足掻き
【月】の上半身が弾かれたように飛び上がった。
人の背丈ほども跳ね飛んだあと、真っ逆さまに墜落した。
上半身の表面には大きな罅が走る。
それは破断しながら、音に表せず、文字にできない、不気味で恐ろしく、哀しい悲鳴を挙げて、のたうった。
同時に下半身の方は、金属の軋みに似た音を立てて暴れ回った。
【月】が二つに分けていた体は、それぞれが別々に、不自然に振動する。
下半身は両足をてんでに動かした。壊れて倒れた撥条仕掛けの玩具の様相だ。
上半身の方も、肩と言わず首と言わず、関節らしき部分をすべてバラバラの方向に曲げて、激しく振り回している。
でたらめに動きながら、やがて下半身は収縮を始めた。暴れ跳ね回りながら縮み、縮みながら人の脚の形を失ってゆく。
上半身も同様に縮む。
縮んでゆく体から、他人から奪った腕が落ちた。目玉が落ちた。頭蓋の上半分が落ちた。
だが、肥体に浮かんでいた赤い半球は落ちずに残った。
鼻の上に残った半球は、赤々と禍々しい光を発している。
その下の、口らしき機関が動く。
「ああ、誰も彼も、皆、アタシの邪魔をするのね。
何故なの? アタシが、醜いから?
そうだわ。皆醜いアタシが嫌いだから、アタシの邪魔をするのだわ。
アタシのやりたいことをさせず、欲しいものを与えず、大切なモノを奪う……。
そうなのでしょう?
ああ、もしアタシが美しかったなら、皆、アタシを愛してくれるのに……」
自由の利かない体を揺すり、彼女は未だ倒れたままのクレールに襲いかかった。
「お前のその顔を、お寄越し!」
クレールは何も言わず、左手を前に差し出した。
握っていた【正義】の武器が見る間に光を失い、消えた。
今度の消失は【正義】の意志によるものではない。もちろん【月】による妨害に影響を受けたものでもない。
【正義】の使い手であるクレール自身が、その意思で「矛を収めた」のだ。
「あなたは……あなたの心は、あなたが愛した人を討ったとき、もう死んでいた。
それは多分、あなたが【月】の死せる魂に魅入られるずっと以前に。
あなたは『鬼』に堕ちるより以前に、もうこの世の人ではなくなっていた」
「小娘が、利いた風な口を!」
子供の拳ほどの大きさの赤い半球の中で、【月】は叫んだ。
しかし、ヨハンナ・グラーヴの体はぴたりと動くことを止めていた。
磨かれていない鏡のような彼女の顔に、ボンヤリとした人影が映り込んでいた。
目の前にいるのはクレールだ。
彼女以外の誰の姿も映るはずがない。他の誰の姿も見えるはずがない。それなのに、ヨハンナ・グラーヴには違う人物に思えた。
全く別の誰かが、自分を見つめている気がした。
「お前の顔を寄越せ。お前の……顔を、アタシの顔を……アタシの顔……」
ヨハンナ・グラーヴの魂の断片に思い浮かぶのは、昔の自分、古い知己、忘れたい者、思い出せぬ顔、知らぬ他人。
「アタシの……私の……ああ、大切な……私の……愛しい人……」
【月】の叫びは、小さく弱くなり、そして消えた。