尊敬すべき母親
ジオ一世という皇帝陛下は、短気で短絡的という、支配者には不向きな性格だったのだ。
しかしその事実を口に出して言う訳には行かない。
クレールの歯切れの悪い口ぶりは、むしろブライトに彼女の本心を良く伝えるものとなった。
彼も言葉を選び、声を潜めて言う。
「両方の言い分を聞く前に領地の没収やら爵位の剥奪やらを決めたのは、確かに『その人』の落ち度だがね」
「それで母は、ハーン家にとっては良くない物語だと怒って……」
「それもそうだが、敵討ちの標的にされた方の登場人物の描かれ方のほうが、むしろ癪に障ったんだろうよ。……ジオ一世のお気に入りの役人学者の、さ」
ブライトはわざわざ遠回しに言った。クレールの顔に浮かんだ疑問符は消えない。
『こりゃ今朝の夢見は相当に悪いモンだったらしいな。いつも以上に勘働きが悪い』
彼は櫛目の通っていない鳥の巣のような後頭部をゴリゴリと掻きながら
「そいつは名をギルベルトって言ってな。で、名字はギュネイだ。今のお偉いサンの三代前のご先祖だよ。お前さんのお袋さんにとっちゃ……そう、血はつながってないが、大叔父、つまり義理の爺さんの兄弟にあたる」
足りなかった言葉を補った。
彼の言葉を理解した途端、エル・クレールの瞳からキラキラとした光が消え失せた。
「母は、自分がギュネイの血族であることを重んじていましたから」
ブライトの呆れの対象は、目の前にいる男のなりをした元公女から、その母親に移った。
「その人は、後妻の連れ子だったろうに」
深く考えもせずに言ったその直後、彼は黙り込んだエルの瞳に、別の輝く物を見付けた。
涙だった。
こぼれ落ちる寸前の量で、蓮の葉の上で転がる露のようにふるふると震えている。
ブライトは少々あわてて、しかし吐き捨てるように言った。
「この場合は褒め言葉だぜ。何しろ、あの一族の小汚ぇ血が流れてねぇってことだからな」
「そこまであの家を嫌わずともよいでしょうに」
目頭を軽く押さえ、エル・クレールは無理矢理に苦笑して見せた。
「名家の苗字を背負わされるのは、それだけで大変な重責なのです。だから母は……むしろ血が繋がっていないからこそ、ギュネイの名を重んじなければならなかった」
エル・クレールの脳裏に、なぜか一枚の肖像画が浮かんだ。
愛らしい、しかし大人びた少女の像だ。
それはジオ三世に嫁ぐ四年前に描かれたという、母・ヒルダの姿だった。
かつて娘は、『いずれ自身もこのように成るのだ』と信じていた。
だが夢見るお姫様は、一二歳の時に絶望した。
額縁の中に封印された過去の母は、華奢な肩の下に丸いふくよかな胸を持っている。
しかし「過去の母」と同じ年齢になったクレール姫は、少年のように痩せていた。
この瞬間、母はエル・クレール……いや、クレール姫にとって信仰対象となった。
理性的で、知性的で、夫を立てる良妻で、子を慈しむ賢母で、何より美しい……一番近くにいて、一番自分から遠い存在――。