武門の家柄
城伯の一人娘……ヨハンナ・グラーヴは、瞬く間にテーブルに着いていた男達を斬り倒した。
切り倒したが、男装した姫の太刀筋は、彼らの急所から微妙にずらされている。
彼らは即死しなかった――そう、不幸なことに。
城塞都市の法律執行職を司る城伯は、本来は戦争の最前線施設の司令官だった。故に戦乱の時代にはその職にふさわしい人材、すなわち特に武に優れた者や、兵法に達者な者がその称号を得、職を任じられ、城下町に君臨した。
大きな戦の無くなった太平の世では、戦争における司令官という職務の部分は完全に形骸化している。ただ城伯の称号だけが他の爵位同様に漫然と世襲されていた。
だが、グラーヴ家はいささか違った。
初代は武を持ってハーン帝国の始祖ノアール・ハーンに仕え、武によって取り立てられた人物とされている。
武によって与えられた領地の、武によって守り抜いた城の中で、彼の武功を讃える数多のモニュメントが人々を睥睨していた。
グラーヴ家の家訓は、
「武人として得た地位は、武人として守らねばならない」
である。
凜々しい肖像画が、雄々しい胸像が、堂々たるレリーフが、|猛々しい壁画が、華々しいな天井画が、その言葉を発し続けている。
四百年の時が流れ、平和な世となっても、歴代の当主達は、
「武人であること、軍人であること、武門の誇りを持つこと」
を己と己の子孫達に強いた。
ヨハンナ・グラーヴの父親であるヨハネス・グラーヴ城伯が、ただ一人だけ授かった娘を、世間並みの「娘」として扱おうとしなかった理由も、その血脈に染みついたの妄執にある。
「グラーヴ家の総領は、勇猛な騎士にして苛烈な戦士でなければならない」
ヨハネス・グラーヴ城伯は娘に己の名を継がせた。父は娘を「倅」と呼び、家人達は「若君」と呼んだ。
ただ一人、母親だけは彼女をヨハンナの女名前で呼んでいだ。ただし、夫の目と耳が届かぬ場所でだけ、だった。
やがて若いヨハネス・グラーヴは、父親の望む通りの剣術使いになった。城下で「彼」に敵う者は数えるほどしかいないほどの手練れになった。
父が急死するまでの間、若いヨハネスは「理想的な領主の嫡男」であり続けた。
つまり、花婿の友人達が即死しなかったのは、攻撃者の技量が足らなかったためではないということだ。
若き城伯は、彼らを殺すことも生かすことも、自在に決めることができる腕前を持っている。あえて急所を突かず、思うところあって止めを刺さなかったのである。
それは慈悲によるものでも憐憫からのことでもない。城伯は彼らの命を惜しんでなどいなかった。
彼らは長い間、悶え苦しみ続けた。血潮が流れ尽きるまで、彼らは生きていなければならなかった。
彼らの霞む目に、花嫁と花婿の最初で最後の儀式を見せつけること。
それがヨハネスと呼ばれたヨハンナの望みだった。
床に広がる友人達の血に足を取られた花婿が尻餅をついた。
男の服を着た未来の花嫁の、青白い顔を見上げて、
「酒の上の冗談だ。羽目を外しすぎた。許してくれ」
花婿は声を震わせる。
ヨハネスと呼ばれたヨハンナが小さく笑った。花婿の顔に安堵の血の気が戻ったのは一瞬のことだった。
明日彼の妻となるはずだった老嬢は、微笑を湛えたまま長剣を振った。
花婿の胸板が浅く斬られた。
長剣の切っ先にまとわりついた花婿の血を、花嫁は左の紅差し指で拭った。鉄の匂う朱の液体が指先からどろりと流れた。