりの中で光りを放っているようだった。