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第二章エピローグ「夢の終わり」




 茶器を片付けていたニッキは、部屋に入って来た人物を見るなり、そそくさと出て行った。

 昇ったばかりの朝日の黄色い光が、レースのカーテンを透かして差し込んでいる。

「ご無事で」

 シエ・ラートンは短く言った。微笑んではいるが、瞳は暗い。

「シエ。あなたのことしか頭になかったわ」

 ベラ王女が顔をぱっと輝かせた。

 ラートンが書類の束を掴んだ手を突き出した。

「戦死者の数、けが人の数と重傷者、軽症者の内訳、それに破壊された家屋の数など、魔女による被害をまとめてあります」

「それがどうかしたの? 素っ気ない態度はやめて」

「どうか一度お目通しを。わたしなどのことよりもはるかに大事なことですので」

「お願いシエ、わたしの目を見て」

「まずは国民のために胸を痛めていただきたい。個人的なことについてはそれから話し合いましょう」

 ラートンは書類の束を、白い大理石で出来たコーヒーテーブルの上に置いた。そもそも王女の部屋にデスクがない。執務という意識はとうに消え去っていた。かつて王が使っていた立派なデスクはどこかに消えた。いや、そうさせてしまったのは、国の方針でもあった。

 ベラ王女は苦笑いを浮かべて、ラートンに詰め寄った。

「以前から言っているように、婚約をしましょう。いつまたこのようなことが、わたしたちの仲を引き裂く出来事があるかわからないのだから」

 沈黙した。ラートンの顔は青ざめている。絶望だった。対照的に、ベラ王女は瞳を潤ませて、すり寄る。

 わたしを愛するシエ・ラートンなら、ここで「わかりました。まずはその話をしましょう」と言うはず。

 王女の思惑は手に取るように明らかだった。


 ずいぶん押し黙ってから、ラートンがようやく口を開いた。

「実は、旅の途中ではじめて祖先の故郷を訪れまして」

「え?」

 唐突な話にベラ王女は戸惑った。

「心の奥底で欲していた想いに小さな火が灯りました。わたしはいつか滅びた故郷を再興したい、その気持ちは日に日に大きくなっています」

 ラートンは何かを憂いているように、目線を上げずに微笑んだ。

「ついて行くわ。一緒に行くわ」

 ベラはすがるように言った。

 ラートンは顔を伏せたままで、クスクスと声を漏らした。それはどこか渇いた笑いで、相手に対する慈しみは無い。

「あなたはセボの国王です。それに。そこに城はありません。あるのは遺跡だけで、屋根もほとんどない。ドレスで歩けるような場所はないのですよ」

 それを聞いたとたん、ベラの瞳から光が消えた。

「よく思われないことはわかっていますが、あなたには伝えておくべきかと思い。セボを出て行くのはまだしばらく先のことにはなりますが、そういう気持ちでいることはお伝えしておきたくて。では、失礼します」

 ラートンは笑顔を消し去り、厳しい表情で言い残した。そして二度と振り返ることはなく、軽快な足音と共に去った。

 王女のベラは、立ち尽くした。







 静養日とは別に、特別に「安息日」というものがその日に設けられていた。ふだんは休日とはいえ当直や当番が決められており許可なく城下することは許されないが、この日は一切の職務を放棄して家族の元で過ごすことを認められた特別な休日だった。

 緊張から解放されたのもつかの間、事後処理はいつまでも終わることがなく、皆疲れきっており、まだ癒えない心労を癒すためにという国のはからいだった。形式的には王女の決定ということだったが、幹部たちの全会一致で決まったことを、王女はわけもわからずに大号令で発令しただけであった。くだんの会合では、パソン議長がただ一人だけ舞踏会をやろうなどと発言したのだが、見事に賛成者は一人もなく、しまいには会議の場でバーツに諌められる始末だった。そのようなパソンの姿を見て、いよいよ彼が引退するときが近いと、皆が実感する出来事でもあった。

 この日に城に残っているのは、病棟にいる必要最低限の職員と、城以外に居場所のない者たちだけだった。

 広い床の只中には庭木の葉っぱが落ちているだけだ。もぬけの殻。まるで打ち棄てられた廃墟のように、とても静かだった。足音がひどく反響するのは神秘的でさえあった。

 二人が偶然、広間で再会したのは、ここへ来るべくして来たということだろうか。同じ場所に、同じ時間に。


 シエ・ラートンが足を踏み入れたとき、夏季はだだっ広い広間の真ん中で、こぼれ落ちる朝日の中、天窓を見上げていた。ゆったりと、夏季の近くまで歩み寄って、同じように見上げた。

 額縁のように切り取られた空にはちぎれ雲が浮かび、鳥の小さな影が出たり入ったりしていた。

「背中の具合は」ラートンが口を開いた。

「よいですよ。あなたのおかげ」夏季は、上を見たままで言った。

「それはよかった」

「隊長こそ、起き上がっていいんですか?」夏季は見上げるのをやめて、ラートンと目を合わせた。

「寝ていてもやることがなくて。ベッドを抜け出してきたんだ」

 なるほどな、と、夏季はラートンを見て思った。涼しい顔がそこにあった。胸の傷はなかなかに深いものだと思われるが、そんなことは微塵も感じさせない。

「ユニのところへ行かなかったのか?」

 ラートンが言った。

「誘われたんですけどね。なんとなく断りました。母は行きましたけど」ラートンが少し首を傾げたので、夏季は言葉を足した。「気にしないでください。いつもこういう感じなんで。わたしたち親子は」

「そういうものか」

「母が気ままなんです」夏季が小さく鼻を鳴らした。

「それはわかる気がする」ラートンが小さく頷いた。ルゴシク山で母娘のやりとりを見ているからこその即答であった。

「実は俺もユニに誘われたんだが、安静にしなといけないからと言って断った」

「安静に?」夏季が眉を上げた。

「なんとなく断りたい気分だったんだ」ラートンが言った。夏季はぷっと吹き出した。

「ずいぶん機嫌がよかった。それも当然かもしれないが。亡き夫の罪が晴れたのだから」

「ユニさんは誰彼構わず手当たり次第誘ったのでしょうか」

 おしゃべり好きのユニが話し相手に困ることはないだろうと思い、夏季は微笑んだ。

「きっと今日も『ヒムラ』はにぎやかだろうな」

 ラートンが朝日に目を細めた。その横顔は、すっと通った鼻筋が際立ち美しい。

「今日は『安息日』にならずに、ここで舞踏会でも開かれたかもしれなかっただなんて。とても信じられない」

 夏季が言った。

「今回はパソンがぐっと踏みとどまったようだ」ラートンがため息混じりに言った。「以前のあの派手な舞踏会も賛否あったからな」ラートンがぽつりと言った。

「そうなの?」夏季が顔を上げた。

「いちばん反対したのは俺だった」ラートンが夏季の方を見た。

「あの時だって大勢が亡くなったものね」夏季は苦笑いを返した。

「それよりもなによりも、嫌だったんだ。パートナーを誘うのが」ラートンは首を横に振った。

「そんな理由で?」夏季が笑った。ラートンが、自らの個人的な感情を語る姿は貴重だった。

「俺は自分勝手な人間だから」ラートンがつっけんどんに言った。

「そんなことないと思いますけど。よかったじゃないですか、思い切ってベラ王女を誘って。華やかな主役になっていたのは忘れられないですよ」

 夏季は素直に、当時思ったことを言葉にした。主役にこれ以上ふさわしいものはないといわんばかりの高尚なカップルは、忘れたくても忘れられない。

「もしもまた舞踏会があったなら。俺は君を誘っていたと思う」ラートンが下を向いてぽつりと言った。

「え?」

 夏季は聞き返したが、聞こえなかったわけではない。ただ単に、相手の言葉の意図を理解できずに、説明を求めただけだった。

「冗談でしょう。第一わたしは踊れない」

 夏季が可笑しそうにクスクスと笑った。

「知ってる」ラートンが言った。

「知ってる?」夏季はふたたび聞き返した。

 いつも聞き返す隙を与えない問答をするラートンを相手に、ここまでクエスチョンマークをなげかけることは、初めてのことだった。でも、夏季はうれしかった。会話らしい会話をしたのが、これが初めてだったからだ。質問に対して答えを返す、その当たり前の行為がかなわないほどに感じていた隔たりが、今この時にやっと取り払われたような気さえした。

「見ていたんだ。螺旋階段の上のバルコニーから。君と哲が踊るのを」

 ラートンが、広間の奥の方を指差した。階段は螺旋を描いて上に昇り、その先には装飾的な柵付きの、小さなバルコニーがある。思い返せばその階段を、ラートンとベラ王女が手を取り合ってゆっくりと下りてくるのを、皆と一緒になってうっとりと見とれたものだった。

「ひどかったでしょう、わたしたちのステップ」

 夏季が舌ベロを少し出した。

「ああ。めちゃくちゃだった。あんなものは初めて見た」

 ラートンが可笑しそうに笑った。夏季は苦々しい気持ちだったが、怒りはしなかった。それよりも、シエ・ラートンという人間は、こんな風に無邪気に笑うのだなという驚きの方が大きかった。目尻に寄った微かな皺は優しさに溢れていた。

 それからラートンは夏季の方を真っ直ぐに向いた。その穏やかな優しい微笑みは、朝日を背景に、甘く霞みがかっていた。

「それでこうも思った。もしも君を誘っていたらもっと楽しい舞踏会となっていたんだろうな、と」

 ラートンが少しはにかんで言った。夏季は今度は聞き返すことはしないで、相手の次の言葉を待った。

「確かにステップはひどいものだったけれど、君たちは本当に楽しそうだった。その場にいた誰よりもはしゃいでいた。もし君の相手が俺だったら、同じように笑い声を上げながら、底抜けに楽しい気分を味わえたのかもしれないなと」

 ラートンは、何かを思い出すように、少し上の方を見て言った。

「……あのね、ラートン隊長。実はわたしも同じことを考えていたの」

 夏季も、当時のことを思い出そうと、口のあたりに手をやった。

「もしも王女の代わりにわたしがラートン隊長と踊っていたら……」

 夏季はハッとして言葉を切った。そのことを考えた時に感じたことや、直後に起こった哲とのやりとりが、何もかも跳ね除けるような勢いで、一気に思い出された。

「俺と踊っていたら?」ラートンが興味津々な様子で聞いてくる。

「あの……その……」夏季はラートンから目線をそらした。王女の手を握り優しく微笑みかけるラートンの顔や、それから王女の腰にそっと添えられた手のことを思い出していた。

「踊ってみようか」

 今度は夏季が聞き返す間を与えず、ラートンが夏季の手を握った。そして夏季が呆気にとられているあいだにぐんと身体を引き寄せた。二人は自然と、顔が近くなりすぎないように、身体を反らせた。ラートンが夏季の腰にそっと手を置いた。夏季はビクリと身をよじらせた。

「どうかした?」

 ラートンがこともなげに言った。

 夏季は戸惑いのあまり、

「その……くすぐったくて……」

 素直に感想を述べた。

 どうかしたもなにも、あなたは一体何をしているのだ?

「気にしないで」

 ラートンがさらりと言うと、夏季の手を引いて歩みを導いた。

 二人は少しの間、ゆっくりと、誰もいない広間で舞踏を踏んだ。夏季はただラートンが促す方向についていくだけでよかった。自分でも信じられないくらい、滑らかにリズムに乗っている。夏季は思わず笑顔になった。

 夏季が喜ぶ顔を見て、ラートンも微笑んだ。

 二人はだんだんスピードを上げて、くるくると、広間に大きく円を描いた。

 夏季は夢見心地だった。ステップを踏むことがこれほど華やかで楽しいことだったなんて。

 哲と踊ったときは、ただただ気恥ずかしさで笑っていただけ。こどもの遊戯にすぎなかった。でも、今の自分は本当の楽しさに、陶酔している。

 ああ、これがあの舞踏会だったら、大勢の拍手に包まれていたのだろうか?

 あまりにテンポが上がったため、夏季がつまづいた。とっさにラートンが夏季を抱えた。しかし直後、ラートンは小さくうめき声を上げてひざを折った。

「ごめんなさい。傷がまだ癒えていないんでしょう?」

 夏季は慌ててラートンの肩に手をやった。

「いや、俺のリードが悪かったんだ。調子に乗ってしまった」

 ラートンが申し訳なさそうに、言った。

「まさか、ラートン隊長みたいな人が? 調子に乗る?」夏季が顔を伏せたままでケラケラと笑った。

 二人はしゃがみ込んで、しばらく息を整えた。長く長く息を吐いた後で、ラートンが口を開いた。

「君といると想定外のことが起きる。最初はそれが嫌でたまらなかった。俺をかき乱す君が憎たらしかった」

 ラートンは少し胸のあたりをかばってから、顔を上げた。汗ばんだ額は激しく踊ったからというよりは、おそらく怪我の痛みによるもの。それでも、彼の瞳は光に満ちていて、強い意志を感じさせた。

 夏季は気付いた。自分の胸の鼓動の激しさに。走るような速さで動いたからなのだろうか。それとも、新しい体験への、胸の高鳴り。

「でも今は違う。君といればどんどん新しいことが始まるんじゃないかとワクワクする」

 ラートンの手は夏季の腰に添えられたままだった。腰のくすぐったさは、甘いしびれに変わっていた。大きな手から感じるぬくもりが心地よく、いつまでもこのままでいたいと思わされる。

「あなたと踊ったら、どう思うかというさっきの話なんだけど」

 夏季は口を開いたが、声が震えていた。

「わたしは確か……こう思ったの」

 夏季はそう言ってからしばらく言葉が出せず、喘ぐように息を吸って、吐き出した。

「好きになってしまう……と」

 自分でもおどろくほど、かぼそくて小さな声が口から漏れた。

 夏季の唇が、ラートンの唇でふさがれた。

 すぐに二人の顔は離れ、互いの瞳を見つめあった。

「俺と一緒にトラルへ行ってくれないか?」

 ラートンが熱い眼差しで夏季の瞳を覗き込んでいた。

「祖先が滅びた土地に居を構えることは俺にとっては勇気の要る挑戦だが、隣に君がいてくれたら心強い。返事はすぐでなくてもいい。考えてみてほしい」

 夏季の瞳から涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。悲しいとか、うれしいとか、そういった気持ちはなかった。ただ胸がいっぱいなだけで何も考えられなかった。感情が溢れ出すとはこういうことなのかと、夏季はひっそり思った。

 どちらからともなく二人は再び唇を重ね合わせて、長い間、何度も何度も口付けあった。夏季の腰のあたりにあった手は背中をつたっていった。その感触は弱い電流が流れるようで、夏季は吐息をもらした。しばしの間、二人の耳に聞こえるのは互いの息遣いだけだった。







「ピルツが帰ってきたぞ!」

 憲兵が叫んだ。

 知らせは瞬く間に城中に広まった。ぼろぼろの身なりで帰還したピルツは、荒野で悪漢から命からがら逃げてきたのだと、涙ながらに伝えた。部下のネレーが昏倒させられたあの時、そばにいたピルツも襲われて、そのまま荒野まで引きずるようにしてさらわれたのだと言う。

「あの時、ネレーが……殴られてしまった……わたしが……狙われたばかりに……」

 ピルツが嗚咽混じりに訴えた。

「安心しなされ。ネレーは無事だ」憲兵がうずくまるピルツの肩に手を置き、力強く言った。

 ピルツの肩の震えが、ぴたりと止んだ。

「驚いたろう。あの頭の怪我を負って、奇跡的に助かった……喜べ、ピルツ」

 ふたたび、ピルツが肩を震わせた。はたから見れば、悲しみ、もしくは可笑しさからなのか、どちらとも捉えられた。

「そうか、そうか、無事だったか……」ピルツは地面に突っ伏したまま、地面を拳で叩いた。勢いよく顔を上げたときには、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。

「しかしだな、記憶がないようだ。襲われたときの記憶がすっぽりと抜け落ちている」

 憲兵の言葉を聞いたピルツは高笑いした。

 周囲の者たちはピルツを気遣って、一人は彼の背中をさすってやった。

「なんという強運の持ち主」ピルツは天を仰いで叫んだ。

「本当だな。ネレーはついている」

「わたしのことだよ、この間抜けどもめ」

 誰にも聞かれないくらいの小さな声で、ピルツは自分の手の中につぶやいた。その目はらんらんとしていた。







 嗚咽と悲鳴。

 止まらない涙。

 すべてのものに対する湧き上がる憎しみに悶える。

 部屋中のあらゆるものを壁や床に叩きつけた。

 破片だらけの床を裸足で歩き、足の裏は傷だらけで血が滲んでいた。

「国に平和が訪れても……シエの心は戻らないばかりか」

「奪われてしまった!!」

「返せ……わたしのシエを……返せ!!」

 顔を上げたベラは呆然と部屋を見渡した。

 シエ・ラートンが部屋を去ってから、ずっと、手当たり次第に投げつけ続けた。ようやく訪れた静寂だった。

 侍女たちは王女自身が発令した『安息日』にのっとって城に残っていない。侍女たちの長であり、付き人であるニッキだけは城に残っているはずだが、王女がどんな物音を立てても王室に近づいてくる気配はなかった。

 大小様々な壊れたものの中で大きな壺が目を引いた。

 土色で野暮ったい文様の入ったその壺は王女の好みのものとは言えなかった。それなのに、壺を覗きこみたい衝動に駆られて近づいて行った。





第二章 完

第三章へ続く




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