戦乙女クラリス
もし今、他に観客がいたとして、カーテンから出た白いドレスを着た腕の、花冠を掴んでいた手指が、赤銅色に日焼けしていたことに、大半の者たちは気付かないに違いない。塔の中にいるのは絶世の美女である、と、誰もが思い込んでいるのだ。
人間は、見たい物を見る生き物だ。見知らぬものを、見知っているものにすり寄せて判断する聞き物だ。
だから、そうでない僅かな者たち……この演目を一度も見たことが亡いか、性格がひねくれているか、粗探しを好む者か、よほどの好事家か……の脳裏には、強烈な印象として焼き付くこととなる。
しかしその僅かな者たちも、この劇団が演目として「戦乙女クラリス」を掲げているくらいだから、
「国母クラリスを強く逞しい女性として描くための演出だろう」
と考えるに違いあるまい。
この演出の更に向こうに何かが隠匿されていると気付く者、そこまで考えが及ぶ者は、恐ろしく少ないだろう。
「最高に可笑しい真っ黒な喜劇じゃねぇか。
あの野郎、判らない奴らを小馬鹿にして、判ったヤツのことは嘲笑っていやがる。
チビ助め、このネタを古びてきたから捨てるなんてもったいないことを抜かしやがったが、命のある限り演り続けるべきだ。
……ま、このままじゃ明日の朝にゃ命が尽きてるかも知れンがな」
ブライトの忍び笑いを聞きながら、クレールは自分の腕を見つめていた。
元々は色の白い方だが、旅の空の下で日に晒される袖口から先は、小麦の色に日焼けしている。
「男の振りをする……男でありたかった女……」
無意識のつぶやきが、ブライトの嘲笑を止めた。
膝の上の皮紙束をくり捲るクレールは、目を針の如く細めて紙面を睨み付けていた。
ブライトは背筋を起こし、まじまじとその横顔を見つめた。
彼は「何を探しているのか?」と訊ねるつもりで口を開きかけたが、止めた。彼女が漏らしたつぶやきが、すでに答えとなっている。
「理由を……なぜあの方が男として振るまうことを決心なさったのか、その理由を」
メモに残る走り書きの文字は、書いた人物が「己が判ればよい」という心づもりでしたためたものだ。
他人への伝達を一切考慮していない「インクの染み」は、それそのものが第三者である読み手に対する拒絶の宣言だった。
しかも、この場所の暗さやインクの色の薄さを味方に付けている。彼女が求めているような記述は、どれほど注意を払っても見つからない。
あきらめきれず、幾度もページを捲り直す彼女の手を、ブライトは押さえた。
「大凡は、お前さんと同じだろうよ」
クレールの唇から小さなため息が漏れた。
「男の衣服は、軽く息苦しくなく……戦いやすい」
女物の、特に貴族が着るような豪奢なドレスは、幾枚も布を重ね合わせてふくらみを持たせ、金属や宝石を縫いつけて飾り立てたりするものだから、酷く重い。
重量を支えるため、そして「ドレスを美しく見せる」ため、着る者の体は紐や金具で締め付けられることとなり、それにより呼吸の自由は制限される。
襞のたっぷりとられたペチコートは歩行を困難にさせるし、首回りを飾るレースは視線を妨げて視野を狭くする。
広がった裾や袖は身じろぎするだけで手足にまとわりつき、敵の手をはねのけることすら困難だ。
ドレスは、着る者に自分で自分を守ることを許さない、一種の拘束具だ。それを身につけた人間は、否が応でも自分の命を他人に預けねばならない。