肯定しがたい「当たり前」
突然、見えてしまった。
そこに実在しない……黒光りのする尖ったかぎ爪の影が。
件の芝居小屋の地面の下から、ぬっと突き出ている。
生白く細い、しかし妙に力強い腕の形が、クレールの夢の奥底に潜み、脳漿に焼き付いていた「男の腕」とぴたりと重なる。
黒い爪を持つ指先を極限まで開いた掌が、自分に向かって一息に迫ってくる。
現実ではない。それは理解している。
だが、掌が顔面を覆う息苦しさ、爪がこめかみに食い込む苦痛、頭蓋を砕くかれる恐怖を、彼女は予感してしまった。
クレールは己の体を己で抱きしめた。
小振りで丸い頭骨に、大きな掌が乗った「現実の感覚」に、彼女は息を詰まらせた。
大きく見開かれた双眸の前に、男の顔がぬっと現れた。
クレールの肩は大きく揺れた。
半分ほどまぶたを閉ざした黄檗色の目。その向こう側に、澱んだ赤い目が、ぴたりと重なって見える。
思わず目を閉ざし、頭を振った。
再び目を開いたときには、黒い爪も赤い目も見えなくなっていた。
見えなくなったことに安堵した彼女は、ほっと息をついたが、直後、
「何故あのように見えた……?」
このつぶやきは、果たしてブライトの耳に届いたのだろうか。
「いくらか調子が戻ってきたか。めでてぇことだ」
彼は言いつけを守った飼い犬にするような、乱暴さで彼女の頭をごしごしとなで回した。
クレールは「そうではない」と言いかけて言葉を飲んだ。
悪夢に見た人出ないもの……大鬼の幻と、それをを退治する立場でハンターなど呼ばれもする人間とが「似て見えた」なとということを、当の本人に向かって言えるはずもない。
いや、それを言ったとして、ブライトは腹を立てたりはしないだろう。
「強いやつというのは、人間だろうが化け物だろうが魔物だろうが獣だろうが死骸だろうが幽霊だろうが、大差はない。
強い者の強さは、どの方向からでも突き詰めれば、結局はとにかく強いということに突き当たる」
であるというのが彼の「考え」であるらしい。
「並の人間から見たら、全部同じさね。違いは『自分に危害を加えるかどうか』だけのことだ」
そういう考えの持ち主であるから、クレールが
「幻に見た大鬼の顔かたちが貴方に似ていました」
など言ったとしても、
「ふぅん」
さも当たり前のことと言わんばかりに、鼻で笑うのみに決まっている。
それが嫌だった。
エル=クレール・ノアールも「強い者」なのである。
ブライトの理論で言えば、彼女もまた「鬼どもと同類」ということになる。
すなわち、彼女の父の命を奪い、故国を壊滅させ、母をいずこかへ連れ去った、憎い仇敵の同類ということになるのだ。
『それはだけは、認めたくない』
クレールは口を真一文字に結んだ。