アナタは、ダレ?
エル=クレール・ノアールは気付いた。
ならした土の上に薄い布を敷いの移動式芝居小屋の床の上の、無数の椅子の残骸の中に、彼女は身を横たえている。
右の二の腕の関節のない場所が折れ曲がっている。
重量のある物体に全身を押さえ込まれているように、身体が重い。
しかし、意識は鮮明だ。
脳漿の中で何かが沸騰している。
湧き上がってくるその何かが、骨折の苦痛も、わずかな失神の間に見た不可解な幻視の恐怖も、すべて取り払う。
クレールは跳ね起きた。
折れた右腕は動かしようがない。その腕に掴まねばならない武器もない。
そんな事実など、絶望に値するものか。
「右腕など……不要!」
理由は簡単だ。
左の手に、力がある。
それは先ほどまで使役していた【正義】の武器と似ていて、しかし全く別の、そして弱い力だった。
幽かな、ほんの僅かな活力だったが、
「戦える!」
壊れた椅子の木切れを踏みつけ砕き割りながら、クレールは床を蹴った。
低い軌道の跳躍で、着地した二歩歩先に、女の裸身の形をした黒い物体――【月】が倒れている。
クレールが腰を落として低く身構えるのと時を同じくして【月】が動いた。
腹の横から幾本もの尖った「脚」が突き出た。
石像のように強張った【月】の体が床から持ち上げられる。
脚が、がさがさと動いた。
クレールによって割られた頭蓋が、元の形に戻っていた。
その代わりに【月】の上半身の下にあった、伝令官の本来の頭がなくなっている。
「姿をお見せ、かわいいエル坊や! その美しい顔を、映し盗ってあげる!」
【月】が叫び、腕を突き出した。
伸びた腕がクレールの喉元に絡みつく。
腕はクレールの首を締め付けながら収縮する。
クレールは両足に力を込めた。
【月】の上体が起きた。
このとき【月】は気付くべきだった。
エル=クレール・ノアールが【月】の腕を振り払おうとしなかったことに。
彼女の足の裏が床に張り付いたかのように動かず、逆に【月】の身を引き寄せようとしたことに。
立ち上がった【月】の体の、曇った鏡面に、白い顔が映り込んだ。
鋭い眼差しには、戦う決意が見える。
優しげな口元には、慈愛の微笑がある。
【月】の顔が歪んだ。
「お前は、誰?」
エル=クレール・ノアールの顔面は、埃で少しばかり汚れている。
頬や額には血の滲む擦過傷と小さな切り傷とがある。
頬骨のあたりは打撲の痕が赤く腫れている。
しかしそれらは彼女の顔貌を他人にしてしまうほどの変容とは言えない。
彼女の顔立ちは、どこか幼さのある若者ようで、意志の強い少年のような、世間知らずな生娘のそれのままである。
クレールの顔が【月】の鼻先に近づいた。【月】は目玉を――目玉に見える部位を――見開いて、彼女の顔を見た。
曇った凸面鏡に、女の顔が映った。
気の強そうな顔だった。
化粧気のない顔だった。
薄い傷跡がいくつも残る顔だった。
酷く痩せていた。
日に灼けた皮膚が髑髏の上にぴんと張られた顔の、落ちくぼんだ眼窩の奥で、灰色の瞳をぎらぎらと光っていた。
【月】の目が、針のように細く鋭く変じた。
「これは……アタシ……」