即決帝ジオ一世
彼は私物の木の匙を握った手を小さく上から下へ振り、声音を落とせという仕草をしてみせた。
エル・クレールは素直にうなづいた。声の大きさは変えられても目の輝きは消せない。
「私がまだ幼かった頃のことですが、母が旅回りの劇団の演目にずいぶんと不満を漏らしていたことが、ずっと腑に落ちなかったのです。
大昔の良くない官僚に自決を強いられた地方領主の仇を家臣が討つという忠義な物語の、どこが気に入らないのだろうと」
そう言って、晴れ晴れとした笑顔をブライトに向けた。その晴れ晴れしさ加減が、益々彼を困惑させる。大げさに頭を抱え込む仕草をして見せた。
「元ネタが悪すぎる。お前さんのお袋なら、確かに怒るだろうさ」
「そうなのですか? あなたに説明して頂いたので、本当は大帝の時代の話ではなく、ハーンの頃の実話を元にしているのではあろうと想像できますけれど、母が腹を立てる理由が今ひとつわかりません」
笑顔の上に、うっすらとあどけない疑問の色が広がっている。
ブライトは頭を掻いて、口の中で『今でもまだ十分幼い』とつぶやいた。
やがて指を折って何かを数えた後、彼は小さく、声を出した。
「海の向こうからお姫様が輿入れするってぇその日に、宮殿の隅っこで二人の貴族が喧嘩騒ぎを起こした。そう今から大凡五十年前。ハーン帝国ジオ一世皇帝の御代さね」
「曾祖父の……」
エル・クレールは言いかけて口を塞ぎ、辺りを見回した。
エル・クレール・ノアールと名乗っているこの男装した娘の真実の名は、クレール・イールダベール・デュ・ハーン・ド・パンセス・ミッド――ミッド公国ハーン家公女クレール・イールダベール――という。
ミッド大公ジオ・エル・デュ・ハーン、通称ジオ三世の、唯一生き残った末娘だ。
クレール姫はジオ一世の直系ではない。
嗣子に恵まれなかった一世は自分の従姉妹の子を養嗣子とし、ジオ二世を名乗らせた。二世は子宝に恵まれ、三世が生まれ、御位を継いだ。
そのジオ三世がハーン帝国のラストエンペラーであり、今はエル・クレールを仮称しているこの娘の父親である。
ハーン帝室はすでにこの世にない。
国家としても、そしてその血筋そのものも、末裔の封じられたミッド公国が「火山噴火によって滅亡」したのと同時にこの大地から消え果てた……ことになっている。
エル・クレールは自身で我が身を「死んだはずの最後の公女」、あるいは「世が世なら皇太子たる皇女」であると口を滑らせそうになったことに気づいて、狼狽した。
彼女にとって運の良いことに、周囲の客達は皆、祭り前夜の浮ついた盛り上がりの空気に酔ってた。興奮している彼らの耳には、見知らぬ客の小さな声など入りようもない様子だった。
「ジオ一世陛下は随分と……つまり『気の早いお方』だったと聞いておりますけれど」
彼女は声を落とし、慎重に言葉を選んだ。
彼女の言うとおり、ジオ一世という皇帝は何事にも「素早い決断」を第一に重んじる性質だった。
素早い決断は正しい決断力から下されたものであれば何も問題は起こらない。むしろ即断即決は歓迎されることの方が多い。
しかし彼の皇帝の決断を臣民はあまり歓迎していなかった。
十の決断の内、七つか八つは「重大な問題」を引き起こした。その尻拭いは誰かが命がけしなければならなかったのだから――。