乱されたペース
マイヨールは頬を笑顔の形に引きつらせ、
「と、言うことは、つまり旦那のことは、ブライトの旦那とでもお呼びすれば……」
そのあとに続いた「宜しいので?」という言葉が口に出されるよりも前に、ブライトは、
「呼ぶな」
鋭く釘を差し込んだ。
「俺のことをその名で呼んで良いのはウチの姫若さまだけだ。
テメェのような三文物書きなんぞに呼ばれたら、折角の名前の価値がすり減る」
マイヨールは身を縮め半歩後ずさりしたが、首だけはむしろ前に突き出すようにして
「ではどの様に?」
食い下がる。
マイヨールは言いたいことは言わずにおけない質だった。ただし、大上段に切り出さない。脇から、斜めから、そっと訊ねるという面倒な言いようをする癖がある。
遠回しな物言いは物書きらしい一種の「卑屈さ」ゆえの事でもあるが、彼にとっては他人と衝突しないための工夫でもあった。
マイヤー・マイヨールは低い物腰と耳当たりの良い言葉で相手を懐柔し、翻弄する。そうやって相手の気付かぬうちに、自分の有利に話を進めてしまうことで世を渡ってきた。
万一、その遣り口が通用しない相手に出会えば、一目散に逃げるだけのことだ。大道具小道具機材の総てを捨てることも厭わない。
そんな物はいくらでも作ることができる。だが命というヤツは一つしかないのだ。それを失わないためにも、恥も外聞も切り捨てて、尻をまくって遁走する。
そして役人やら土地の顔役やらの手の届かない遠く遠くへ逃げ延びて、息を潜める。何ヶ月か地下に潜って暮らすのもいい。そのために幾許か――団長にも団員にも秘密の――金銭と人脈との「蓄え」を作ってある。
時を待って、ほとぼりが冷めた頃合いに、また旗揚げすればよい。それでも不都合があるなら、氏素性を偽って別の人間を演じればよかろう。
話術も逃げ足も、そして何より演技力にも自信がある。現に、今もこうして首がつながっているじゃないか。
これが、怪しげな旗印や規範を外れた演目を掲げた旅一座をここまで無事に続けてこられたという事実に基づいた、マイヤーの自負である。
その策が通じず、逃げ切ることもできぬ相手がこの世にいるのだということを、彼は今日初めて知った。鉄板だと疑わなかった自信は、あっさり粉微塵になった。
しかも敵は二人もいる。
二人の内の一人が、もう一人から逃げる時におとりにするつもりで、自ら引き込んだ人間であることが、口惜しくてならない。
『若様の美しさがまぶしすぎて、野郎の方の翳んでいるように見て取っちまったのが私の運の尽きかね』
そうであるなら、今更足掻いても仕方がない。
開き直ったマイヨールは普段の通りに行動することに決めた。今更別の作戦を立てたところで、付け焼き刃の「演技」を見抜けぬ相手ではないだろう。
「どうしても名前で呼びたきゃソードマンで良かろうよ」
ブライトが不機嫌に答えるのを聞いた彼の口は、反射的に、いつもの通り頭の中に浮かんだ軽口じみた台詞を吐き出した。
「ああそれも海の向こうの言葉でございますな。『剣士』とは、名が体を表す珍奇絶妙なご名字で」
言ってすぐ、マイヨールは己の口を両手で塞いだ。
ブライトの指先が、ピクリと動いた気がしたのだ。