黒い鏡
舞台側の出入り口には巨躯の剣士がただならぬ形相で立っている。
ならば、切り裂かれてぽっかりと穴の開いた「出口」へ向かうべきだが、そちらには尋常ならざる状態で打ち倒れている見知らぬ男が倒れている。
どちらの男の肉体からも、近付きがたい不穏な空気が立ち上っている。
何が起きているのか、あるいは何が起きようとしているのか、シルヴィーにはまるきり理解できないし、予想もしようがない。
だが彼女にも、自分の力の及ばない「恐ろしいこと」が起きているらしいことは、感じ取ることができた。
シルヴィーも感覚が鋭敏に過ぎた。それは一流の表現家には必要な感性ではあるが、今この場ではむしろ邪魔となっている。
『前にも後ろにも動けない。入り口も出口もふさがれている』
シルヴィーは思い詰めてしまった。胸の前で祈るような形で手を組み、首を振る。
正体のわからない恐怖に押し潰された彼女の心は、手足を動かすことを拒否していた。
瞼を閉じた。押し出されるように、涙がこぼれ落ちた。
その儚げな美しさに、同性であるクレールが、一瞬心奪われた。
その一瞬がなければ、彼女は捕らわれる前に、あるいは迎撃ができたやも知れない。ほんの一息、瞬き一つの間が、彼女の直感を鈍らせた。
イーヴァンが悲鳴を上げた。
煉獄の業火に炙られる亡者が、怨嗟と痛悔とをない交ぜにして泣きして叫んでいるかのような彼の声を、文字に起こすことは不可能だ。
驚いて視線を戻したクレールの目に、腕の形をした物体が映った。
カップの底に溶け残ったショコラに血を混ぜたような、深いな赤黒い色の表面には、ぬるりとした光沢がある。
腕はイーヴァンの身体から出ていた。
肩からではない。背中だ。衣服を突き破って生えている。
腕は、真っ直ぐにクレールに向かって伸びた。
これは比喩ではない。文字通りに伸びたのだ。
関節であるとか、筋肉であるとか、腱であるとか、そういう形のあるものでできている当たり前の「人間の腕」にはあり得ない動きをした。
かわしきれなかった。腕はクレールの胴から肩、そして首にかけて巻き付き、彼女の身体を締め上げた。
掌の形をした突端が、彼女の後頭部をつかみ、覆う。
クレールの頭は押さえつけられ、イーヴァンの背に覆い被さる形に引き寄せられた。
彼の背中は磨かれた石の表面そのものだった。質の悪い赤鉄鉱の鏡面には、無数の脈を打つ赤い筋が条痕さながらに浮かび上がっている。
クレールの顔面は、イーヴァンの背中から拳一つほどの高さで止まっている。暗い鏡面の赤く粗い網目の中に、彼女の顔が写り込んでいた。