悪い癖
右筆レオン・クミンは父の学友の子だ。幼いクレール姫にとっては、五つか六つ年上の兄のような存在だった。
寡黙な男だった。しかし、必要な時には例え相手が己より高位の者であっても遙かに年上であっても反意の嘴を夾むことを許さぬほどに雄弁になる。
痩せて背が高く、額の広い落ち着いた顔立だった。実の年齢よりも十歳、下手をすると二十も年上に見られることがあった。
物静かで、知恵が回り、筆が立つ彼は、忠実な仕事ぶりが主君に愛され、重用されていた。
エル・クレールは件の小柄な男の顔をちらりと見、その隣に、レオンの生真面目な顔を思い浮かべた。
男は人当たりの良さそうな笑みを満面に浮かべ、手揉みしながら貴族達を待ちかまえている。
男の脂ぎった作り笑顔と、懐かしい生真面目な顔つきとに、重なり合うところは一点もない。
視線をさらに動かすと、ブライトの顔が見えた。日に焼けた無精髭の中に「一触即発に巻き込まれたくないと願う匹夫のような不安げな表情」を作っている。
『やっぱり良くないことを考えている』
連れの男装娘があきれ顔で自分を見ていることに気付いた彼は、大袈裟に肩をすくめてみせた。
「くわばらくわばら」
大柄な、どこからどう見ても「腕っ節は良いが素行の悪そうな黒騎士」という風体で、実際腕の立つ剣士でもあるブライトが、小心な振る舞いをするのは……回りの者にはどう見えるかわからないが……クレールには随分と不自然な素振りに見えた。
ただ、こうした不自然を「この男は平気でする」ということを、彼女はまた十分理解している。
良くないこと、つまり、人をからかったりおちょくったり、あるいは人でないモノを騙し討ちにしようと言うときに、この男はこういった「振り」をするのだ。
ブライト・ソードマンという剣客は、時として自分の力量を隠したがる「悪癖」を持っている。
もし彼に敵対する者がいたとしたら、相手は彼を見くびって油断して掛かるだろう。そう仕向けられていることに気づきもしない。そうして、からかい倒されて散々な目に遭うか、あっけなく肉体を四散させられることとなる。
彼は背中を丸め、大きな体をテーブルの上に身を縮めた。指先でクレールに耳を貸せと合図を送る。
彼女は身を乗り出させて、彼の口元に耳を近づけた。
「アレは食わせ者だぜ。後学の為に近くに寄って見物した方がいい」
周囲をせわしない素振りで見回しながら、小声で言った。端から見れば、小心者がうわさ話をしているように見えただろう。
「あなたは本当に酷い人。……あの男も、それから貴族も、一度にからかおうだなんて」
エル・クレールは断定的に言う。
ブライトは一瞬だけ唇の端に図星の笑みを浮かべたが、すぐさま作り物の怯え顔に戻った。
「おまえさん、俺をどれだけ性悪だと思ってるンだ?」
「あなた自身が気に入らない者に対しては、この世で一番の悪党になりうる方だと信じて疑いません」
「お褒めにあずかり恐悦至極」
彼は目の奥に悪戯な光を光らせた。そっと立ち上がり、背中を丸めて争乱の中心に向かって忍び足を進める。
「何が楽しくてああやって人をからかうまねをしたがるのだろう」
クレールも立ち上がった。
立ち上がったが、ブライトのようにこそこそした「振り」はしない。
むしろ、それとは逆の「振り」をしている。いざとなればもめ事の仲裁に入ろうかという、いかにも騎士道的で士大夫然とした様の血気盛んな若者を装って、胸を張った。