号音ラッパ
だが、口を塞いだところで出してしまった声は、止まるわけでも戻るわけでもない。
『全く今日の私あたし ときたら調子が外れっぱなしだ』
口を押さえ塞いだまま、上目でそっと「輝ける・剣士」を見た。目玉がからからに乾いてゆく気がして、何度も瞬きをする。
ブライトは無言のまま彼を見据えている。
マイヨールの目には、彼がかすかに笑っているように見えた。その微笑が何を意味するのかまでは解らない。彼が腕を組み直し、あるいは僅かに足の位置を変える、その小さな動きが妙に恐ろしい。
あの腕が己の喉元を狙って伸びてくるのではなかろうか、あの脚がこちらの足下を救うのではなかろうか。
枯れた生唾を飲み込む彼の耳に、柔らかな声が流れ込んだ。
「良い名前でしょう?」
クレールが笑んでいる。マイヤー・マイヨールには、その美しさを表すのに「嫣然」の他に言葉が見つからなかった。
途端、マイヨールは自身の全身を膜のように覆っていた脂汗が、僅かに残っていた自覚や自制と一緒にすぅっと流れ落ちてゆくのを感じた。それは彼の総身から別の汗が吹き出したためであるが、彼自身はそのことを気にとめなかった。
「ええ、全くその通りで」
マイヨールの脳味噌は暴力への恐怖から解放されたという爽快な快楽を全身に感じさせることに専念していた。別の束縛によって雁字搦めに縛り上げたことを伝えるという重要な役目は、完全に放棄されている。
美の俘虜に打たれる縄目は、他の何よりも厳しく強固で厄介であるのにもかかわらず――。
マイヨールの浮ついた心は、しかしすぐに現実に引き戻された。
功労者は楽団溜まりの隅にいた大号奏者だ。
鼓膜を突き破る大音響を発生させた彼は苦笑しつつ、「巧く音が出ないので強く吹いた」とか「唄口に何かが詰まっていた」とか「吹いた勢いでゴミが取れた」とか「詰まりが取れた途端に音が出た」などと弁明していた。
楽団溜まりの真ん中で指揮者が肩をふるわせている。どうやら彼の指示による「音あわせの一環」だったらしい。すなわち、舞い上がっていた劇作家の魂を還俗させるための手段としての、である。
マイヨールは苦々しげに大号を睨み付けた。憤慨したまま振り向いた彼だったが、「クレールの若様」と「ソードマンの旦那」が失笑しているさまを見つけ、気恥ずかしげに笑った。
「田舎者でしてね」
「いい喇叭吹きを抱えているじゃねぇか。惜しむらくは力量に見合った楽器を与えられていねぇ」
ニタリと笑うブライトに、マイヨールは
「勅使サマ方を招いてのゲネプロが無事に済んだら、ご褒美を考えないといけませんや」
慇懃に頭を下げた。
「そいつはお前らの力量次第だろうよ。まずはウチの姫若さまを納得させてみることだ」
「それが一番ホネかもしれませんねぇ」
マイヨールの苦笑いが一層大きくなった。
楽団溜まりからバラバラな音が上がり、舞台の裏側から言葉としては聞き取れないざわめきが漏れてくる。大道具小道具の係達が立てる玄翁の音はいくらか小さくなったが、それでも時折不規則なリズムを刻んだ。
五人しかいない楽団の音合わせ、緊張を紛らわすための踊り子達のつぶやき、背景の書き割りを運ぶ男達の足音、マイヨールは歩きながらそれらの音を全部聞き分けている。
彼はスタッフ達に的確な指示を出さねばならなかった。同時に、客人を席に案内する作業も行わないといけない。
マイヨールはゆっくり歩き出すと、クレールとブライトを手招きした。