皇帝陛下勅令巡視大使閣下
さて。
人垣の向こう側の人々はどうしているであろうか。
何か騒ぎが起きるだろう、良くないことが起きるに違いない……周囲の人々は興味と無関心の綯い交ぜになった視線を、件の男と貴族達に投げかけている。
鍔広帽子の髭なし貴族は、赤い唇を笑みの形にしてはいる。ただし、落ちくぼんだ暗い瞳の中には笑みはない。
背後の若い貴族の目は、試合開始の銅鑼を待つ決闘士さながらの火を噴くような鋭さで男を睨め付け、刀の柄を握りしめている。
対峙する小柄ではしっこそうな男は、客受けの良さそうな笑顔を崩すどころか、時がたつほどにそれを大きくふくらませている。
やがて彼は、喝采を浴びる独演者のように大きく両手を広げ上げた。
「閣下、ようこそおいで下さりました。ああ、大変申し訳ないことです。まさか本日お着きとはつゆほども知らずにおりました。あらかじめこちらから伺おうといたしておりましたのですが」
「何の話だ!」
大声で応じたのは若い貴族の方だった。
今にも飛びかかりそうな彼を、帽子の貴族は指一つ動かしただけで制止する。
「うぬは、我らを知っていると申すかえ?」
赤い唇が甲高くざらついた声を出した。小柄な男はあくまでもにこやかに大きくうなずく。
「存じ上げておりますとも。恐れ多くも畏くも、皇帝陛下勅令巡視大使閣下で在らせられる、ヨハネス・グラーヴ様でございましょう?」
広げていた両腕を振り下ろしながら、男は身体を二つに折り曲げた。大仰な礼だった。
所作の一つ一つは総じて大きく、芝居がかっている。……芝居小屋の関係者であるなら、それも当然かも知れない。
その大袈裟な身振り口ぶりが若い貴族にはどうにも気に食わない様子だった。声を張り上げる。
「それを知っているならば、我々が何を言いたいか、判るな!」
男は腰を曲げたまま、顔だけをひょこりと持ち上げた。
「さぁて、手前にはさっぱり判りかねます。もしや、ご挨拶が遅れたことをご叱責でありましょうか?」
飄々と言い、首を傾げてみせる。
若い貴族は益々苛立った。すぐにすっぱ抜けるように刀の鞘に左手を添えて、半歩踏み出した。
「とぼけたことを言いおって!」
喚きながら、しかし彼は、実際に剣を抜くことと、それを振り回してかの男を叩き斬ることはしなかった。帽子の貴族……ヨハネス・グラーヴが、今度は大きく右腕を上げて彼を制するからである。
「よい子だからお下がり、可愛いイーヴァン」
仔猫をあやすようにグラーヴが言うと、イーヴァンと呼ばれた若い貴族は奥歯をギリギリと軋ませ、元の立ち位置へと半歩退いた。
グラーヴ卿はイーヴァンの不満げな顔に小さな笑みを投げた。優しげな笑みである。
小男にも笑顔を向けた。こちらは冷たく尖った微笑だった。刺々しいが、しかし美しい。