予定外
「つまり、予定よりお早くグラーヴ卿がいらしたと?」
クレールが静かに訊ねると、マイヨールの首がカクカクと小刻みに動いた。
「うちの座長がね……ああ、若様方はあの禿をご存じないでしょうけれども、一応そういう肩書きのがいるんですよ。座長ってのが仇名にしか聞こえないようなどうしようもない座長がね」
「そういやぁ、勅使がフレイドマルってぇ言ってたな。それが座長って仇名の男の名というわけか」
己一人で納得するブライトを、憎らしさに感嘆を込めて睨み付けたい衝動をマイヨールは堪えた。
「旦那、あんた本当にただ者じゃないね。あの酒場でポロリと漏らしたたった一言の事をよく憶えていてくださった。
でもそんな名前は忘れてくださっても構わない。あの野郎なんざ禿で十分だ。いや、それでももったいない。これからは馬鹿助と呼んでくれる。
ああ、先代は旦那さまも奥方さまもすばらしい人だったのに、どうしてあんなのが出来ちまったんだろう」
劇作家は歯ぎしりし、床を激しく幾度も踏み付けた。そこに座長の顔が浮かんで見えたらしい。
国を興した英雄の衣裳を着込んだ男が、である。
滑稽だった。
笑いを押し殺しブライトが
「その馬鹿助殿が、あんたの腹づもりよりずいぶん早く、ヨハネス・グラーヴ殿を連れて来ちまった……か?」
水を向けると、マイヨールはまた小刻みに頷いた。
「日暮れまで引き留めとくって算段だったんですよ、本当はね。ああ、それをあいつに頼んだ私も莫迦だった。
あの馬鹿助ときたら、酒瓶抱えてあちら様のお宿へ行ったんですよ。それもしみったれたヤツをですよ。こんな辺鄙な田舎の安酒で、仮にも都のお貴族様を接待しようってのがそもそも間違ってますでよ。
ああいった人たちは、美味い物の味はよく知っていらっしゃるから。
中には『銘柄』が良ければ中身がお酢でも気分良く酔っぱらえるお方もいらっしゃいますけども……。
そいつは兎も角。
たとい酒が不味くったって、話がおもしろけりゃ聞いてやろうと思っていただけたでしょうけれど、なにしろ出かけたのがあの学のない迂闊者の馬鹿助ですからね。
起こりうる最悪の結果は想像できたんですけどね……。
さりとて私が稽古をおっ放り出して、お屋敷に行くわけにもゆかず」
胸に溜まっていた事を一息に吐き出して、漸く、マイヨールは少しばかり気楽になったらしい。
「全くこちらの手落ちです。若様には本当に申し訳もありません」
ぺこりと下げた頭が持ち上がったときには、力なくではあるが、面に笑みが浮かんでいた。
「で、どう落とし前をつけてくれるってンだ?
うちの姫若さまは、自分だって貴族の端くれだっていうのに『オ貴族サマ』が大のお嫌いでね。できれば勅使殿の隣にゃ座りたくないって仰せなンだがね」
からかい気味に言うブライトの言葉は、おそらく彼自身の本音でもあろうが、クレールの本心も代弁してくれていた。
『どうにもあの方は苦手だ。どことなく緩く生温い物言いが、皮膚にまとわりつくようで心持ちが悪い。あれが都の気風であるならば……私は帝都に生まれなくて良かった』
小さく息を吐いた。彼女にとって、それはは安堵の息だったが、マイヨールは彼に対する不満の現れと取った。
『なんてことだ、禿馬鹿の所為で若様のご機嫌を損ねちまうとは! ああ、勅使と鉢合わせしないように、すぐさま外へ案内すれば、これ以上ご不興を買うようなことはないだろうが』
マイヨールはずぶ濡れの犬がするように総身をふるわせた。