舞台の上へ
「しかし、私どもの演技を若様に観ていただけるというのは、実に幸運なことでございますよ。
いつかは若様や……それからソードマンの旦那のような、ちゃんとしたお方に――そいつはもう少し上! きっちりはめ込んで、ぐらつかないように。
――つまりは本当の貴族の方が、私あたしの劇を観てどうお感じになるか、確認したいと思っていたんですから。いえ、さっきも申し上げましたけれど――マエストロ! そこはちょいとおとなしめの音にしておくれ。
――ウチみたいな小さな一座なんぞには、本物の高貴な方がお見えになることがないですからね。――さっさと位置に付け! お前達が何を言おうと、あと百を三つ数えたら幕を上げる!
――常々、『解る』方に一遍観ていただきたいって、適わぬ願いと知りつつも……」
四方八方、上下左右、様々な方向に視線と言葉を投げながら、彼は客席のど真ん中に歩を進め、貧相な椅子を二つ客人に勧めた。そのうち一つの座面に恭しくハンカチを掛ける。
ハンカチの上に腰を下ろしたクレールは、
「私があなたのお役に立てるとは限りません。私はこれとお芝居とを見比べるだけですから」
腕に抱えていた皮紙の束を膝の上に広げた。
「承知しております」
マイヨールは頭を掻いた。ちらりとブライトに目を遣ると、大柄な男は組んだ足の膝に肘をついた窮屈そうな前屈みの姿勢で、舞台に目を注いでいる。
彼らの目つきは真剣だった。舞台の隅から隅までしつこく突いて細かな粗までほじり出すつもりでいることが、マイヨールにはよくわかった。
彼が背筋を伸ばし、襟を正すのを横目で見たブライトが、小さく言う。
「俺たちのことはいないもンだと思って、あんたらが演りたいように演るこった。俺たちは芝居に口出ししたり止めたりするような野暮はしない。芝居が動いている間は、あんたに意見することもない」
「ご意見をいただけない?」
「言うだけ無駄だからな。どの道あんたらはあんたらの思う芝居しか演らないし、演れない。ここの踊り子たちはあんたの芝居以外は、逆立ちしても演れないようになっちまってる」
「お見通しですか」
マイヨールは中身を抜かれた皮袋のようにイスの上にへたり込んだ。落胆のあまり力が抜けたのは事実であるが、大仰な動作は九割方演技だった。つまり、それだけ自信という名の余力があるということに他ならない。
その証拠に、彼はすぐさますぅっと立ち上がった。
「私あたしはこれからあちら側の世界に参ります」
声は小さいが、張りがあった。目にも光が差している。マイヨールはニタリと笑うと、
「あちらの世界はこちらの声の届かない場所。ソードマンの旦那のご意見も、若様のお声も私あたしの耳には入らない。ええ、聞こえませんとも、聞きませんとも」
両の耳に両の人差し指を差し入れた。
そのまま深々とお辞儀をし、頭を下げた格好で後方に小走りに走りだす。イスを器用に避け、舞台の二歩手前までたどり着くと、ポンと床を蹴った。ふわりと浮いた彼の体は、舞台の上に音もなく降り立った。
つま先立ちの着地だった。ぴいんと背筋を伸ばしている。足下が暗いものだから、床から拳二つ分ほど浮かんでいるようにも思えた。
所作の総てが見えぬ糸で吊られた操り人形を思わせた。スムーズだが違和感のある、可笑しくも哀れな動作だった。操り手が彼自身であることすらも哀れを誘う。
舞台の端々に見え隠れしていた裏方の影が綺麗さっぱりなくなっていた。
袖から漏れていた神経質なざわめきもぴたりと止む。
管楽器も弦楽器も黙り込んだ。
重苦しい沈黙の奥で、僅かに衣擦れの音がする。
緞帳幕だった。
現実と虚構の境目を、それがゆっくりと塞いでゆく。
戯作者マイヨールは消えた。
舞台の上に身を置いた今、彼は小劇団の看板役者に変じたのだ。