公女クレールの夢3
「だがね、賢いクレール……。夢を見ている君は現実であろうよ。すなわち、こうしてここで我と問答している君は現実する。そしてそのことを、君のココは理解している」
黒光りのする尖ったかぎ爪がクレールの眼前に迫った。爪先が眉間を指している。
「同時に、君は恐れている。ここにある己を認めれば、目の前に見えるものの存在も認めなければならないかと」
尖った爪の先が、彼女の眉間から離れた。切っ先は彼女の顔の上、皮膚のすれすれを浮遊し、ゆっくりと下降する。
「さらに、君は望んでいる。夢幻の中の『鬼』が存在することを認めれば、存在しないものに抱いていた恐怖から逃れられるやもしれぬ。
『逃れられぬものよりは斬って捨てられるものの方が良い』と。
故に君の方寸こころは、我が現実のものであることを望んでいる」
指先がクレールの胸、丁度心臓の上で止まった。
「そうだよ、賢いクレール。君は我を望んでいるのだ。君自身の理性が人でないと蔑むものを、君自身の心は存在して欲しいと願って見つめている」
反論ができない。奥歯がギリギリと鳴った。
「我が君を欲して君の元に現れたように、君も我が君の元に現れることを欲している。我々は、相思相愛だ」
ニタリ、と「それ」は笑んだ。
今までの――優しげな――笑顔とは違った、下品な笑いだった。
クレールの不快感は頂点に達した。
しかし彼女の身体は、頭の先からつま先まで何かに覆われてでもいるかのようで、思うとおりに動かすことができない。
クレールは歯噛みした。
「腕を振り下ろすことができれば、私の【正義】でコレを斬ることができるのに」
押さえつける何かを、彼女は渾身の力を持ってはね除けた。
すると意外なほどあっさりと、体を覆う不快感が一息に晴れたのだ。
白鳥の羽ばたきのごとく、クレールは腕を振り上げる。
鬼神の形相を向けられた「それ」の唇は、相変わらず笑っていた。が、目元には酷く寂しげな色が浮かんでいる。
「それほど怖い顔をしてまで拒絶せずとも良かろうに」
さながら求愛を断られた優男だ。だが「それ」は気弱な男と違って落胆することを知らなかった。
黒い影がクレールの視界の隅で動いた。
素早い動作は、蛇が獲物を捕らえるさまに似ていた。
しかしそれは毒牙ではなく五本のかぎ爪を持っていた。
太く節くれ立った指が、剣を振り下ろさんとしていた細い手首に絡み付く。大きな掌が攻撃の力を総て押さえ込む。
慌てて腕を引いて逃れようとした。しかし「それ」は、それすらも許さない。むしろ彼女の腕を己の方へ引いた。
腕が引かれれば、当然身体も頭も「それ」の腕の中に引き寄せられる。勝ち誇る眼差しが、クレールの眼前に突き出された。
「放しなさい!」
逃れようと暴れるものの、力が及ばない。彼女は苦もなく組み伏せられた。
クレールの身体は「それ」の体で覆い尽くされた。筋張って硬い肉の重みが、彼女の自由を完全に奪う。
鼻先に「それ」の顔がある。
泥水色の髪、毛虫の眉、枯れ草色の瞳、楔のように尖った鼻筋、錆鎌の刃に似た唇。
それらが整然と、そして美しく並んだ顔が。
クレールは顔を背けた。
すると「それ」は彼女の耳につぶやいた。
「夜が明ける。残念なことだ」
深い落胆を吐き出す「それ」の体から僅かながら力が抜けた。それはその身そのもので作りだしていた戒めが弛むことを意味した。
クレールは両の足を突き上げた。不意を突かれた「それ」の肉体が、大きく跳ばされる。
大柄な男の身体が床に叩き付けられ、ドサリ、と鈍い音を立てた。