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黒き鏡

 グラーヴ卿とその一行は土地の豪族の別荘を借上げ、宿としている。

 こじんまりとした古民家は部屋数も少なく、従者達は押し込まれるように一つ部屋を使っている。

 そこから一つ空き部屋を置いてグラーヴ卿とイーヴァン青年の寝室がある。

 この二人が一つ部屋にいる理由が屋敷の狭さばかりではないことは、部屋を一つ空けてあるところからしても明らかだ。

 グラーヴ卿は宿に戻るなり、衣服を脱ぎ捨ててベッドに潜り込んだ。

 枕元の香炉から吹き出す紫色の煙が、足許に置かれた大きな赤鉄鉱(ヘマタイト)の鏡の中で揺れている。

 窓という窓は黒いカーテンで覆われていた。小さな(ろう)(そく)の幽かな灯火以外に明かりはなく、戸口に立つイーヴァンには、闇以外の物は見えなかった。


「不機嫌だこと」


 夜具の下からくぐもった声がした。イーヴァンは額に(たて)(じわ)を寄せて黙り込んでいる。


「あの()()()()()がそんなに気になって?」


 返事はない。暗闇の中に歯ぎしりだけが聞こえた。


「ゲニック(じゅん)(しょう)の件だけれども……あの従僕が言ったのが本当なら、あの坊や、ただ者ではないわよ」


 くつくつと笑っているらしい。夜具が小刻みに揺れている。


「お前は知らないでしょうけれど、四年前に皇帝陛下はあの老人(としより)に『新品の玩具(おもちゃ)』を四つ貸したそうよ。

 そうしたらあのおじいちゃん、すぐに四つとも()()()()しまったの。

 もっとも、そのおかげで『玩具』を改良するためのデータを得ることができたとかで、それほど叱られはしなかった様子だけれども」


 歯ぎしりの音が止んだ。

 帝都で何か「妙な物」が作られているというウワサは、イーヴァンも聞いていた。

 それは「戦で兵士が死なないで済む」代物であるらしいのだが、彼の耳にはそれ以上の情報は流れてこない。

 しかし彼の主人は少しばかり詳しく知っている様子だった。思わせぶりな口調で続ける。


「壊された『玩具』は試作品だったのだけれど、それでも並の人間よりは余程強い筈。今のお前も歯が立つかどうか……」


 夜具の隙間から白い腕が伸び、イーヴァンを指した。枯れ枝のような腕の根本で、赤い影が揺れている。


「おいで、可愛い坊や」


 突き出された手先が熱のない炎のように揺らめき、彼を招く。

 イーヴァンは寝台の傍らへ吸い寄せられた。

 白い手は夜具の中にするりと隠れた。


「強くなりたいでしょう? 誰よりも強くなりたい。それがお前の望み。そう言って、アタシの所へやってきたのだものね」


 声と共に再び伸び出た手は、何か小さな物を指先につまんでいた。


 小さな破片。薄く平たく、血の如く赤い。


 イーヴァンの喉が乾いた唾で鳴った。

 彼はベッド脇の床に、正餐式のパンを待つ咎人のごとく膝を付いて座った。

 赤いかけらは闇の中をゆっくりと上昇した。寝台の上でグラーヴ卿が身を起こしたのだ。

 白いリネンを頭からすっぽりとかぶった格好ですっくと立ち上がったその姿は、聖女か女神の立像か、そうでなければ洗濯物が引っかかった枯れ木を思わせた。


「あの頃のお前ときたら、小さくてやせっぽちで、ナイフ一本真っ当に扱えやしなかった。それを思えば、白髪のエル坊やをおチビだなんて呼べないでしょうに」


 その名が出た途端、イーヴァンの額に再び深い皺が刻まれ、目の奥に怒りの炎が点いた。


「閣下は、あのチビがお気に召しましたか?」


 怒りと嫉妬を、彼はようやくうなり声に押さえ込んで吐き出した。


「そうね。彼らは勇ましくて強くて、なにより綺麗だものね……」


 イーヴァンは歯噛みしながら主人の顔を見上げた。

 グラーヴ卿は薄ら笑いを浮かべていた。単なるからかいか、それとも本心か、イーヴァンには量りかねる。それがまた口惜しい。


「私は……私の方があの小僧よりも強い。あの場は突然で真の力が出なかっただけです。本気であれば……」


「……お前は今頃血の海の底だわよ」


 グラーヴ卿はうっすら微笑んだ顔をイーヴァンの鼻先にまで近づけた。


「わ……私をお見限りですか? 私よりあのチビ助を……」


 屈辱と嫉妬に震えるイーヴァンの唇を、卿の薄い唇が塞いだ。

 柔らかな皮膚と甘い香りに包み込まれる快楽を感じた直後、イーヴァンの喉の奥に小さな何かが落ちた。


 それは始めは小さくひんやりとした(かたまり)だったが、彼の喉の粘膜に触れたところから硬さを失ったかと思うと、(ろう)のごとくに溶けた。

 形を失い、どろりと広がったそれは、食道を焼き、胃の腑を焼いて流れる。

 イーヴァンの身体はばたりと床に倒れ伏した。全身から噴き出した汗は、すぐさま蒸発してゆく。痛みのあまり声は出せず、胸を掻きむしり、悶え苦み、しかし彼は飲まされたものを吐き出そうとはしなかった。


 その様を、グラーヴ卿は微笑みつつ眺めていた。


「そう。アタシはあのおチビさんとその連れの男が、とっても気になるのよ」


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