戦略
「朝から続けてに三遍も四遍も幕が上がることもしょっちゅうですから。これからすぐにと言われたとしても……今日はすこし間が詰まっていますけれど……それでも、これくらいのことは何でもありません」
鈴が鳴るような愛らしい声の主は、無論、マイヨールでもブライトでもない。
歩みながら振り返ったクレールの視線の先で、ゆったりとした白い衣裳をまとった踊り子が、上気した顔をこちらに向けていた。
「……君は、たしかシルヴィーといったね」
クレールは足を止めずに、踊り子に声を掛けた。
もとより熱を帯びていた頬を更に赤く染め、彼女は
「はい、若様」
さも嬉しげに返答し、つま先立ちで駆け寄った。
「若様に名前を覚えていただけたなんて……嬉しゅうございます」
「あれほどすばらしい舞いを見せてもらったのだから、演技者の名前を忘れることなどできようもない。
私はできることなら君と直接話をしたいと思っていたのだよ」
クレールはいかにも貴族の若者らしい口調を作って言う。
紅潮を耳先にまで広げたシルヴィーは、宙に浮くよに歩きながら、裳裾を抓んで頭を下げた。
事実、クレールはシルヴィーと話をしたいと考えていた。
彼女が演じている「男になりきっている女」について、彼女自身はどう思うているのか、直に訊ねてみたかった。
「わたしも、若様とお話ししたくて。お聞きしたいことがたくさんあるんです」
黒目がちな目を少しばかり潤ませたシルヴィーだったが、
「お喋りは後回しだ。今は若様方を案内するのが先なんだ」
マイヨールの強い語気に押され、黙り込んだ。
楽屋は練り白粉と汗と埃の臭気が充満している。
通し稽古が開幕する直前までたむろしていた劇団員達が、全員出払っているためであろうか。クレールには最初にに来た時よりも静かなその場所に、うら寂しさを覚えた。
片隅に、ことさら整頓されている空間があった。柔らかそうな「なにか」に大きな布をかぶせてソファの形に調えたものが据えられている。
客人にはそこに座ってほしい、という意図を見て取ったブライトが、マイヨールに促される前にどっかりと座り、
「逃げるのはまだしも、こそこそ隠れるってのは性に合わないンだがね」
自分の隣の「空間」を叩いて示し、クレールを呼んだ。
中に何が包まれているのか知れた物でない。クレールは座面の柔らかさを確認しつつ座り、
「敵前逃亡は何より『お嫌い』なのだと思っていましたが?」
小声で訊いた。
「姫若、撤退ってのは戦略のうちですぜ」
「隠忍するのも戦略の一つでは?」
「隠れる場所が問題でさぁね」
ちらりとマイヨールを見やる。
「今はこれが精一杯、というヤツです」
すまなそうに苦笑いしていた。