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胃の内容物

 イーヴァンの肩が大きく揺れた。

 大柄な若者の背は、吹き出した汗でぐっしょりと濡れている。

 彼は口を利けなくなっていた。

 目が(かす)んでいる。意識が揺れている。


 原因は腿の傷ではない。背に突きつけられた「鞘の残骸」への恐怖でもない。


 胃の()が熱い。


 クレールが発した「赤い石」という言葉を聞いた途端、イーヴァンの胃の中で何かが燃え上がった。


 形のないどろりとした存在が、胃壁を焼いて渦巻いているように思えた。

 やがてその何かは胃袋の中で一点に固まり、形を成し、重さを帯びた。

 異物が腹の中で暴れている。


 猛烈な吐き気に襲われたイーヴァンは、前のめりに倒れ込んだ。

 床に両手を突いて()いつくばり、喉の奥で気味の悪い音を立てる。

 ()えた液体が床を汚して広がった。

 (おう)()(ぶつ)の中に、形のある物はない。

 イーヴァンはなおも腹の中の物を戻し出そうと喉を絞った。

 出てきたのは、血の混じった粘液だけだ。

 力の失せた両腕は彼の上体を支えきれず、彼は己の吐瀉物(としゃぶつ)の水たまりに顔面から崩れ落ちた。


 腹の中で暴れていた「痛み」が、背中側へ動いた。

 それは刃物で斬られる鋭い痛みとは違う。鈍器で殴られる激しい痛みとも違う。

 重い固まりで押し潰され、無理矢理に引き裂かれる、そんな鈍く苦しい痛みだ。

 何かが骨を突き通って、肉を突き破って、背中に突き抜けてゆく気がする。


「たす、けて」


 イーヴァンは(あえ)ぎの中に消え入りそうな悲鳴を上げた。

 彼の身体は小刻みに、不自然に震えていた。

 恐怖ゆえの(せん)(どう)と、痛みと苦しみが起こす(けい)(れん)、そしてそれらとは別の不可解な振動が、彼の身体を揺さぶっている。


 クレールは身構えた。


『この若者の腹の中に「何か」がいる』


 魂のない、心のない、歪んだ遺志(いし)のみで(うごめ)く「物」がいる。


 イーヴァンとその中にいる「物」に神経を注ぎつつ、彼女は視線をブライト・ソードマンに向けた。


 彼も身構えていた。イーヴァンに対する備えではない。

 舞台に向かう出入り口の近くに立ち、(めい)(もく)し、耳を壁に付け、伝わってくるかすかな音を聞いている。

 機材が置かれた細い通路の先、踊り子達と生意気な戯作者がいるはずの空間からは、今のところ「異常な音」は伝わってこない。

 だが、何かが起こる気配がする。その予感が、ブライトをその場に縛り付けていた。


『こちらへの助太刀は、期待できない』


 覚ったクレールは視線を床に落とした。

 小柄なダンサーが床にぺたりと座り込んでいる。紅を引いた唇が小刻みに震え、奥歯が小さく鳴っていた。

 恐怖に濡れるシルヴィーの瞳がクレールのそれに(すがり)りついた。


「ここから離れなさい。できるだけ遠くへ」


 クレールは静かに、厳しく言う。

 しかしシルヴィーは動こうとしなかった。

 動けなかった。


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