存在しない人物
ブライトが言った「皇后の名前に関する記述」の部分は、師の持つ写本では「注釈である」旨の注記はいなかった。しかし、他の部分の文字よりは小さめに書かれていた気が、おぼろげにする。
瞬きを二,三度する間に意識を今に引き戻したクレールは、ブライトの横顔に眼差しを注いだ。
「それからさらに三百年も経っちまった。件の注釈の引用元の『ガップの古書』ってヤツは、きれいさっぱり散逸したってことになっている。
初代皇帝の后だの、二代皇帝を産んだ国母だのとあがめられている女の名前がそこに間違いなく書いてあったのか、あったとして、その女の名がクラリスだったのか、今となっては解りゃしない、と」
ブライトのこめかみあたりが、ひくりと痙攣した。
頭痛がしている。それでも口元には薄い笑みが浮かんだ。妙におもしろい気分だった。
「フレキ叔父は散逸した古書と思わしきものを、ご領地で見いだされた。
あるいはそれは書物の体をなしていない口伝であったかも知れませんが……。
兎も角、そこにはクラリスという女性の名があった、ということですね」
クレールが口に出したのは、考え至った事柄の半分程度だった。残りの、核心に当たる部分を言葉として発することは憚られる。
自分の先祖達から聞き伝えられた自分の先祖の伝を、根底から覆すようなことを、その末の身が口に出して言えるものか。
国を興した英雄の性別が、伝わる物とは違っていた……いや、それならばまだ良い。
遙か昔、女性が帝位を認められていなかった頃の詭弁の名残だと思えば、どうにか理が通る。
クレールは別の可能性を見いだしてしまった。そして、義理の叔父も自分と同じことを考えていたのではないかと思い至った。
初代皇帝「ノアール=ハーン」は、存在しなかった、と。
彼女の唇は堪えきれずに小さく震えた。
「だからその尊称を消して、あの名を書いた」
かすかな声を己の耳に聞き取ったクレール……いやハーン家のクレール姫は、わななく掌で口元を覆った。上目遣いに男の顔色をうかがう。
「そこまで飛躍するかね?」
ブライトの肩が小さく上下した。忍び笑いの口角に浮かんだ歪みはには、邪悪な色すら浮かんでいる。クレールは彼が自分に向けた笑顔の中にこれほどの邪意を見いだしたことはかつて無かった。
確信した。彼も同じことを考えているのだ。
独裁者と戦うために立ち上がった英雄はいない。
捕らわれの姫を助けた白馬の騎士はいない。
国の礎を築いた理想的な為政家はいない。
ハーン家の始祖はいない。
動悸が激しくなった。眩暈がする。大きく息を吸い込もうとした。肺腑は意に反して小刻みな荒い呼吸を繰り返す。
「それほどに畏れることか?」
低く抑えられたブライトの声は、疑念と不審と不安に満ち、少しばかりの嘲笑を帯びている。
「私にとっては、そこが源流なのです。私の先祖が……私に繋がる流れの最初の一点が……無いと言われては……私は塞き止められた淀みと同じです。本流もこれから行く先も判らない」
クレールの声が細かく震えていた。